7 / 7
7
しおりを挟む「ある意味、確かに死んだのさ、栗原芽衣は」
「……後悔してるんですか?」
「いや、御蔭で今の俺には、男が持つ馬鹿な思い込みも、女の弱味も、両方それなりに理解できちまうンだ。中々に得難い資質だと思わないか?」
「……確かに、そうですね」
「家内は良くしてくれるしさ。古本屋にせよ、あいつの実家でな。東京へ戻った後に跡を継いだんだが、意外と俺の性に合ってる」
男としての暮しに慣れ、生活が安定した頃、かつての友人へ連絡と謝罪を試みたそうだが、直接会う事ができたのは結局、杉野猛だけだったらしい。
「それにしても、つくづく変な奴だよなぁ、あんたの旦那」
「……変? どんな風にです?」
「俺の失踪と映画の挫折で心が折れかけた癖して、あの時はあれで良かったと言い張る。昔の脚本を俺に預け、処分しろと言う。今の人生に満足しているからって」
「う、嘘っ!?」
「若い頃の美化された恋の記憶が、淡い幻想ごと粉々に砕け、吹っ切れたのかもな。何せ、惚れた女と再会したら、こんな髭面の中年男になってンだから、よ」
澄子は声を上げて笑った。笑わずにはいられない心境だった。
幻灯屋を訪れた時、夫もきっとこうだったのだろう。
「憑き物が落ちたあいつと、家内が淹れてくれた紅茶を呑みながら、時を忘れて言葉を交わした。あんたとのなりそめやノロケ話も、結構聞かされたぜ」
「……私の話を?」
「就職して二年目の春、大学時代に書いたシナリオとそっくりなシチュエーションであんたと出会った時、運命を感じたとさ」
運命という言葉の響きが平凡な自分と似合わない気がして、澄子は目を丸くした。
「二人が添い遂げるまでの様々な展開を映画のシーン風にカット割りして心へ描き、その後のデートやプロポーズも思いっきり気合を入れて演出したそうだ。あんたが喜ぶ顔を見たい一心で」
戸惑う瞳の奥を覗かれ、自分の頬が赤らむのを澄子は感じる。
でも、記憶と幻想の狭間を漂い、気持ちを散々揺さぶられた後では、まだ喜ぶ気になれない。
「……御主人、それ変です」
「素直じゃないね、あんた」
「だって、机の引出しに一冊だけシナリオを残しておいたのは、あの人の、過去への未練だろうと、さっき御主人が言ったじゃありませんか?」
「うん、そうね……未練と言えば未練だろうね」
髭もじゃの店主がクスリと笑う仕草は、何処か色っぽく、美人女優だった昔の面影を偲ばせる。
「あいつ、あんたを怒らせようとしたのさ」
「え?」
「繊細で酷く内に篭るタイプだろ、あんた。もし、夫に先立たれたりしたら、自分の殻へ引き籠って永遠に現実逃避しかねないって、猛の奴、凄く心配してたんだよ」
「そんな事、私には一言も……」
「なぁ、キューブラ―・ロスって精神科医の言う死の受容過程、五段階に及ぶステップについて、聞いた事あるかい?」
「いえ」
「二十世紀半ばに書かれた本の一節で、割り合い有名な代物だぜ。死という過酷な運命を受け入れるまで、人には必ず通る五つの段階がある。その二つ目が怒り、なのさ」
「……怒り」
「本人の死にせよ、家族の死にせよ、怒りの爆発的なエネルギーを原動力にしない限り、人は悲しみへ向き合えない」
澄江は小さく頷いた。
夫の脳死以降、不思議と哀しくならない気持ちの理由が、現実からの逃避に過ぎない事を、心の奥で彼女は既に悟っていた。
「杉野猛は、万が一の時、あんたに自分の死を乗り越えて欲しいとだけ、願っていた。
その為に机の鍵で小細工をし、もし古本屋へあんたが訪ねてきたら、思いっきり怒らせてほしいと、この俺に頼んでいった」
「だから、あなたはさっき、あんな事を!?」
「どんな風に怒らせるか、猛の奴、俺に演技指導していきやがったンだぜ。二十六年前のノリ、そのままでさ」
「やっぱり……想像つきません」
