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古き骸を捨て 1
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午後2時半を過ぎた辺りから、外では雨が降り出したようだ。
窓に張り付く水滴でそれは判るが、雨音はしない。
医工学科ビル4階・ラボの一画、防音壁で覆われた外来用診察室の中はすっかり静まり返っていた。
来栖晶子の催眠療法は既に始まっている。
通常、医師と患者のみで行うが、この時は臨も立ち会っていた。守人がそう望み、彼の過剰な恐怖心を和らげようと晶子も許可した為だ。
目を閉じ、深い催眠状態にある守人は穏やかな呼吸を繰り返していて、表情には何処かあどけなさが漂っていた。
施術中の晶子も子供へ語り掛ける口調で、
「高槻君、教えてちょうだい。あなたは今、何才?」
「……9才」
巧みな暗示により、幼児期まで精神が退行した守人の言葉はたどたどしい。対する晶子は端的でわかりやすい表現を選び、リズミカルに質問を繰り返した。
「楽しかった冬休みはもうすぐ終わりよ。高槻君、宿題は済みましたか?」
「まだだよ。だって、休みの最後の日にやるんだもん、僕」
クスクスと笑う守人を微笑ましく臨は見つめた。
だが、彼の運命を変えた事件の記憶について、尋ねない訳にはいかない。トラウマへ最初に直面するのは、催眠療法のプロセスの中でも一際リスキーな瞬間である。
「さぁ、あなたは今、小学校のお友達と遊んだ帰りに自転車で走っている。橋の下の細い道で、見上げると高速道路を走る車が見えるわね」
「……うん」
「いつもは使わない道だけど、寒い日だったから、近道したくて通ったんでしょう?」
「……うん」
「少し前の荷物置き場、ほら、工事につかう柱や砂が積んである場所よ。あなたは横を通りかかって、そこで何か起きたのよね?」
「……女の人の声がした」
「どんな声?」
「叫ぶ声、助けてって言ったかも……でも、すぐ聞こえなくなっちゃって」
「橋の下に、何か見えますか?」
「……背の高い男の人……変な格好してるんだ。赤いお面と赤い服で……」
「他には?」
急に悲鳴を上げ、大きめのリクライニング・チェアの上で守人が全身を屈める。
「どうしたの?」
「こわい……こわい……」
臨は駆け寄りたい気持ちを抑え、口の中で「がんばって」とだけ呟いた。
晶子は感情を声にのせない。あくまで同じトーンを保ち、リズミカルに質問を続ける。
「側に女の人が倒れていたのね」
「……うん。血が、出てる……一杯」
「その赤い服を着た男の人はどうしたかしら?」
守人の体がビクン、と震えた。
「……こっちに来る」
閉じたままの目蓋の下で、眼球が目まぐるしく動いているのがわかった。
錯綜する意識の中で、9才の彼は迫りくる赤い異形と、その手に握られた血塗れの金槌に目を奪われている。
「やめて……来ないで!」
そう叫んだ。降りた自転車へもう一度飛び乗ろうとするが、竦んだ体は言う事を聞かず、転んで地べたへ叩きつけられる。
逃げなきゃ、と思う。
でも尻餅をついたまま、膝小僧がブルブル震え、足に力が入らない。逃げる処か、立ち上がれもしない。
「……来る……助けて、助けて、お母さん! あいつがこっちに来ちゃう」
リクライニングシートの上で、守人が喚き、身悶えした。
「先生、止めて下さい」
臨が訴えたが、晶子は首を横に振る。
「私に任せて」
「でも!?」
「もう少し、様子を見ましょう。高槻君が真実と向き合う為、いずれ越えなければならないハードルなのよ」
声は冷静に保ちつつ、晶子の顔も青ざめていた。
師も極度の緊張状態にあり、全身全霊で施術に取り組んでいるのを感じて、臨は一歩引く。震える守人を前に「頑張って……頑張って」と、何度も何度も小さく呟く。
守人の意識の中で、最早『赤い影』は十メートル前後の距離にまで近づいてきていた。
「我々は何処から来たのか?」
ボイスチェンジャーを通した甲高い声は、9才の少年には到底、人間の声とは思えない。
映画好きの父の影響でDVDを持っていたアメリカのテレビ映画「宇宙家族ロビンソン」のロボットを思い出したが、あれは愛嬌に溢れた温かみのある声だ。
「我々は何者か?」
悪魔の声って、きっとこんな感じ。
感覚が麻痺し、何処か現実味の薄い景色の中で守人はそんな風に思った。マスクの隙間から漏れる息が寒風で白く濁る。もう目と鼻の先まで来た。
こわい。こわい。
恐怖の感覚が急に戻って来て、心臓の高鳴りがとても大きく聞こえた。
でも、体に力は戻らない。
腰が抜けたまま、小さな体の中で制御不能の恐怖だけ膨らみ、内から弾けてしまいそうだ。
赤い仮面の中で、殺人鬼は守人の慄きを吟味し、味わう素振りを見せた。しばし堪能した後、路上に佇む小さな体を抱え、物置き場の奥へと連れ込む。
そこから先も急がなかった。
真っ赤な手袋をつけ直し、守人の鼻筋の上部へ狙いをつけて、握りしめた金槌を振り上げる。
「我々は何処へ行くのか?」
殺されるんだ、僕。こんな寂しい所で、誰も知らない間に。
幼子にありまじき絶望の重みが、守人の天性ともいうべき繊細な感性を根底から揺らし、心の要が崩壊の危機に瀕した。
そして……弾ける様に、乾いた笑い声が生じる。
『赤い影』が発したものではない。
それどころか、殺人鬼はその時、明らかに戸惑っていた。振り下ろしかけた金槌を止め、不思議そうに少年の顔を覗き込む。
そこに狂気の笑みがあった。
殺人鬼の中に宿る悪意を正確に模倣し、殺戮衝動とシンクロした冷笑で小さな口元が醜く歪んでおり、徐々に調子っぱずれの哄笑が大きくなっていく。
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