緋の残像 伝説の殺人鬼が恋人の心の奥で蘇る

ちみあくた

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古傷 2

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 あの日、少年へ迫る赤い服の男を見て、俺は自転車を飛び下り、高架下の資材置き場へ駆け込んだ。

 泥濘に足を取られ、危うく転びそうになったよ。

 粘りつく液体が血なのは匂いでわかった。横たわる亡骸の潰れた顔が見えて、凄く怖かったのを覚えてる。
 
 その時はまだ28才のペーペーでさ。交番勤務のノウハウは覚えていても、現場へ臨場した経験に乏しかったんだ。

「待てっ! それ以上、動くな!」

 無駄と知りつつ、叫んだ。

 血まみれの金槌を握り、目の位置に直径三センチ程の覗き穴二つ、その下に口を表す緩やかな曲線を描き込んだ赤い仮面の男は、既に少年を捕え、いつでも殺せる状態だった。

 乾いた笑い声が風にのり、俺の耳にも届いたよ。

 明らかに狂気に満ちた哄笑。刺激せず、そっと忍び寄る余裕なんて無い。ベルトの拳銃に手を伸ばして……

 撃とうか?

 いや、俺は射撃がうまい方じゃない。この角度だと、子供に傷を負わせてしまうかも。

 そんな風に躊躇う内、俺は奇妙な光景を見た。

 通り魔が、金槌を振り上げたまま動きを止め、少年のすぐ傍まで顔を寄せて、何かを見つめていたんだ。

 少し首を傾げ、不思議そうに。

 子供の様子は柱の陰に隠れて見えなかった。あの時、何があいつを惹き付けたのか、今でも俺は気になって仕方ない。

 モルモットを観察する生物学者みたいな、静かな物腰だったよ。犯罪を犯す最中、人が陥りがちな興奮状態とは異質でさ。

 だが、いつ豹変するかもしれない。俺は走りながら警棒をベルトから抜き、長く伸ばして通り魔へ打ちかかろうとした。
 
 寸前、赤い仮面がこちらを向いてな。

 二つの穴の奥に奴の目玉が見え、その時、分かったのは……何と言うか、感情が伺えない事だった、瞳の奥の何処にも。

 怒りや憎しみ、欲望への飢えも無い、真っ暗で虚ろな穴。底なし沼を縁から覗くような感覚だよ。

 良く言うだろ、闇を覗く者は闇からも覗かれている。

 俺の中でも意外な事が起きた。

 それまで感じていた恐怖が消え、妙に血が滾る感覚があって、警棒に力がこもった。

 あれは何だったんだろうな?

 警官になって初めて目の当たりにした純粋な悪意に、柄にもない使命感がくすぐられたのかもしれない。

 必ず取り押さえてやる、そんな気負いにかられた瞬間、そいつの手から俺の顔面めがけて金槌が飛んだ。スレスレで躱したが、金槌に付着した血の滴が、俺の目に入っちまってさ。

