さよならまでの準備稿

ちみあくた

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「私を置いていかないでっ!」

 叫びながら伸ばした両の掌は、喫茶店のテーブル上を空しく彷徨い、その向こう側に若き日の夫ではなく、古本屋店主の髭面があった。

「あ、あれっ!?」

「いやはや、悪い夢でも見ていたかね、あんた」

「あの……ここは?」

 何時の間にか、テーブルへ顔を押付ける様にして深い眠りに落ちていた澄子は、意識をはっきりさせようと頭を強く左右へ振った。

「俺の店から500mほど離れた場所にある喫茶店だよ。そして二十六年前、杉野猛が映画のロケに使ったのもここさ」

「え? 幻灯屋から、そんな近くだったの? 私、霧の中で堂々巡りしてたんだ」

「良く辿り着いたねぇ、こんな場所」

「……偶然です」

「もしかしたら、あんたの旦那が導いたのかもな、俺、オカルトは信じない性質だが」

「……あの、あなたは何故?」

「色々と忘れ物をしてったから返そうと思ってね。足取りを辿る内、ここへ」

 店主は、澄子のショルダーバッグや紙袋をテーブルの上に置き、最後に引き裂かれたシナリオを澄子へ手渡した。

 断面を組み合わすと「決定稿」の文字が見える。
 
「あ、あの……これ、売ってしまったんじゃ?」

「ホントの事言うとさ、見ての通り、破けて売り物にならンかった。あんたの旦那が俺の目の前でビリビリやっちまってな」

「……あの人が」

「やっぱり、あんたには本当の事を打ち明けた方が良さそうだ。旦那との約束、破っちまう事になるが」

 店主は黒縁眼鏡を外し、長めの髪をかき分けて、顔の輪郭を露わにした。

「なぁ、このスナップの何処に昔の俺が写っているか、判る?」

 先程の二枚の写真を取出し、澄子の前に置く。

 間近で見つめてもピンと来ず、取り敢えずスタッフと思しき若者を次々と指さして行ったが、どれも違うらしい。





 残るは猛と芽衣の二人だけ。

 澄子が当惑していると、店主の細面で切れ長の瞳が更に細くなり、悪戯っぽく笑った。
 
 長髪をもう一度かきわけて見せ、その顎を覆う無精髭が綺麗に剃られた様子を想像した瞬間、澄子はあっ!と声を上げる。
 
「ふふっ、漸くわかったか?」

「……ええ」

「さっき、見た目は随分変わったって言ったろ」

「……あなた、元々、女の人だったのね」

「体の方は確かに、な。心は初めから男さ。いわゆる性同一性障害って奴で、最近は世間でも良く知られるようになったが、俺が若い頃はカミングアウトが難しくてねェ」

「つまり、あなたは二十六年前に失踪した栗原芽衣さん本人……」

「自主映画のロケで通う内、この喫茶店で働いていた同じ年頃の女子店員に惚れちまったんだよ。ほら、この写真」

 店主は二人のそっくりな女が並ぶ写真を示した。

「こいつはトリック写真でも何でもない。正真正銘、一人が昔の俺で、もう片方が若い頃の家内の姿だ」

「……本当に良く似てる」

「瓜二つの人間がこの世に三人はいる、とか言うよな。元々、ナルシシズムの傾向があった俺は、ロケハンに訪れた喫茶店で自分そっくりの顔をした女に出会った瞬間、ビビッときてさ。もうどうしようもなく惹かれちまった」

「それで、女として振る舞うのが辛くなったんですね」

「当時の相棒、あんたの旦那は……あの頃、栗原芽衣に惚れてた。大学じゃ本音を隠し、あくまで女として振る舞ってたからさ」

「……はぁ」

「でもプリプロが進む内に嘘が辛くなった。猛は本気で告白してくれたしな。散々悩んだ挙句、自分の気持ちが誤魔化しきれなくなって、何もかも投げ捨て、彼女と駆落ちしたんだよ」

 店主の口調は意外と明るかった。

 しかし、逃避行を遂げた後の人生は決して楽じゃ無かったらしい。

 女性同士のカップルに対する世間の偏見は根強く、猛の心を弄んだと言う自責の念から心の中と体の見た目を統一したいという思いにも駆られていたと言う。

 性転換の資金を溜める為、身を粉にして働いても三年を要した。

 手術できる医療機関を見つけだし、術後は男性ホルモンの注射を継続、外観がすっかり男になるまで更に十年以上を要し……。
 
 今、顔全体が髭で覆われているのも、声がひどく掠れているのも、わざとやっている訳では無い。

 男性ホルモンを長年打ち続けてきた影響で、四十代半ばを過ぎた頃、一般的レベルを遥かに超える深刻な更年期障害が生じた結果なのだ。
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