さよならまでの準備稿

ちみあくた

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 夫・杉野猛が植物状態へ陥った事を告白した後、言葉に詰まりながら、澄子が語った話によると……。

 猛の主治医が、三年ぶりに受けた人間ドックのデータから脳内へ潜む動脈瘤を見つけたのは、今から半年前の事である。

 海外向け特殊建材を扱う商社で営業部の次長を務めていた猛は、律儀に仕事の引き継ぎを行った後、飯田橋にある病院へ入院。

 動脈瘤は脳幹と近い位置にあり、回頭手術ではアプローチが難しいとの医師の判断でカテーテルによる手術を行う事になった。
 
「まぁ、心配いらないよ、僕ね、そこそこ運が良い方だから」

 能天気な笑顔でそう言い、怯える妻を明るく力づけた猛だが、夫婦に訪れた結末は余りにも残酷だ。

 手術中の些細なミスにより動脈瘤が破裂。溢れた血液の圧力上昇は脳細胞の壊死を引き起こし、一昼夜に及ぶ医師達の奮闘も虚しく脳死判定が下されたのである。





「泣きましたよ。ええ、泣きました、私。何日泣いたか覚えてない位、泣いて、泣いてね、でも……」

 無精髭を指先で撫でながら聞き耳を立てる店主へ、澄子は取り留め無く喋り続けた。

「何かその……今、哀しくないんですよね。あの人が死んだって実感が無いの。だって、まだ病室で寝ていて、体だって、ホラ、温かいし……」

 左手の細い指が、何かへ触れるように目の前の空間を撫で、古いプラチナリングが鈍い輝きを放つ。

「夫は……猛さんは万一の時、延命治療しないという意志を書面に残してた」

「その事、家族には?」

「聞いていません」

「……そう」

「患部の位置が悪いから、あの人、植物状態へ陥るリスクをかなり前から覚悟していたんだと思います」

「昨今の医療技術なら、回復不能の患者を幾らでも延命できる。大事な人を長く苦しめたくない気持ち、判る気がするよ、俺にも」

「で、先日、お医者様から全てを聞かされ、人工呼吸器を外すかどうか、その最終決定を託されました」

「あんた、合意したの?」

 返事が返って来るまで、しばらく沈黙の間があった。

「私……夫の両親や短大に通う娘とも話し合って、彼の意志を尊重しようと」

「ま、他にどうしようも無いわな」

「やっぱり実感、湧かないんですけど」

 実感が無い。

 そう言う彼女の瞳は酷く虚ろで、今も夫の幻影を追いかけ、現実から逃げ回っている様に見える。

「合意を伝えた次の日、あの人が眠る病室へ行きました。持ち込んだ夫の品を整理しようと思って……でも、その中に見覚えの無い小さな鍵が混ざっていたんです」

「鍵? あんたが知らないなら、旦那が持ち込んだって事かい?」

「私、夫の書斎にある机の鍵だと思いました。一番上の引出しだけ、鍵を掛けられる仕組みになっていまして」

「つまり家族に見せたくないものを、そこへしまってた訳ね」

「試しに鍵で引出しを開けてみたら、中にこのお店の……幻灯屋の紙袋とシナリオ一冊、それに古いスナップ写真が二枚入っていたの」

 澄子は紙袋を逆さにし、入っていた写真を店主の前へ落とした。

 その一枚は若き日の猛だという長髪の青年を中心にし、自主映画の撮影スタッフらしき若者が勢揃いしている集合写真。

 もう一枚は端正な顔立ちの女が二人、背中合わせで寄り添う構図だ。

 反対側を向く女と女、其々の容貌が酷似している事から、同じ人物の姿を重ね合わせ、合成したトリック写真だろうと思われた。

 背景になっているのはどちらも同じ場所、ツートンカラーの壁と木目調の四角いテーブルが目立つレトロな感じの喫茶店である。
 
「夫が学生の頃、映画を作っていたなんて、私には一度も話した事ありません。きっと、この綺麗な人が主演女優の栗原さんなんでしょうけど……」

 店主は二枚の写真を見つめ、一瞬、廊下の方へ目をやる。

 彼の妻である女店員は二階へ上がったきりで、気配が無い。

 澄子には、先ほど垣間見た彼女の素顔が写真の女=栗原芽衣と似ている気がしてならなかった。

 やはり、この店と夫には単なるシナリオの売買だけではない、何か特別な関係があったのかもしれない。でも、それが何か見当も付かず、写真を睨んだままの店主へカマを掛けてみる。

「あの……御主人は写真に見覚えありません?」

 身を乗り出す澄子へ店主は即答せず、逆に別の質問で切り返して来た。

「あんた、ホンの中身にチャンと目を通したか?」

 澄子は素直に肯くしかない。





 検討稿とあるシナリオの中身は幻想的だ。

 馴染みの喫茶店に立ち寄った際、強い眠気に襲われ、一人微睡む大学生が、気付くと老いて死を迎えつつある自分自身の傍らに立っており、走馬灯の如く浮かぶ己の人生を振り返る。
 
 刹那の如く過ぎ去り、忘却の彼方へ消えゆく生涯……。
 
 老人としての彼には過去、大学生の彼にとっては未来である光景を共に見つめ、幻想の彼方で語り合うのだ。

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