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虚ろなる羊の内に 6
しおりを挟む志賀のマンションを飛び出し、どれ位経ったのだろう?
今、10時? 11時?
夜中なのは確かだが、時間の感覚が定かではない。
まだ夏が名残を留める時期なのに、路地を彷徨う内、身を切る寒さを感じた。
薬が切れてきた証かも知れない。半裸の状態から適当に羽織って外へ出た分、素肌を刺す夜風が気になる。
下弦の月が掛かる薄曇りの空で街灯の少ない辺りは視界が悪く、疎らに落ちる澄んだ月明かりが寒気を一層痛感させた。
もう、あいつンとこ、引き返しちゃおっか?
そんな風に思ったものの、もと来た道へ足が向かない。無断で裸身を撮影された憤りがまだ胸の奥で燻っている。
それに、もう少し頭が冴えれば、すぐ住処へたどり着ける筈だった。
志賀のマンションから距離にして1キロメートルも離れていない場所に、ワンルームの賃貸マンションを借りている。
家賃一か月6万円ちょいで、ユニットバスとシャワー付き。
無職の茜の代りに月々の家賃を支払っているのは志賀だ。一見、プー太郎っぽいのにあいつ、意外と金回りが良い。
何で稼いでいるやら?
ユーチューバーを自称していても、アフィリエイトで稼げるレベルじゃない。管理人を務めている『タナトスの何とか』にせよ、極端な題材のアングラサイトだから高収入に結びつくと茜には思えなかった。
なのに、あの羽振り。もしかして凄い金づるがいるとか?
茜を同居させず、志賀が「特別な仕事」と呼ぶ何かの作業を行う際は編集室へ寄せ付けないから、そこで実入りの良い仕事をこなしているのかもしれない。
何にせよ、金に困る姿を見た覚えが無かった。茜の生活費を出している事にせよ、高価なペットのつもりなのだろう。
ま、別にペットでも良いけどさ、可愛がってくれるなら。
志賀は茜の気持ちをいつも無視する。
抱きたい時に抱き、動画のネタや小道具に使い、ストレスが溜まると暴力を振う。
強引に勧められ、すっかり虜になった『薬』の魅力が無ければ、とっくに逃げ出していたと思う。
何でも言いなりの暮しに内心限界を感じていた。何時の日か、擦り切れた気持ちが暴発する予感は膨らんでいた。
で、さっきの騒ぎだ。
厄介な女と思われたかな? でも、捨てられるんなら捨てられても良い。どうせ、行くとこも、アテも無いもん。ハハッ、何ンかで見たわ、絶望する十代って奴? ソレな! そう、ソレ!
もう、どうせ……お先真っ暗なんだから、さ。
体の芯を冒す寒気が耐えがたくなり、茜は道端の自動販売機で缶コーヒーを買って、湯たんぽ代わりに懐へ抱いた。
早く帰らなきゃ。
薬が醒めると反動で不安が強まり、路上で立ち竦んだまま動けなくなった事もある。もう一本、缶コーヒーを買い、抱えて路地を歩き出した時、背後に気配を感じた。
はっとして振り向く。
何か動いた様な……でも、その何かは路地の隅、暗い物陰へ溶け、何処に行ったかわからない。
「ススム?」
志賀が追ってきたかと思い、薄闇の向うへ声を掛けてみても返事は無い。
「ススム……いるなら、出てきてよぉ」
強い風が静寂の闇を吹き抜けた。
寒い。そして、怖い。
中毒症状に陥っている彼女の感覚の中で景色の色合いがぼやけ、酷く歪んで見える。
その歪みを潜り、赤い……真っ赤な服を着た誰かがユラユラと……体を左右へ揺らし、近づいてきた。他に人影は無い。この辺はオフィス街で住宅が少ないから、夜間に出歩く人もいない。
それを見越しているのだろう。赤い何かの歌う声……電子音に似た耳障りな声が風に乗って流れてきた。
それでも曇って泣いてたら、そなたの首をチョンと切るぞ。
歌の最後でクスクス笑う声。耳を塞いでも悪寒が胸の奥からこみ上げる。
耐えきれずに悲鳴を上げ、茜は走った。
缶コーヒーが手元から落ち、路上で転がる音がやけに遠く聞こえる。よろけながら無我夢中で、今にも絡まりそうな足を動かし続けた。
「あたしの……あたしのお家、何処ぉ!?」
残る薬物の影響が意識を錯綜させ、混乱しきった頭はすぐ近くにある筈のワンルームマンションへ中々辿り着けない。
変な所を曲がり、酷く遠回りした気がする。
1キロ程度の道のりが果てしなく遠い。漸く見慣れた玄関の灯りが見えた時、茜は歓喜で飛び上がった。
恐る恐る後ろを振り返り、誰かが追ってきていないか確かめ、ほっと胸を撫で下ろす。
マンションビルの玄関はオートロック式で鍵が無いと入れない。
茜は息を切らしたまま、金属製の玄関ドアを抜け、ホールの先にあるエレベーターのスイッチを押した。
扉が開くまで気が気でない。
何度も玄関の方を振向き、扉が開くと飛び込んで、自室のある5階のスイッチを押す。
扉が閉じ、やっと一息ついた。
あぁ、もう……別れなきゃ、アノヤロウ、絶対ェ別れる。薬の事は……え~っと、お医者さんに相談して……ううん、その前にお母さんへ電話……
でもエレベーターの扉が開いた時、あの『赤い影』が眼の前に立っているのを茜は見た。
道に迷う間、先回りされたのだろうか?
膝から力が抜け、茜はエレベーターの壁に凭れたまま、ズルズルと崩れ落ち、床へ尻餅をついた。
赤いレインコートの上の潰れた仮面が迫り……壊れかけたボイスチェンジャーの、ノイズ混じりの声が囁く。
「逃げル? 逃げれバ? 逃げらレ、る?」
志賀が良くやる、おどけた口調だ。ひび割れた仮面の穴から血走った男の目が覗く。
いつも通り茜の恐怖を楽しんでいると思ったが、違う。不安定に左右へ揺れ動く瞳は、むしろ哀し気だ。
「ススム……ススム、でしょ?」
答えは無い。
「ススムなんでしょ、ねぇ、ゴメン。ごめんなさい。あたし、いい子にするから」
「俺……あの人に、怒らレ……」
辛うじて聞こえる声で赤いてるてる坊主は呟き、コートの胸元から金槌を取り出して、ゆっくり振り上げた。
「怒らレ、る……みんなに」
仮面の割れ目から又、血走った目が垣間見えた。確かに怯えている。泣き出す寸前の子供の目だ。
茜は逃げなきゃ、と思った。でも竦んで動けない。目に一杯涙を溜め、ひび割れた赤い仮面へ懇願する。
「ススム、いや……」
意識を失う前に、茜は自分の頭頂部を強打する金槌の風切り音を聞いた。
痛みや冷たい感触を意識する事も無く、エレベーターの中で動かなくなった彼女の体を、赤いレインコートの男は引きずりだし、そのまま廊下を歩き出す。
てるてる坊主、てる坊主、あした天気にしておくれ。
仮面の中の瞳は先程までの怯えが嘘のように楽し気で、ノイズ交じりの耳障りな歌声がワンルーム・マンションの狭い廊下に響き、一室のドアが開く音と共に消える。
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