剽げ舞の夜に 桶狭間異聞

ちみあくた

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 尾張の東方、駿河、遠江、三河の三国を治める太守・今川義元は、天下統一の大望へ向け、既に動き出していた。

 この夜より三日を遡る五月十二日、動員可能な五万の総戦力中、二万五千の精鋭を自ら率いて挙兵、駿府城から西への進攻を開始したのである。
 
 大軍である分、本隊の動きは遅い。
 
 しかし、およそ一万の先兵については十五日未明、尾張へ侵入を果たしたとの知らせが生駒屋敷と五里程の距離にある清洲城へ届いている。
 
 未だ戦いの火蓋こそ切られていないものの、尾張の下四郡については知多、河内が占拠され、織田勢力圏へ深く食い込む今川方の出城・鳴海、大高の二城を目指す動きは急であった。
 
 大高城を牽制しうる位置に織田方が設けた丸根、鷲津の砦は、要所であるが故に交戦を避けられず、それぞれ五百に満たぬ兵が立て籠もったまま、絶体絶命の危機に瀕している。





 この時期の信長は同族間の争いを辛うじて制した辺境の雄に過ぎない。
 
 美濃を治める斎藤龍興との争いも相半ばの状態。動員できる兵の数は僅か三千が限界だ。
 
 果たして、今川軍に降伏し、すんなり砦を明け渡して領内を通過させるか。それとも、大きく劣る戦力で決死の戦いに打って出るか。
 
 大高城を通過されれば、清洲まで半日足らずの距離しかない。一刻も早い決断を織田勢は迫られている筈であったが、
 
「もう無ぇわなぁ、戦さは」

「おう、とてもじゃねぇが、あの女舞いの殿さん、合戦する腹には見えねぇ」

「戦場じゃ鬼の強さと聞いたに、とんだ拍子抜けじゃのう」

 口々に軽口を飛ばす農民の声を聞き、利家は奥歯を強く噛み締めた。

 胸の苛立ちを持て余し、できるならすぐにでも無礼な農民へ身の程を思い知らせてやりたい心境なのだろう。
 
 隣の藤吉郎は苦笑し、
 
「あんな戯言、聞き捨てておけ」

 と事も無げに言い放つ。

「主君を侮られ、呑気に笑っていられるか。尾張の隣国を回ってみても、大抵、似た様な見方を致しておるぞ」

「ほう、ではお主のその僧形、隣国視察の方便かよ」

「生憎と浪々の身の上では、退屈ばかりを持て余すでな」

 内に籠る鬱屈を、利家は自嘲の笑みに変えた。

 この時、彼は主に勘当され、目通り叶わぬ所か、城への出仕さえ許されていない。あくまで織田の家臣たらんとする心根に反し、立場は一介の浪人でしかないのだ。

 身の置き場の無い不遇にひたすら耐えているのだが、詰まる所は自業自得。
 
 激発した怒りを抑えきれず、主の前で凄惨な刃傷沙汰に及んだのは、紛れもなく利家自身なのだから。





 事の起こりは、前年(永禄二年)、信長の侍従として仕える同朋衆の茶坊主が仕掛けた、性質の悪い悪戯である。

 十亜弥という若輩者が常日頃、信長の寵愛を受けているのに増長。

 時折り横柄な態度をとっていたのだが、長身で男前、見栄えの良い利家を、特に目障りと感じていたらしい。
 
 ある日、利家が執務に励む間、刀掛けに残された愛刀へ十亜弥は手を伸ばした。そして高価な刀飾りである真紅の笄を抜き取り、知らぬ顔を決め込んだ。
 
 偶々その様子を目撃した者がおり、事実を知った利家は、十亜弥を罰するよう主へ申し入れたが、聞き届けられる事は無い。
 
 元来、信長は細事に煩わされるのを嫌う。侍従を庇うと言うより、家臣の諍いへ介入するのを避けたのかもしれない。
 
 前々から利家を出世争いの対象とみなしていた三歳年長の佐々成政が、必要以上に十亜弥の肩を持ち、処分へ反対した影響も大きかった。盗みの一件は結局うやむやのまま、御咎め無しの裁定が下る。
 
 それ以降、十亜弥は一層調子に乗り、あからさまに利家を挑発するようになった。
 
 しばらく無視していたものの、虎の威を狩る狐の類に虫唾が走る性分は抑え切れるものではない。
 
 結局、利家は溜まりに溜まった胸の火種を最悪の形で解き放った。
 
 信長の御前にて十亜弥から挑発された直後、激発して刀を抜き、瞬く間もなく斬り捨ててしまったのだ。
 
 眼前の凶行に信長も又、激怒した。

 茶坊主を殺した罪より忠実な腹心が言いつけを反故にした事実に苛立ち、冷静さを失った挙句、自ら刀へ手を掛けた。
 
 利家は死を覚悟したが、その場に居合わせた柴田勝家、森可政らが身を挺して庇ってくれた御蔭で、何とか成敗を免れ、勘当だけですんでいる。その後半年余り、利家は熱田神宮の社家に身柄を預け、謹慎せざるを得なかった。

 しかし何時までも経っても信長は許そうとせず、帰参を諦めきれない利家は手柄を求めて諸国を巡っていたと言う。





 藤吉郎は旅の僧侶としては余りに逞しく、全身に覇気をみなぎらせた友の姿を呆れ気味に見回した。

「全く、余計な苦労ばかり背負いおって、因果な男よのう」

「俺なりに出来る限りの辛抱はしたのだ」

「だからと言って、主君の御前でバッサリはあるまい。柴田様が申されておったわ。あの時の信長様は、まさに怒髪天をついておったと」

 藤吉郎の言葉に利家は肯いた。

 自分でも浅墓だったと重々承知はしている。
 
 このまま一生涯、戦場へ出れぬとあれば、生きる甲斐も見出せまい。かと言って、今更他の主へ仕える気にはならない。

 だからこそ、無為の時間を有効に使いたいと思い、耳へ入る巷の情報を丹念に収集していたが、

「行く先々の宿場で耐え難き話ばかり聞く。今川に逆らえば織田は小虫の如く踏み潰されるだけじゃと、皆が言いおる」

「ふむ、そりゃ至極もっともな話よの」

「何っ!?」

 利家は、驚きの眼差しを友へ向けた。

 利家と同じく主を一途に敬い、思い入れも強い筈の藤吉郎が、淡々と頷き、意味ありげな笑みを浮かべている。
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