さよならまでの準備稿

ちみあくた

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 昼までに晴れる筈だった路地の霧は、幻灯屋を出てから一層濃くなっていた。

 今やお馴染みの異常気象と言う奴で、ますます「アリスの不思議の国」に街の雰囲気が近づいた気がする。

 その只中をズンズンと、苛立ち紛れに早足で行く澄子の意識は、千々に乱れたまま一向に落ち着かない。

 歩を進めれば進める程、一層怒りが募ってきた。
 
 あの髭モジャ店主、何であんなに煽り立てるような言い方するんだろ? 私に何か、恨みでもあるの?

 頭を振り、何とか冷静に考えてみようと試みる。

 そもそも、彼の言った事が全て真実だとすれば、澄子が来店し、紙袋とシナリオを見せた時点で、その身元に気付いていた筈だ。

 それなのに、あの態度。シニカルなポーカーフェイスの裏側で、すっ呆けていたとしか思えない。
 
 あんたはもっと怒って良い? えぇ、キレましたよ、ぶちギレた! どいつもこいつもバカにして……冗談じゃないわ、もう!

 苛立ち紛れにズンズンと、更に歩けば歩く程、考えれば考える程、夫と店主の両方に弄ばれている気がした。

 そして、チラリと垣間見た店主の妻、あの女店員の艶やかな横顔が脳裏に浮かび、栗原芽衣の面影と重なって、揺らめく。





 それからあても無く霧中を彷徨い、どれ位の間、歩き続けた事だろうか?

 ふと、古風な喫茶店が澄子の視界に飛び込んできた。

 神保町には偉大な文豪が好んだと言う珈琲の名店が幾つか残っているそうだが、澄子が惹かれたのは、そんな風格では無い。壁に塗られたツートンカラーに強いデジャブを感じたのだ。

 店内に入ると、同じ色合いの壁に沿って木目調の四角いテーブルが並んでおり、夫が残したスナップ写真の背景と殆ど同じに思えた。

 現実か、それとも乱れた心の生み出す幻影か。

 自分でも見定められぬまま、澄子はドア間近の席へ腰を据え、テーブルに頬杖をついて歩き疲れた体を休める。





 注文した珈琲を待つ内、中程のテーブルに座る若者達がはしゃぎ始めた。

 眉を顰め、そちらへ顔を向けた途端、澄子の表情が凍り付き、瞳が驚愕で大きく見開かれる。

 昭和の香り漂う淡いセピアカラーに彩られた空間の最中、あの集合写真の若者達が、スナップと同じ姿勢、並びで席についているのだ。

 二十六年の時を飛び越え、長髪の猛と芽衣が二十一世紀の神保町へ姿を見せ、他にも二人のスタッフがいる。

 或いは、どちらかが古本屋店主の、若き日の姿なのだろうか?

 そして、他にも見覚えのある顔の持ち主が、同じ様に時の帳を潜り抜け、喫茶店の反対側通路の端、隅っこの席にチョコンと座っていた。

 白を基調とする垢抜けない服を着こみ、化粧っ気は殆ど無し。見るからに引っ込み思案で臆病で……。

 間違いない。あれは「隅っこのスミコさん」、即ち、二十六年前の彼女自身だ。
 
 切ない眼差しで猛の方をじっと見つめているのに、若き日の澄子は話しかける勇気が出ず、躊躇しているらしい。
 
 勿論、猛と澄子が出会ったのは社会人になってからの出来事であり、学生時代にニアミスした記憶など無い。
 
 だから、これはあくまで気の迷いが生み出す白昼夢の類だろうが……。





 えぇ、そう、そうよね、きっと不思議の国に迷い込んじゃったのよね、私。

 え~と、あの物語の中でアリスは確か、白ウサギを追いかけて、深い穴へ落ちちゃうんだっけ?
 
 靴の踵を打ち合わすと目が覚めるのは、え~……確か、違うお話よね?





 現実世界の澄子は、混濁しがちな意識の中でアレコレ思いを巡らせ、状況の異常さをそれなりに悟ったが、セピア色に包まれた不思議な空間へ目を向けていると、又も気持ちは千々に乱れる。
 
 若き「隅っこのスミコさん」は、何時まで経っても自分の席でモジモジしており、猛の方へ一向に動こうとしないのだ。

 あぁ、じれったい。

 澄子は席を立ち、昔の自分の方へ早足で歩み寄った。

「何してるの、ほら、あの人の所へ行きなさいよ」

 四十五才を過ぎた未来の自分に激しい言葉でけしかけられ、二十代の澄子はひたすら目を白黒している。

「急がないと、あの人、何処かへ行っちゃうよ。何処か、遠くへ……もう二度と、あなたの手が届かない所へ!」

 実際、猛と芽衣は席を立っていた。勘定を済ませ、ドアへ向う。

「ほら、早く」

「でも、怖い、あたし……」

 昔の自分とわかっていても、いや、自分自身だからこそ尚更に腹が立った。煮え切れない態度を見せつけられ、苛立ちが胸の奥で急速に膨れ上がっていく。

 先程の店主への怒りとは又、一味違う激しさ……言わば、究極の近親憎悪と言う奴だろうか?

「ねぇ、あなた、置いてきぼりにされて、それで良いの? 嫌でしょ、そんなの?」

「だけど」

「あの人、どうして……私を一人ぼっちにして……」

 ふと澄子の脳裏に、手術の前夜、猛が見せた笑顔が浮かび、消えた。

「あいつ……俺は運のいい方だなんて何様のつもりよ!? 何、勝手に書類書いて、勝手に死んでンのよ!」

「え?」

「許せないよね、絶対!!」

 ポカンとしたままの昔の自分を怒鳴りつけ、細い手首を鷲掴みにして、澄子は若者達の幻を追った。

 喫茶店の通路を駆け抜け、ドア手前で猛の肩へ両手を伸ばし……。
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