さよならまでの準備稿

ちみあくた

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「ある意味、確かに死んだのさ、栗原芽衣は」

「……後悔してるんですか?」

「いや、御蔭で今の俺には、男が持つ馬鹿な思い込みも、女の弱味も、両方それなりに理解できちまうンだ。中々に得難い資質だと思わないか?」

「……確かに、そうですね」

「家内は良くしてくれるしさ。古本屋にせよ、あいつの実家でな。東京へ戻った後に跡を継いだんだが、意外と俺の性に合ってる」

 男としての暮しに慣れ、生活が安定した頃、かつての友人へ連絡と謝罪を試みたそうだが、直接会う事ができたのは結局、杉野猛だけだったらしい。

「それにしても、つくづく変な奴だよなぁ、あんたの旦那」

「……変? どんな風にです?」

「俺の失踪と映画の挫折で心が折れかけた癖して、あの時はあれで良かったと言い張る。昔の脚本を俺に預け、処分しろと言う。今の人生に満足しているからって」

「う、嘘っ!?」

「若い頃の美化された恋の記憶が、淡い幻想ごと粉々に砕け、吹っ切れたのかもな。何せ、惚れた女と再会したら、こんな髭面の中年男になってンだから、よ」

 澄子は声を上げて笑った。笑わずにはいられない心境だった。
 
 幻灯屋を訪れた時、夫もきっとこうだったのだろう。
 
「憑き物が落ちたあいつと、家内が淹れてくれた紅茶を呑みながら、時を忘れて言葉を交わした。あんたとのなりそめやノロケ話も、結構聞かされたぜ」

「……私の話を?」

「就職して二年目の春、大学時代に書いたシナリオとそっくりなシチュエーションであんたと出会った時、運命を感じたとさ」

 運命という言葉の響きが平凡な自分と似合わない気がして、澄子は目を丸くした。

「二人が添い遂げるまでの様々な展開を映画のシーン風にカット割りして心へ描き、その後のデートやプロポーズも思いっきり気合を入れて演出したそうだ。あんたが喜ぶ顔を見たい一心で」

 戸惑う瞳の奥を覗かれ、自分の頬が赤らむのを澄子は感じる。

 でも、記憶と幻想の狭間を漂い、気持ちを散々揺さぶられた後では、まだ喜ぶ気になれない。

「……御主人、それ変です」

「素直じゃないね、あんた」

「だって、机の引出しに一冊だけシナリオを残しておいたのは、あの人の、過去への未練だろうと、さっき御主人が言ったじゃありませんか?」

「うん、そうね……未練と言えば未練だろうね」

 髭もじゃの店主がクスリと笑う仕草は、何処か色っぽく、美人女優だった昔の面影を偲ばせる。

「あいつ、あんたを怒らせようとしたのさ」

「え?」

「繊細で酷く内に篭るタイプだろ、あんた。もし、夫に先立たれたりしたら、自分の殻へ引き籠って永遠に現実逃避しかねないって、猛の奴、凄く心配してたんだよ」

「そんな事、私には一言も……」

「なぁ、キューブラ―・ロスって精神科医の言う死の受容過程、五段階に及ぶステップについて、聞いた事あるかい?」

「いえ」

「二十世紀半ばに書かれた本の一節で、割り合い有名な代物だぜ。死という過酷な運命を受け入れるまで、人には必ず通る五つの段階がある。その二つ目が怒り、なのさ」

「……怒り」

「本人の死にせよ、家族の死にせよ、怒りの爆発的なエネルギーを原動力にしない限り、人は悲しみへ向き合えない」

 澄江は小さく頷いた。

 夫の脳死以降、不思議と哀しくならない気持ちの理由が、現実からの逃避に過ぎない事を、心の奥で彼女は既に悟っていた。

「杉野猛は、万が一の時、あんたに自分の死を乗り越えて欲しいとだけ、願っていた。
その為に机の鍵で小細工をし、もし古本屋へあんたが訪ねてきたら、思いっきり怒らせてほしいと、この俺に頼んでいった」

「だから、あなたはさっき、あんな事を!?」

「どんな風に怒らせるか、猛の奴、俺に演技指導していきやがったンだぜ。二十六年前のノリ、そのままでさ」

「やっぱり……想像つきません」

「猛の方は、今のあんたの様子を正確に予想していた。だからさ、ディティールはど~でも良い。たった一つだけ、残されたあいつの気持ちを受け取ってくれないか?」

 戸惑う澄子へ顔を寄せ、店主は言葉に力を込めた。

「映画の決定稿がどんな結末だったにせよ、あいつ自身のラストシーンは違う」

 かつての自主映画のヒロイン、栗原芽衣の言葉が胸に沁みる。

 澄子は破れたシナリオへ指先を触れたが、過去の遺物に過ぎないそれを、今はもう読みたいと思わなかった。

「あんたの旦那はな、意識が消えるその瞬間には、昔の女なんかじゃない、あんたしか見てなかったんだよ」

 澄子の脳裏に「僕は運が良いから」と微笑む猛の横顔が浮かんだ。





 ねぇ……私、十分怒ったわよ。
 
 キレにキレました、あなたの過去と、自分の弱さに。
 
 もう良いわよね、次の段階へ進んでも。





 そう呟き、ショルダーバッグに写真と紙袋を放り込んで、喫茶店の席から澄子は立ち上がる。

 もう現実から目を背けてはいられない。

 病院へ行き、脳死後の延命処置を拒否した夫の意思を叶えなければならないのだから。

 そして息絶えていく彼の体のすぐ側で、真の別れを告げる。

 たとえ、どんなに怖くても……。

 何時の日か、破れたシナリオの決定稿を最後まで読む心境になれるかどうか、一人で歩き出したばかりの、今の彼女にはまだ判らなかった。
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