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古き骸を捨て 1

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(21)

 午後2時半を過ぎた辺りから、外では雨が降り出したようだ。

 窓に張り付く水滴でそれは判るが、雨音はしない。

 医工学科ビル4階・ラボの一画、防音壁で覆われた外来用診察室の中はすっかり静まり返っていた。

 来栖晶子の催眠療法は既に始まっている。

 通常、医師と患者のみで行うが、この時は臨も立ち会っていた。守人がそう望み、彼の過剰な恐怖心を和らげようと晶子も許可した為だ。

 目を閉じ、深い催眠状態にある守人は穏やかな呼吸を繰り返していて、表情には何処かあどけなさが漂っていた。

 施術中の晶子も子供へ語り掛ける口調で、

「高槻君、教えてちょうだい。あなたは今、何才?」

「……9才」

 巧みな暗示により、幼児期まで精神が退行した守人の言葉はたどたどしい。対する晶子は端的でわかりやすい表現を選び、リズミカルに質問を繰り返した。

「楽しかった冬休みはもうすぐ終わりよ。高槻君、宿題は済みましたか?」

「まだだよ。だって、休みの最後の日にやるんだもん、僕」

 クスクスと笑う守人を微笑ましく臨は見つめた。

 だが、彼の運命を変えた事件の記憶について、尋ねない訳にはいかない。トラウマへ最初に直面するのは、催眠療法のプロセスの中でも一際リスキーな瞬間である。

「さぁ、あなたは今、小学校のお友達と遊んだ帰りに自転車で走っている。橋の下の細い道で、見上げると高速道路を走る車が見えるわね」

「……うん」

「いつもは使わない道だけど、寒い日だったから、近道したくて通ったんでしょう?」

「……うん」

「少し前の荷物置き場、ほら、工事につかう柱や砂が積んである場所よ。あなたは横を通りかかって、そこで何か起きたのよね?」

「……女の人の声がした」

「どんな声?」

「叫ぶ声、助けてって言ったかも……でも、すぐ聞こえなくなっちゃって」

「橋の下に、何か見えますか?」

「……背の高い男の人……変な格好してるんだ。赤いお面と赤い服で……」

「他には?」

 急に悲鳴を上げ、大きめのリクライニング・チェアの上で守人が全身を屈める。

「どうしたの?」

「こわい……こわい……」

 臨は駆け寄りたい気持ちを抑え、口の中で「がんばって」とだけ呟いた。

 晶子は感情を声にのせない。あくまで同じトーンを保ち、リズミカルに質問を続ける。
 
「側に女の人が倒れていたのね」

「……うん。血が、出てる……一杯」

「その赤い服を着た男の人はどうしたかしら?」

 守人の体がビクン、と震えた。

「……こっちに来る」

 閉じたままの目蓋の下で、眼球が目まぐるしく動いているのがわかった。





 錯綜する意識の中で、9才の彼は迫りくる赤い異形と、その手に握られた血塗れの金槌に目を奪われている。

「やめて……来ないで!」

 そう叫んだ。降りた自転車へもう一度飛び乗ろうとするが、竦んだ体は言う事を聞かず、転んで地べたへ叩きつけられる。

 逃げなきゃ、と思う。

 でも尻餅をついたまま、膝小僧がブルブル震え、足に力が入らない。逃げる処か、立ち上がれもしない。





「……来る……助けて、助けて、お母さん! あいつがこっちに来ちゃう」

 リクライニングシートの上で、守人が喚き、身悶えした。

「先生、止めて下さい」

 臨が訴えたが、晶子は首を横に振る。

「私に任せて」

「でも!?」

「もう少し、様子を見ましょう。高槻君が真実と向き合う為、いずれ越えなければならないハードルなのよ」

 声は冷静に保ちつつ、晶子の顔も青ざめていた。

 師も極度の緊張状態にあり、全身全霊で施術に取り組んでいるのを感じて、臨は一歩引く。震える守人を前に「頑張って……頑張って」と、何度も何度も小さく呟く。





 守人の意識の中で、最早『赤い影』は十メートル前後の距離にまで近づいてきていた。

「我々は何処から来たのか?」

 ボイスチェンジャーを通した甲高い声は、9才の少年には到底、人間の声とは思えない。

 映画好きの父の影響でDVDを持っていたアメリカのテレビ映画「宇宙家族ロビンソン」のロボットを思い出したが、あれは愛嬌に溢れた温かみのある声だ。

「我々は何者か?」

 悪魔の声って、きっとこんな感じ。

 感覚が麻痺し、何処か現実味の薄い景色の中で守人はそんな風に思った。マスクの隙間から漏れる息が寒風で白く濁る。もう目と鼻の先まで来た。

 こわい。こわい。

 恐怖の感覚が急に戻って来て、心臓の高鳴りがとても大きく聞こえた。

 でも、体に力は戻らない。

 腰が抜けたまま、小さな体の中で制御不能の恐怖だけ膨らみ、内から弾けてしまいそうだ。

 赤い仮面の中で、殺人鬼は守人の慄きを吟味し、味わう素振りを見せた。しばし堪能した後、路上に佇む小さな体を抱え、物置き場の奥へと連れ込む。

 そこから先も急がなかった。

 真っ赤な手袋をつけ直し、守人の鼻筋の上部へ狙いをつけて、握りしめた金槌を振り上げる。

「我々は何処へ行くのか?」





 殺されるんだ、僕。こんな寂しい所で、誰も知らない間に。





 幼子にありまじき絶望の重みが、守人の天性ともいうべき繊細な感性を根底から揺らし、心の要が崩壊の危機に瀕した。

 そして……弾ける様に、乾いた笑い声が生じる。

 『赤い影』が発したものではない。

 それどころか、殺人鬼はその時、明らかに戸惑っていた。振り下ろしかけた金槌を止め、不思議そうに少年の顔を覗き込む。

 そこに狂気の笑みがあった。

 殺人鬼の中に宿る悪意を正確に模倣し、殺戮衝動とシンクロした冷笑で小さな口元が醜く歪んでおり、徐々に調子っぱずれの哄笑が大きくなっていく。
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