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しおりを挟む小さく、柔らかな指が肩口に触れ、優しく私の体を揺らした。
「良い朝よ、あなた。ねぇ、早く起きないと勿体ない」
尚も寝床へ潜る私へ業を煮やしたのだろう。窓枠を滑るカーテンレールの音がし、射し込む光で瞼の内が赤らむ。
小さく呻いて目を開くと、微笑む妻の顔がすぐ側にあった。ベッドの傍らで腰を曲げ、悪戯っぽく私を覗き込んでいる。
35を過ぎた頃から目尻の皺が目立つ様になったが、今も変わらず美しい。背後の朝日にも負けない輝きに満ちている。
ついボウッと妻を見つめ、怪訝な顔の彼女に「どうしたの」と問われて、私は肩を竦めた。
君に見とれていたんだ。
素直にそう言えるほど、我々日本の中年男は素直にできていない。
「今、何時?」
妻から目をそらし、わざとぶっきらぼうに言う。
「もう9時半を過ぎています」
「そうか、寝坊してしまったな」
徐にベッドから立ち上がろうとした時、強い立ち眩みに襲われた。
今朝は妙に体が重い。
よろけを悟られるのが嫌で、私はそれとなく壁へ凭れ、眩い光が差す窓の外を見下ろした。
確かに美しい日だ。
今、私達がいる部屋は避暑地と思しき山間のコテージで、二階、東向きの窓の外には春の息吹が零れる森の新緑が伺えた。
「ホントに勿体ないわよ、せっかくのバカンスなのに」
その言葉へ曖昧に頷き、何度か頭を振って私は周囲の景色へ目を凝らす。
さて具体的に、ここは何処だ? 私は何時から、ここにいる?
思い出せない。視覚にヒントを求めても閃きは無い。
もしかして突発性の記憶喪失?
いやいや、自分の事なら覚えているぞ。
当年41才の公認会計士で、蒲田の駅前に事務所を構え、仕事はまぁ順調。妻の事だって、38才の主婦で子供はいない事とか……ちゃんと覚えている。
なら何故、最近の記憶だけ、すっぽり抜け落ちているのだろう?
「あなた、まだ半分、夢の中みたい」
妻はクスッと笑い、アルミで包装されたカプセル錠を取り出して、私に見せた。
「何だ、こりゃ?」
「新開発の睡眠薬。深い眠りを誘うだけじゃなく、ストレスで神経をすり減らした人を癒す効果もあるそうよ」
「俺は昨夜、これを呑んだのか?」
「多分ね。少し前に目を覚ました時、私も最初は何一つ思い出せなかったの」
「君も薬を呑んだんだな」
「そうみたい。弟からのメッセージを見たお陰で、今は状況が呑み込めたけど」
私は記憶の隅を探り、何かと斜に構える義弟の嫌味な顔を思い出した。
妻と十才、年が離れた義弟は、それなりに名の売れた漫画家だ。ネット上の連載で一世を風靡し、アニメ化された作品も複数ある。
多分、この屋敷は奴の持ち家だろう。会計士の稼ぎも悪く無いが、こんな豪華な別荘へは手が届かない。
「説明するから、服を着たら下へ来て」
軽やかな足取りで妻は部屋を出て行く。
私はビルト・イン・クローゼットの衣服から適当な物を選ぼうとし、妙な事に気付いた。愛用のスマホが無い。
ベッドサイドに無く、部屋の何処にも見当たらない。
「おはよう、姉さん、そして義兄さん。よく眠れました? 気分は如何?」
一階の居間へ行くと、テーブル上の目立つ位置にタブレットPCが置かれ、その中に義弟の動画メッセージが残されていた。
開いたウィンドウには昨日の日付がついている。予め撮影し、私か妻か、どちらかが居間へ入った時に自動再生するよう設定されていたようだ。
「薬の副作用が軽いと良いな。今日と言う日は、僕ら皆にとって凄く特別な日だから」
義弟は間を取り、首を傾げて見せる。
どうも、こいつは苦手だ。勿体ぶった遠回しな話し方も気に障る。
「遡って説明するとね、僕が姉さんに自宅へ呼ばれ、相談を受けたのは先週半ばの事さ。義兄さんが仕事のストレスで軽い神経症に陥り、夜も眠れていないってね」
先程、妻が見せてくれたのと同じカプセル錠を画面中の義弟が掲げる。
「僕も仕事柄、不眠症に悩まされた経験がある分、良い薬を知っている」
義弟の話によると、人の記憶の内、過去から現在への人格形成を統べる長期記憶、最近の事柄を扱う短期記憶は、脳内の収納部分が違っているそうだ。
そしてストレス処理の為、短期記憶だけ狙い撃ちする健忘作用を持たせた睡眠薬がコレなのだと言う。
「最初は僕も一緒にバカンスを楽しむつもりでいた。でも、どうしても仕事の方が捗らなくて」
「売れっ子は辛い、とでも言いたそうだな」
「実際、弟は忙しいの。ウェブサイトの連載が増え、アニメも好評で映画化まで決まったみたいだし」
画面の義弟へ私が皮肉を言うと、何時だって妻はすかさずフォローする。彼女にとって自慢の弟。敵に回すとろくな事は無い。
「姉さん、夫婦水入らずで楽しく過ごして欲しい。できれば、この世の終わりまで」
又、妙な言い回しをし、義弟は動画の終わり際、もう一言付け加えた。
「ああ、近頃、避暑地の別荘を狙う空き巣や強盗の類が増えてるんだ。姉さん達も気を付けて。くれぐれも見知らぬ人を家へ入れたりしないように」
義弟の姿がタブレットの画面から消えると同時に、防犯カメラのコントロール・マップが映し出された。
一見古めかしい造りながら、この別荘は最新のセキュリティを備えているらしい。タブレットを操作端末とし、防犯カメラへ直接アクセスできる仕組みだ。
映像がクリックで切り替わる仕組みになっており、その画面数から計11台のビデオカメラが仕掛けられているとわかる。
実に豪勢なシステムだが、その割に穴が多かった。例えばタブレットPCに付き物のWIFI接続は屋内機器に限定、インターネットへ繋がらない。
「携帯電話のみならず、ネット環境も無いのか、ここは……」
私がぼやくと、妻もハッとする。
「もしかして、あなたもスマホを持っていないの?」
「君も?」
「ええ、それにこの家、テレビを置いていないみたい」
そう言えばアンテナ端末は壁についているのに、肝心のテレビが無い。
義弟が仕事に専念できるよう外部干渉を廃したのだろうか?
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