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しおりを挟む路地裏で戸川団と肩を並べ、缶コーヒーを飲んだ30分後、いつもの通勤コースを猪又有紀は歩いていた。
行く手に聳え立つ、総ミラー・ガラス張りのオフィスビル。
陽光に映え、輝く、その余りに豪奢な外観を見上げて小さな溜息をつく。
出社前はいつも気が重い。
あ~、今日はとびっきり長い一日になりそう。あの野良オトコの望みを叶えるなら、多分、普段よりずっと……
櫛田ファンドは、大手金融機関を背景としない投資顧問会社で、自社所有ビルの最上階をまるごと事務所とし、従業員は総勢40名程度だ。
コンサルのみならず自ら広く投資を敢行。
企業買収等、多彩なビジネスで業界一の収益を上げ続け、国民年金を管理運営する独立行政法人の顧問を務める等、政界との結びつきも深いが、実績の割に所帯は小さい。
近年、トップの意向により急激な整理・統合が行われ、メイン業務へ資産を集約する形態へ変っている。
それは最新AIの積極的導入による合理化の賜物と言えるだろう。
ビルの自動ドアを潜り、見目麗しい受付嬢に「おはようございます」と声を掛けられて有紀は又、溜息をついた。
愛想たっぷりな、この受付も、実はAI仕掛けのロボット。
人間と機械の置き換えは今や一流企業のトレンドであり、明日は我が身か、とつい落ち込んでしまう。
只でさえホワイトカラーの労働需要が激減した昨今、有紀のような派遣OLなど微風で吹っ飛ぶ最弱の存在でしかないのだから。
最上10階でエレベーターを降り、営業部、システム管理部、そして自身が所属する総務部が併存する広いフロアへ有紀は足を踏み入れた。
普段なら真っ先に挨拶すべき総務部リーダー・天野千代の姿は無く、隣接する営業部の若手・古賀佐織へ声を掛けてみる。
「あの……ウチのお局は?」
返事が返ってくるまで、少し間があった。
線の細い美形でシャイな性格の佐織は、営業部最年少の19才。いつも躊躇いがちにゆっくり答える癖があり、
「今日、お休みだそうです」
と蚊の鳴くような声を出す。
「お休み? 何で?」
「何だか、急にお腹を壊した、とか」
「そぉ……やっぱり」
「やっぱり? 猪又さん、天野さんの体調について前から知っていたんですか?」
今度は有紀が答えに詰まる番だ。
まさか、得体の知れない野良オトコが異能で予言した、なんて正直に言えないから、
「いや~、あの人、タフ過ぎるでしょ? 一度も休んだ事が無い、なんて自慢される度、風邪でも惹かないかな~、って思ってたの。ホラ、鬼の霍乱って奴」
と笑ってごまかす。
佐織はいまいち納得していない様子だが、有紀は「ありがとっ」の一言で会話を終え、席に着いた。
間も無く、ワグナーの旋律を模した始業のベルが鳴る。
厳かな響きと共にフロアの全員が立ち上がり、奥の個室の扉が開くと同時に深く頭を下げた。
独裁者の御成りだ。
まだ四十代の若きCEO・櫛田洋三が、ラフなスリーブレス・ジャケット姿でフロア中央を闊歩、後光が射して見える窓際へ立つタイミングを見計い、いつもの朝礼が始まる。
すかさず営業部のリーダーが「気を付け」の号令をかけた。
続いて、派遣を含む従業員全てが暗記を義務づけられている「櫛田ファンド社訓」の朗読……
「一つ! 仕事を愛せ! 会社を愛せ! 愛無き者に生きる価値無し!」
連呼する社員の声に一切の乱れは無い。
「一つ! 社内恋愛する暇あれば、会社を愛して愛し抜け!」
内心、アホか、と思いつつ、有紀も調子を合わせるしかない。
「一つ! 下っ端は活かすも殺すも上司の勝手! 嫌なら早く偉くなれ!」
この調子で延々と十二か条を唱えていく。