「猛の方は、今のあんたの様子を正確に予想していた。だからさ、ディティールはど~でも良い。たった一つだけ、残されたあいつの気持ちを受け取ってくれないか?」
戸惑う澄子へ顔を寄せ、店主は言葉に力を込めた。
「映画の決定稿がどんな結末だったにせよ、あいつ自身のラストシーンは違う」
かつての自主映画のヒロイン、栗原芽衣の言葉が胸に沁みる。
澄子は破れたシナリオへ指先を触れたが、過去の遺物に過ぎないそれを、今はもう読みたいと思わなかった。
「あんたの旦那はな、意識が消えるその瞬間には、昔の女なんかじゃない、あんたしか見てなかったんだよ」
澄子の脳裏に「僕は運が良いから」と微笑む猛の横顔が浮かんだ。
ねぇ……私、十分怒ったわよ。
キレにキレました、あなたの過去と、自分の弱さに。
もう良いわよね、次の段階へ進んでも。
そう呟き、ショルダーバッグに写真と紙袋を放り込んで、喫茶店の席から澄子は立ち上がる。
もう現実から目を背けてはいられない。
病院へ行き、脳死後の延命処置を拒否した夫の意思を叶えなければならないのだから。
そして息絶えていく彼の体のすぐ側で、真の別れを告げる。
たとえ、どんなに怖くても……。
何時の日か、破れたシナリオの決定稿を最後まで読む心境になれるかどうか、一人で歩き出したばかりの、今の彼女にはまだ判らなかった。
0
この作品の感想を投稿する
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
【完結】限界離婚
仲 奈華 (nakanaka)
ミステリー
もう限界だ。
「離婚してください」
丸田広一は妻にそう告げた。妻は激怒し、言い争いになる。広一は頭に鈍器で殴られたような衝撃を受け床に倒れ伏せた。振り返るとそこには妻がいた。広一はそのまま意識を失った。
丸田広一の息子の嫁、鈴奈はもう耐える事ができなかった。体調を崩し病院へ行く。医師に告げられた言葉にショックを受け、夫に連絡しようとするが、SNSが既読にならず、電話も繋がらない。もう諦め離婚届だけを置いて実家に帰った。
丸田広一の妻、京香は手足の違和感を感じていた。自分が家族から嫌われている事は知っている。高齢な姑、離婚を仄めかす夫、可愛くない嫁、誰かが私を害そうとしている気がする。渡されていた離婚届に署名をして役所に提出した。もう私は自由の身だ。あの人の所へ向かった。
広一の母、文は途方にくれた。大事な物が無くなっていく。今日は通帳が無くなった。いくら探しても見つからない。まさかとは思うが最近様子が可笑しいあの女が盗んだのかもしれない。衰えた体を動かして、家の中を探し回った。
出張からかえってきた広一の息子、良は家につき愕然とした。信じていた安心できる場所がガラガラと崩れ落ちる。後始末に追われ、いなくなった妻の元へ向かう。妻に頭を下げて別れたくないと懇願した。
平和だった丸田家に襲い掛かる不幸。どんどん倒れる家族。
信じていた家族の形が崩れていく。
倒されたのは誰のせい?
倒れた達磨は再び起き上がる。
丸田家の危機と、それを克服するまでの物語。
丸田 広一…65歳。定年退職したばかり。
丸田 京香…66歳。半年前に退職した。
丸田 良…38歳。営業職。出張が多い。
丸田 鈴奈…33歳。
丸田 勇太…3歳。
丸田 文…82歳。専業主婦。
麗奈…広一が定期的に会っている女。
※7月13日初回完結
※7月14日深夜 忘れたはずの思い~エピローグまでを加筆修正して投稿しました。話数も増やしています。
※7月15日【裏】登場人物紹介追記しました。
2026年1月ジャンルを大衆文学→ミステリーに変更しています。
主人公の恋敵として夫に処刑される王妃として転生した私は夫になる男との結婚を阻止します
白雪の雫
ファンタジー
突然ですが質問です。
あなたは【真実の愛】を信じますか?