 飛び掛かろうとする狙いが外れた。バランスが崩れ、膝をついた俺めがけ、通り魔が逆に襲い掛かる。

 もう一つ、奴が隠し持っていた凶器……

 その時、俺は目が霞んで何か判別できなかったが、その先端が左胸へ刺さり、スッと根元まで埋まるのを感じた。
 
 勢いよく血が噴き上がったよ。派手過ぎて、俺、それが自分の血だと実感できなかった。

 後の事はあまり良く覚えていない。

 気を失った少年を庇い、大声で意味の無い怒鳴り声を上げながら、むやみに警棒を振り回しただけだと思う。

 その気になれば簡単に止めをさせただろうに、奴は少年も俺の事もそれ以上傷つける事無く逃走した。

 姿を消す寸前、半狂乱の俺を見て、笑った気がする。仮面の奥から、せせら笑う乾いた声が聞こえた気がする。

 朦朧としたまま、俺は何とか無線で交番へ連絡したらしい。

 意識を失ったのは、それから間もなくの事だ。

 すぐ同僚が駆けつけ、救急車で病院に運ばれて俺は一命を取り留めたんだが……





「その時の傷は心臓から僅か数ミリだけ、下へ逸れていた。殺すより難しい紙一重、絶妙の位置に刺さっていたそうだよ。熟練した外科医がわざと急所を外したみたいに、ね」

 東北新幹線のデッキで富岡の話を聞く内、自分がその状況に置かれた事を想像し、笠松は身を震わせた。

「見逃してくれたって事ですか?」

「多分、殺す価値さえ無いって事だろ、俺なんか」

 肩を竦めた富岡の微笑には、自嘲の苦いエッセンスが少なからず含まれている。

 こんな人気の無いデッキまで来たのは、過去の事件について訊きたがる笠松に対し、屈辱まみれの凄惨な記憶を、他に人がいる客席で語りたくなかったからかもしれない。

 その配慮に笠松は少し富岡を見直した。

 当時の心境についてより突っ込んだ話をしたかったが、先輩の心情を察し、代りに別の疑問をぶつけてみる。

「女性を殺害した凶器は、その時も金槌だったんですね」

「検死結果がそれを裏付けてる」

「でも、現場に凶器は残っていなかったんでしょう」

「俺に投げつけて、何処かに落っこちた奴を犯人が回収したんじゃないかな」
「逃走中に? 余裕綽々ですね」

「俺は、病院で捜査の進捗状況について聞いた時、その通り魔の余裕に違和感を感じた。基本的に、通り魔と言うのは衝動的犯行の場合が多い。だが、あの事件に関する限り、俺は極めて熟練した手管を感じたんだ」

「シリアルキラーの連続殺人だと富岡さんが考えた出発点は、その辺ですか」

「ああ」

「う~ん、十年前の江戸川区と今回の東北、共通する痕跡や犯罪者特有の癖、署名的要素って言うんでしたっけ? それを見つけ出せたら、関連性を証明できるんでしょうけど」

 プロファイリングに関する基礎知識をさり気なく語る笠松に、富岡は目を丸くした。

「……俺だってね、少しは勉強してるんです。シリアルキラーには承認欲求がとても強く、同じ手口に固執する上、彼らにとっての戦利品、トロフィーとも言える何かを殺害現場から持っていくケースが多いんでしょ」

「お~、成長目覚ましい。前途有望だな、笠松君」

「ちゃかさないで下さい!」

 不貞腐れた相棒に富岡は詫びを入れ、新幹線のドアに付いた窓から、ふと外の夜景を眺める。

 遠い山の端を月明かりが照らし、光が届かない部分と明暗のコントラストを際立たせていた。

 明るい夜であるほど影は濃くなるものだ。その暗部の更に奥深くへ潜み、今も静かに息を潜めた魔性の気配を感じる。

 解決していない殺人事件の幾つか、お蔵入りの案件の中に、壮大な連続殺人を構成するパズルのピースが、まだ幾つも紛れ込んでいるのだろう。

 雨宮捜査一課長も、その富岡の見立てにリアリティを感じていたからこそ、今回の宮城の件で一早く二人の派遣を決めたのだと、笠松は思った。

 都市伝説紛いの仄かな疑惑であっても見逃す危険は冒せない。

 仮に『タナトスの使徒』掲示板への書込みが犯行予告に近い物だとしたら、後々取り返しのつかない警察の大失態になり得る。
 
 逆に言えば、雨宮は必ずしも富岡を信用している訳では無く、もしもの時の保険として彼を使っているだけかもしれない。

「俺は江戸川の事件の後、ある人に出会い、シリアルキラーやサイコパスについて学んだ。ネット上の都市伝説、『タナトスの使徒』について、暫く一緒に調べていた時期もある」

「富岡さんの恩師ですか?」

「まぁ、先生っちゃ先生かもな」

「で、それが、これから会いに行く御人なんですね?」

「科捜研の元研究員、五十嵐武男。1980年代から90年代にかけて、日本のプロファイリング捜査を基礎から立ち上げたチームの一員だ」

 富岡は、自分と同じく赤い殺人鬼の存在を信じ、その結果、社会的地位を全て失った男の顔を思い出していた。

「もう六十代半ばの筈だが、歓迎はしてくれないだろうな」

「何か、富岡さんとトラブったとか?」

「一言で言えば、俺以上に変人なんだよ。だが、何としても今夜中に五十嵐さんの住処を尋ねないと」

 富岡の横顔が、強い危機感に引き締まった。

「何か、事件の鍵を握っているんですか、その人?」

「いや、ヘビースモーカーなんだ、俺以上に」

「え?」

「あの人の部屋なら、パイプを吸っても、誰も文句を言わない」

「はぁ?」

「これ以上、俺は我慢できん。ストレス溜まって辛抱堪らん。まさに最優先事項だろ、これって」

 ニンマリ笑って、ポケットの電子パイプを撫で、富岡は空席のある自由席の車両へ戻っていった。

 煙に巻かれた実感と共に、笠松は先程見直した富岡の評価を急降下させたが、確かに打てる手は全て打たねばならない。

 もし『赤い影』が雌伏の時を終え、蠢き出したのだとしたら、次の犠牲者は遠からず出る。

 一旦潜伏したシリアルキラーが犯罪を再開した場合、徐々に犯罪の間隔が短くなるのは、乏しい笠松の知識でさえ予見できる明白なリスクなのだから。
 
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