会社の創業は平成の中頃だから、昭和のアナクロな慣習を引き継いでいる訳ではなく、あくまでCEOの個人的趣味である。
辞めたきゃ、ど~ぞご自由に。その代り、俺のブラックリストに載ったら最後、何処も雇っちゃくれないぜ。
櫛田の口癖は、恫喝紛いの代物ながら、決してハッタリではない。
男性従業員の五割、女性の九割が所属する派遣会社のオーナーを兼任し、同業他社への影響力も誇示、気分次第でトコトン干す事ができる。
そこまで強い立場であれば、社員のプライバシーも玩具の一つに見えるのだろう。
逆らう者は徹底的につきとめ、潰す。必要なら個人のロッカーを合鍵で勝手に開き、私物をチェックする事さえ躊躇わない。
最早、パワハラの域を超える完全な犯罪だが、そんな噂さえ流れる程、社内で恐れられているのだ。
「社訓」が一言一句正確に唱えられているのを確かめ、均整の取れた長身を揺らして悦に入る櫛田の姿は、有紀にはサイコパスそのものに見えた。
「我が愛すべき同僚の諸君、御承知の通り、わが社は極めて高いコンプライアンスをモットーにしている。そうだろ?」
御託宣に誰も声を上げない。直立不動のまま、微動だにしない。
「良いかね? 遠慮は要らない。この職場で、もし何か不快に思う事があったとすれば、私に申し出てくれ給え」
耳に掌を当て、大袈裟に聞く素振りをするが、聞こえるのは空調の微かなノイズだけ。
毎度おなじみの光景だが、この日は朝礼後、珍事が起きた。
個室へ戻る途中、櫛田が直立不動の古賀沙織へ手を伸ばし、ヌルリッとその腰を撫でたのだ。驚いた彼女は大きな悲鳴を上げ、その場へ座り込んでしまう。
「いゃあ、悪いねぇ、つい手が滑ってしまったよ」
性的な欲望から、と言うより、弱者を嬲る遊戯のつもりなのだろう。
謝罪に程遠い冷笑を浮かべるCEOと気弱すぎる若手OLの関係は、蛇に睨まれた蛙に等しい。
「君ィ、職場で取り乱しちゃイカンぞ。言いたい事があったとすれば、内規通り文書で申し出るのが社会人の常識だ」
理不尽の極みを見せつけられ、佐織は目に涙を溜めて、嗚咽を堪えた。
「ん~? 何なら、今宵二人きりで話を聞こうか? 丁寧に説明するよ。もし、私に文句があったとすれば」
嬲っている。楽しんでいる。佐織にもその悪意が伝わっている。
「あ~らら、何か悪い事を言ったかな? 君達、もし私に何か……ある種の誤解があったとすれば、是非、教えてくれ給え。あったとすれば、だがね」
神をも恐れぬセクハラぶりだと、そこにいる誰もが思う。泣きじゃくる同僚を助けたい気持ちだって有るだろうが、結局、口を開く者はいない。それだけの恐怖が、この会社の社員へ繰り返し刷り込まれている。
有紀にも何も言えなかった。
でも、一つだけ、いつもと違っている。醜悪なセクハラから目を逸らす事を止め、滾る怒りを込めて睨みつけたのだ。
「ん?」
視線を感じた櫛田が、余裕の笑みを浮かべたまま、通路を隔てて有紀を睨み返した。
目を逸らすな! 自分の醜さを気づかせてやれ!
有紀の内なる声が叫ぶ。
しかし三秒後、その小さな勇気を恐怖があっさり上回った。結局、いつもの姿勢で俯くしかない。
たった三秒の反逆と敗北……
高らかに笑って洋三が個室へ戻り、扉を閉じると同時に、有紀は自分のデスクへ拳を叩きつけた。
実行すべきか、否か、迷っていた「依頼」を果たす決心をしたのはこの時だ。
飾り気の無い小銭入れを制服のポケットから取り出し、中をチラリと覗く。
可愛らしい子猫のアクセサリーにしか見えない小型のUSBメモリが、折りたたまれた千円札と500円玉の間に挟まっていた。
今朝、自販機前で戸川団が差し出した「因果律」の切り札だ。
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