そう聞かれたら私は『いいえ!』『No!』と答える。
だって・・・そうでしょ?
ジュリアーノ王太子の(名目上の)父親である若かりし頃の陛下曰く「私と彼女は真実の愛で結ばれている」という何が何だか訳の分からない理屈で、婚約者だった大臣の姫ではなく平民の女を妃にしたのよ!?
それだけではない。
何と平民から王妃になった女は庭師と不倫して不義の子を儲け、その不義の子ことジュリアーノは陛下が側室にも成れない身分の低い女が産んだ息子のユーリアを後宮に入れて妃のように扱っているのよーーーっ!!!
私とジュリアーノの結婚は王太子の後見になって欲しいと陛下から土下座をされてまで請われたもの。
それなのに・・・ジュリアーノは私を後宮の片隅に追いやりユーリアと毎晩「アッー!」をしている。
しかも!
ジュリアーノはユーリアと「アッー!」をするにしてもベルフィーネという存在が邪魔という理由だけで、正式な王太子妃である私を車裂きの刑にしやがるのよ!!!
マジかーーーっ!!!
前世は腐女子であるが会社では働く女性向けの商品開発に携わっていた私は【夢色の恋人達】というBLゲームの、悪役と位置づけられている王太子妃のベルフィーネに転生していたのよーーーっ!!!
思い付きで書いたので、ガバガバ設定+矛盾がある+ご都合主義。
世界観、建築物や衣装等は古代ギリシャ・ローマ神話、古代バビロニアをベースにしたファンタジー、ベルフィーネの一人称は『私』と書いて『わたくし』です。
サレ妻の娘なので、母の敵にざまぁします
二階堂まりい
大衆娯楽
大衆娯楽部門最高記録1位!
※この物語はフィクションです
流行のサレ妻ものを眺めていて、私ならどうする? と思ったので、短編でしたためてみました。
当方未婚なので、妻目線ではなく娘目線で失礼します。
つまらない妃と呼ばれた日
柴田はつみ
恋愛
公爵令嬢リーシャは政略結婚で王妃に迎えられる。だが国王レオニスの隣には、幼馴染のセレスが“当然”のように立っていた。祝宴の夜、リーシャは国王が「つまらない妃だ」と語る声を聞いてしまい、心を閉ざす。
舞踏会で差し出された手を取らず、王弟アドリアンの助けで踊ったことで、噂は一気に燃え上がる――「王妃は王弟と」「国王の本命は幼馴染」と。
さらに宰相は儀礼と世論を操り、王妃を孤立させる策略を進める。監視の影、届かない贈り物、すり替えられた言葉、そして“白薔薇の香”が事件現場に残る冤罪の罠。
リーシャは微笑を鎧に「今日から、王の隣に立たない」と決めるが、距離を取るほど誤解は確定し、王宮は二人を引き裂いていく。
――つまらない妃とは、いったい誰が作ったのか。真実が露わになった時、失われた“隣”は戻るのか。
わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...
MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。
ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。
さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか?
そのほかに外伝も綴りました。
三十年後に届いた白い手紙
RyuChoukan
ファンタジー
三十年前、帝国は一人の少年を裏切り者として処刑した。
彼は最後まで、何も語らなかった。
その罪の真相を知る者は、ただ一人の女性だけだった。
戴冠舞踏会の夜。
公爵令嬢は、一通の白い手紙を手に、皇帝の前に立つ。
それは復讐でも、告発でもない。
三十年間、辺境の郵便局で待ち続けられていた、
「渡されなかった約束」のための手紙だった。
沈黙のまま命を捨てた男と、
三十年、ただ待ち続けた女。
そして、すべてを知った上で扉を開く、次の世代。
これは、
遅れて届いた手紙が、
人生と運命を静かに書き換えていく物語。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる