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98.その張りぼての女神、無数の蝶となりて
しおりを挟む――もしかして、あれも『照明(ライト)』じゃない?
緑髪に緑の瞳の少女は、感情の見えない表情で問う。
娘に入っている男が肯定したことで、話は進んだ。
「――多色照明と同じ原理だからな。おまえにはわかるよな」
「――見る機会もあったしね。まあとにかく、それができるんだったらやり方は絞られるね」
正直に言えば。
作戦を練る話に参加しているヘイヴン・ディル・フロントフロンは、状況を打破するために知恵を絞っている「中身が違う兄妹」に、直感的なもの感じていた。
神は信じない。
祈ることもあまりしないし、不可解な現象も迷信の類も、必ずトリックがあると疑う。
時折理解に苦しむ感情ではなく、数字や理屈といったわかりやすいものを主軸に、物事を考えるタイプだ。
なのに。
数字や理屈ではない、そう、当人が最も信じがたい感情で、なんの根拠もなく思った。
――ああ、この二人は、この状況をどうにかするために何者かに導かれたのだな、と。
誰も見たことがない、文献にさえ残っていない山のような魔物に対し、この二人だけは一度も諦めることを考えていない。
いや、むしろ、打つ手が見つからない窮地なのに、当たり前のように打開策を持ってきて話している。
それも、実現不可能としか思えない常識外れの方法で。
どう考えても、この時のためにこの二人が存在しているとしか思えなかった。
「――俺もよくわからんが、まとめるぞ」
と、娘に入っている男が、娘の形で男の口調で違和感丸出しで話す。
「――まずおまえが巨大化する。俺はそれに合わせて『照明(ライト)』で色付けして、神の形に見えるよう照らす」
「――できるんだよね?」
「――遠目を誤魔化すことくらいはな。細かい装飾や細部の模様なんかは無理だぞ。髪は毛の一本一本に魔力を込めたからできたんだ。大きい色つきの形を重ねて、おまえの身体の表面に『付着』させるのが精々だ」
「――昔のポリゴンみたいな感じでしょ? 充分だよ。周辺の人は避難させるから、近くで見られることはないし」
口を出す必要がなかったので黙っていたヘイヴンが、ここで口を開いた。
「はっきり見せないという手はどうだろう」
中身が違う兄妹が振り返る。
「と言うと……」
「仔細はぼかす、という意味だ。光の強弱で鮮明さを欠くのは可能だと思うが」
「それだ。それ採用で。それをやっときゃ細部が適当でもバレないっしょ」
細々と口は出したが、大部分は二人の決定のままである。
「――じゃあそれで行こう。あとは『大声』が必要だね」
他宗教や他国、あらゆる方面に対する「この出来事はタットファウス王国とは関係ない」という声明だ。
これを行えば「特別に神に見込まれた国」という、問題があるレッテルは貼られないだろう。少なくとも表向きは。
ヘイヴンからすると、もう少し策を練り裏工作をしておきたいところだが、その時間はない。
完全に陽が昇る前に。
早朝、まだ寝ている者が多いタイミングで仕掛けたい。
目撃者は多数いる、しかしできれば目撃者が少なくて済むタイミングで。
それこそ神話の専門家や神に詳しい者、他教の神官などなど、一目で嘘だと見破りそうな者が、一人でも多く見ないように。
「『声の拡散』なら、クリフに頼むといい。彼は風魔法と空間魔法の二属性持ちで、その手の通信技術に長けている。それに」
ヘイヴンは、娘に入っている男を見た。
「君は親しいだろう。クリフなら職業柄、事情を話さずとも察してくれるだろうしな」
「あー…………そっち方面も、完全に知ってたり、するんですかね?」
引きつった娘の顔に、「あとでゆっくり話そうか」とだけ告げ、送り出した。
元冒険者ギルドの長クリフの名を呼びながら、二人は民の中に駆けていく。
「すまんな、レン。君にはまるで関係ない戦いに巻き込んでしまって」
あとを追おうとする娘付きのメイドに、ヘイヴンは詫びる。
本来なら娘はここにはいないはずで、ここでの活動全てが、娘付きのメイドにとっては仕事の範疇にないことだ。
