ホテル「ソラスフォレスト」と季節の人々 ~44歳男性コックと25歳女性コックの不器用関係と不思議なスタッフと~

物書き赤べこ

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第2章 季節の変わり目は複雑な天気に

第133話 決勝当日 ~朝~

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 決勝当日の朝は思っていたよりも静かに来た。

 まだ薄い灰色の空。
 ホテルの森は風もなく霧だけがゆっくりと地面を這っている。
 鳥の声は遠く建物全体が息を潜めているようだった。

 結は客室の窓際に立っていた。

 カーテンは半分だけ開けてある。
 ガラス越しに見える景色はいつもと変わらない。
 けれど彼女の内側だけが明らかに違っていた。

 ベッドの上にはきちんと畳まれたコックコートと白い前掛け。
 机の上には昨夜整えたメモ。

――トマト。貝。鯛。豚。ナッツ。
  走り書きのようでいてどこか儀式めいた文字列。

 結は深く息を吸った。

 肺に入る空気が少しだけ冷たい。
 胸の奥にあった緊張は昨夜よりもはっきりした形を持っていた。

 怖い。
 それは確かにある。

 だが、以前のような足元が崩れるような恐怖ではない。
 もっと鋭く研ぎ澄まされた感覚――刃物の冷たさに似ている。

 時計を見る。
 出発まであと十分。

 結は鏡の前に立った。

 白衣に袖を通す。
 ボタンを一つずつ留めるたびに
 背筋が自然と伸びる。
 胸元の名札に指先が触れた。

「結」

 小さく声に出してみる。

 その名前はもはやただの自分ではなかった。
 ここまで来た自分そして今日の厨房に立つ自分の名前。

 結は両手を見つめた。

 昨日まで何度も包丁を握り鍋を振り皿を拭いた手。
 震えていない。
 むしろ落ち着いている。

――私はできる。

 根拠のない自信ではない。
 積み重ねた時間が静かに背中を支えていた。

 車寄せに出るとすでにホテルのスタッフが待っていた。

 京子と快が真っ先に気づく。

「結!」

 いつもより少しだけ高い声。
 だがその目は真剣だった。

 舞は両手を胸の前で組み小さく頷く。
 公は無言で親指を立てた。
 派手ではないが確かなエール。

 結は一瞬だけ彼らの顔を見渡した。

 ここに来るまでどれだけの人間が関わってきたか
 今さらながらに思い知る。
 厨房の仲間、ホテルのスタッフ、そして奏。

 その視線の先に彼がいた。

 奏は車の横に立ち腕を組んでいる。
 特別な言葉はない。
 ただ、結をまっすぐに見ていた。

 結は小さく息を整え歩み寄る。

「準備はいいか」

 低く短い問い。

 結は一拍置いてはっきりと答えた。

「はい!!」

 その声は自分でも驚くほどよく通った。

 車に乗り込む直前結はふと立ち止まった。

 振り返る。
 朝の光に包まれたソラス・フォレストが静かに佇んでいる。

 ここで笑った。
 ここで悩んだ。
 ここで怒られ励まされ料理を磨いた。

 結は胸の内で小さくつぶやく。

――私はこの場所の料理人として戦う。

 恐れはある。
 緊張もある。
 だが、それ以上に確かな芯があった。

 車のドアが開く。
 結は一度だけ深く息を吸い乗り込んだ。

 エンジンがかかる。
 静かに走り出す車。
 後ろに流れていく森。

 会場へ向かう道はまだ空いていた。

 窓越しに景色を眺めながら結は目を閉じる。

 頭の中に五皿がはっきりと浮かんだ。

 赤。黒。白。茶。金。

 一つの物語としてすでにそこにあった。

 結はゆっくりと息を吐く。

――今日、私は料理で答える。

 その決意とともに車は決勝の会場へと進んでいった。
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