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知り過ぎていた男 1

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 富岡、笠松両刑事を乗せたはやぶさ40号は東京駅へ22時4分に到着し、二人は中央線で新宿へ向かった。

 更に都営地下鉄・大江戸線へ乗換え、西新宿五丁目駅で降りて細長い階段を上がる。
 
 通りに出て、都庁方面に林立する高層ビルのライティングを見上げ、笠松はふと呟いた。

「久々に見ると、東京の夜は眩しいですね。東北の繁華街と比べて町全体の光量が違う気がする」

「ゆかしき風情ってのは乏しいがね」

 月明かりの下、新宿中央公園を背に歩きながら、浮かない表情で富岡が言葉を返した。

 相変わらず不機嫌なのは、電子パイプを吸えないストレスがそろそろ限界に達しつつある為らしい。

「もう少し、あの人の所へ行けば……あっちもヘビースモーカーだから……」

 地下鉄を降りてから、ブツブツ念仏みたいに富岡は唱え始めた。

 あ~、鬱陶しい。

 笠松が更に足を速めたのは、先輩の愚痴に辟易したのと、これから訪ねる相手への好奇心が半々である。

 五十嵐武男と言う男、20世紀の末に警視庁・科学捜査研究所、通称・科捜研へ所属し、まだ日本国内で十分認知されていなかった快楽殺人犯の実態、プロファイリング捜査の手法について学ぶべくFBIで長期研修を受けた後、ノウハウを日本へ根付かせたプロジェクトチームの一員なのだと言う。

 富岡の昔話を聞くまで、笠松はその名を知らなかった。

 警察庁で実績を残しているならそれなりの記録が残っている筈なのに、データベースを検索しても科捜研・元研究員という最低限のプロフィールだけ。

 在籍中に関わった事件の詳細な記録も無い。何らかの理由でデータベースから抹消されたのでは、と詮索の一つもしたくなる。





 その五十嵐武男は、西新宿五丁目の地下鉄出口に面した通りから南側の細い路地へ入り、二区画ほど奥まった位置にある古い分譲マンション5階の一室にいた。

 一応、書斎という事らしく、ドア以外の壁面は書棚や書類整理用のキャビネット、ひび割れた黒板で埋め尽くされている。

 黒板には書いた者しか読めそうにない汚い文字がびっしり書き込まれ、丸い磁石で写真や雑誌・新聞のスクラップ記事が固定されていた。

 学者の部屋らしい佇まいと言えない事も無いが、室内の散らかり様は破綻した日常生活を如実に表している。

 のり弁の包みやら、干からびた果物の皮やらが積み重なり、収集日に捨て損ねた黄色いゴミ袋も幾つか転がっていて、生活の大部分が部屋の中で完結する事を示してもいた。

 で、その主はと言うと、パソコン相手に苦闘の真っ最中だ。

 モニター画面には、サイケデリックな彩色を施した『門』のCGが大きく映し出されている。

 臨と守人が挑んだ『タナトスの使徒』と似た仕様だが、多国籍表示になっている点など、ディティールは結構違っていた。

 即ち『TOR』を要する裏バージョンの方であり、ダークウェブの奥底に潜むサイト本体へのアクセスを試みているらしい。

 しかし門前で立ち往生、その先に進めていなかった。

 画面操作でポップアップ・メニューを表示させ、様々なパスワードを打ち込んだ挙句、タイムアップで通信が切断されてしまう展開を延々と繰り返している。

「あ~っ!」

 無限のいたちごっこで癇癪を起こし、五十嵐は禿げ頭の端っこへ僅かに残る白髪を指先でかき回した。

 見た目から言えば、彼の胡散臭さは並の犯罪者以上だろう。汚れたパジャマを着こむ小柄な体は痩せ細り、下腹のみプクリと膨らんでいて、両の眼をギラギラさせる辺り、地獄の亡者さながらだ。

「毎度、手間かけやがって。どうしたら先に進めンだ!」

 五十嵐が手にしたマウスを握りしめ、床へ思い切り叩きつけようとした時、玄関からチャイムの音が聞こえた。

 仏頂面でマウスをデスクへ置き直す。

 時刻は午後11時過ぎ、来客には遅過ぎる時間帯だ。いや、何より彼を訪ねてくる者など滅多にいない。

 警戒心を漲らせ、五十嵐はデスクにたてかけた金属バットを手にドアを開けて、廊下へ出る。玄関の前まで行く間、チャイムはしつこく鳴り続けていた。

「五十嵐さん、いるんでしょ?」

 ドア越しの声に聞き覚えがある。

 寄る年波、固有名詞を思い出すのがめっきり難しくなったが、間延びした能天気な声音は実に印象的だ。

 あいつ……あの厚かましい奴、何て言ったかな?

 思い出すのも億劫で、このまま居留守を使おうかと思った矢先、今度はドンドンと拳でドアを叩く音がした。

 ご近所迷惑を考えろ、バカモン! 只でさえ、わしゃ色々と顰蹙をかっておるのに。

 こちらの狼狽を余所に、ドアを叩く音は一層大きくなる。

 その無神経な振る舞いが、五十嵐の脳裏に十年前の、まだ若い交番巡査の顔を浮かび上がらせた。

 掠れ気味のそいつの声が、またドアの向うから聞こえる。

「五十嵐さ~ん、早く出て来て下さいよぉ。こっちも夜討ちは嫌なんですがね、あなた、滅多に外へ出ないし、生活のリズムが変でしょ。起きてるのは大抵、夜中なんだから」

「お前、富岡か?」

 やっと思い出した名前を五十嵐は口に出す。

「お久しぶりです」

「帰れ。わしゃ留守だ」

「留守って、今、そこにいるじゃないスか?」

 この声の調子は、富岡よりずっと若い。

 富岡の奴、生意気に部下を使う身分になりやがったか。そう思うと、益々、扉を開ける気持ちが失せる。

「居留守だよ」

「はぁ?」

「だから、居留守じゃ、永遠に! 待つだけ無駄よ、諦めぃ」

 五十嵐はご近所の顰蹙を弁えない大声で怒鳴り、険悪そのものの表情を浮かべて玄関ドアを睨みつける。
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