なのに、戦場と化したこの地に駆けつけ、夜を徹して民を守ってくれた。
契約を交わした条項に……簡単に言うとメイドの本分に沿わない状況である。決して娘の身体がここに来ようと、レンが付き合う理由はない。
見捨てる道もあったのだ。
特に、守るべき者が他にある彼女は。
しかし。
「私の仕事は護衛ですから。あの方の行く所に私が行くのは当然です」
一礼し、レンは走り去った。
「……仕事の領域はすでに超えていると思うがね」
その言葉は誰の耳にも届かない。
しばし立ち尽くし、ヘイヴンは考えていた。
策は動き出した。
間もなく、彼らが色々とアレなことをして、巨大亀を撃退するだろう。
今、ヘイヴンにできることは、あるだろうか。
――一つだけ、ある。
「ハウル、ジュラルク」
フロントフロン家の馬車の傍で仮眠しているはずの執事たちを呼ぶと、すぐに目の前に現れた。
どうやらあの兄妹と相談している時から、支度を整えていたようだ。
こんな場所でこんな状況ながら、しかし服装や態度に一糸の乱れもない。
だからヘイヴンも、屋敷にいる時と同じように、いつも通り命じる。
「これより魔物討伐作戦が決行される。民に触れ回れ」
「「かしこまりました」」
討伐作戦が成功するかどうかまでは、わからない。
目の前で相談を聞いていたヘイヴンでも、不可解な部分がたくさんあった。
時間の関係上いちいち意味を尋ねる間もなかった。
だが、損はない。
民が見ている上で討伐に成功すれば、それは家と故郷を失い、疲弊し、明日へ不安を抱える民たちの励みになる。
目に見える吉報は、復興の弾みにもなるだろう。
もし失敗しても、現状と大して変わらない。
今が、これより下がないほどの、どん底なのだから。
「ヘイヴン」
「起きたのか」
声だけでわかる。
かつて、恐らく前にも後にもないだろうと思うほど、理屈ではなく感情に狂う恋をし、なけなしの愛情を注いできた妻の声だ。
振り返れば、出会いからこれまで、共に歩んだ年月だけ幸福の時間を刻んだファベニアがいる。
「あの子は行ったの?」
「ああ。なんとかするそうだ。君も見ているといい」
「あら。すごいのね、あの子」
それよりだ。
「ファベニア、きっともうすぐ救援が来る。君はその時、実家に帰りなさい。できればメイドや使用人も連れて行って欲しい」
「そう。あなたがそう言うなら」
個人的なことはともかく、政治的判断やフロントフロン家の舵取りは、ファベニアはヘイヴンの判断を信じることにしている。
少し前まで、満足に歩けないほど身体が弱かった妻は、己のことで夫の足を引っ張ることだけはしまいと、結婚する時に決めている。
「それで、あなたはどうなるの?」
「成功しても失敗しても、すぐに王都に更迭だな。従わない理由もない」
今のヘイヴンは、「王より預かっていた領地を捨てた領主」である。
その罪は確実に問われるし、十中八九身分を剥奪されるだろう。
街が全壊しているのが、返って幸いである。
もし街が残っていれば、その利益を求めてヘイヴンを死刑にまで陥れ、領地を貰おうとする貴族も出たかもしれないが。
今のフロントフロン領地を貰ったところで、なんの利益もない。
産業も商業も、畑さえも壊滅している。
むしろ自腹を切って民の面倒を見て、復興作業に専念しなければならないだろう。こんな面倒な不良債権を欲しがる者はまずいない。
「恐らく、身分剥奪の上に、罰として復興作業の責任者を任される……くらいが妥当だろう。あとのことはわからん。だから」
「離縁ね」
「うむ」
まだ領主フロントフロンの名前が生きている内に、ファベニアをベルトゥラン侯爵に返す。これで妻は夫の没落につき合わせずに済む。
「子供たちを頼む」
「ええ」
ファベニアは全てを理解した上で離縁に合意し、そして夫に歩み寄った。
「――浮気は許しませんよ?」
「――君こそ。私は出会ったあの日から君しかいない。私を捨てないでほしい」
抱き合う二人は、信じている。
しばらく離れ離れにはなるが、それでもまた共に歩む時が来ることを。
それからほどなくして、民が騒ぎ出した。
曰く――女神が降臨した、と。
『――耳ある者は聞き、目ある者はわたくしの姿を見なさい』
作戦が始まった。『大声』もちゃんと用意できたようで、抱き合うヘイヴンとファベニアもそれが見える場所に移動した。
そして、唖然とした。
「ヘイヴン。あれ、何?」
「……不吉な見た目で信者が少ない神、とは言っていたが」
ある程度予想はしていたが、不吉だ。不吉すぎた。
巨大な形はいい。
神が大きいのはむしろ自然と受け入れられなくもないから。巨大亀より大きいのも、頼もしさを憶える。
ドレスなのもいい。
型として古い、袖の膨らんだ旧式だが、古い物も古いなりに味がある。
だが、あの仮面はいただけない。
やたら無数の目が描かれている不気味な仮面は、いったいなんなのか。何が目的なのか。いや、見てくれに目的などないのかもしれないが。
『――わたくしは死者を罰する神・ハイロゥ。この愚鈍な亀が犯した罪を償わせるために降臨しました』
死神だ、と叫ぶ大人。
ただただ跪き震えながら祈る若者。
わっと泣き出す子供。
見ちゃいけません、と、何もわかっていない子供を庇う母親。
民たちは怯えていた。
昨夜、突如訪れた理不尽な破壊と恐怖とになんとか一難を越えたと思えば、今度は見るからに不吉な神が降臨してしまった。
しかし、まあ、あれだ、注目度はバッチリである。
たとえ恐怖の権化が巨大亀と並んで増えたとしても、見た者を呪いそうなほど不吉な仮面を着けていようと、注目だけは集めている。
それに、あの不吉さであるなら、熱心な宗教家が無用な火種を起こす可能性もかなり低い。
アレを不当に貶める噂を流したり、といった喧嘩を売ろうなんて者は、さすがに出てこないだろう。
不吉な女神は黒い日傘を構えると、我関せずとばかりに――一説では「寝ぼけている」という巨大亀の頭を、思いっきり横殴りにした。
ドォォォォン!!
あの夜、亀があらゆるものを踏み潰したのと同じくらいの衝撃が、辺り一面の大地を揺らした。
あの大きさである。
あの大きさで、思いっきり殴れば、音も衝撃も当然ものすごい。
それこそ、阿鼻叫喚と言った体で騒いでいた民たちが、静まり返るほどに。
「やったか!?」
冒険者の誰かが言う。
振り抜いた日傘は、砕けていた。
神らしさはないが、至極わかりやすいこの世の物とは思えないほどの打撃を加えられた巨大亀は――
「……駄目だな」
巨大亀に変化はなかった。
一瞬止まったかに見えたが、構わず歩き出した。
傍らに立つ不吉な女神に、視線さえ向けようともせず。
大地が揺れるほどの大いなる一撃だったのに、まるで効いていない。
しかし、それだけでは終わらなかったのは、不吉な女神も同じだった。
彼女は持ち手だけになった日傘を捨て、スカートの両端を手で摘んだ。
『――しつこい殿方は嫌いよ』
そう言った瞬間、巨大亀が沈んだ。
何があったのか、地響きを立てて巨大亀の上半身が大地に沈み込んだ。まるで落とし穴に突っ込んだかのように。
落ちた上半身に、しかし頭だけは落とし穴の淵に引っかかり、やや上を向いて固定される。
そこに。
その頭に。
落ちた。
『――ごめんあそばせ』
優雅にたくし上げたスカートの中にあった片足が。
高らかに上げられ、容赦なく踏み降ろされた片足が。
毒々しいまでの赤いハイヒールが、巨大亀の脳天に落雷のような一撃が落ちた。
先程の日傘のような衝撃と打撃音に、空気が、空が、太陽までも震える。いや、震えたのは大地か。
そして、音も立てずに、不吉な女神は光の粒子となって消えた。
様々な色の無数の蝶が舞い、まるで女神が蝶の化身であったかのように、天に向けて飛び跡形もなく消えていく。
「お、おい見ろ!」
美しい光の奔流に見蕩れている間に、見た。
いや、正確に言うと、見ることはできなかったのだが。
巨大亀は消えていたから。
まるで天に昇る女神と共に行ってしまったかのように、姿を消していたから。
不吉な女神が去り。
自分たちから全てを奪った巨大亀がいなくなった。
――一夜の内に起こった最悪の事件は、こうして幕を閉じたのだった。
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