緋の残像 伝説の殺人鬼が恋人の心の奥で蘇る

ちみあくた

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まだ「そこ」にいる 1

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(24)

 都営地下鉄大江戸線・西新宿五丁目駅の出口から五十嵐武男が住む分譲マンションまでは、ノンビリ歩いても十分かからない。

 だが、今日はそれが遠く感じられた。

 午後7時を過ぎ、冷たくなった風が身を縮ませ、運ぶ足取りがとにかく重い。

 年だな、と五十嵐は痛感した。

 今日は10月6日、土曜日。週の初めに高槻守人が姿を消し、事態の急変を実感。以来、老骨に鞭打ち調査のペースを早めている。

 隅亮二が少年時代に通った学校、卒業後も研究員として在籍した帝都大学、雇われ医師の立場で渡り歩いた病院、診療所等を巡り、癌が見つかって失踪するまでの足跡を調べ回った。

 トータルで何キロくらい歩いただろう?

 ずっと書斎に引きこもる生活を送ってきたせいで足腰、特に膝が想像以上に弱っている。

 隅の脅迫に屈し、自分の殻に閉じこもった報いだと思うが、一歩毎に締め付ける膝の痛みはどうにも耐えがたい。

 畜生! 今夜、あいつらに会えば一先ず休めるンだ。明日から当分、何があっても家から出ねぇぞ。

 五十嵐はマンションの玄関前で染みだらけの白壁に凭れ、膝を揉んで呟いた。

 足で稼ぐ調査は取り合えず終了。それなりに隅という男について把握できている。





 1961年2月2日、兵庫県神戸市生まれ。

 父は神戸市役所の産業振興課に勤務する事務職員で、退職時は課長。如才なく、人望はそこそこ。それなりに有能だが、有能過ぎはしない公務員の雛形を絵に描いた様な男だ。

 母は若い頃、図書館の司書として働き、結婚後は専業主婦に落ち着いている。

 写真を見ると丸顔で、柔和な笑みが印象的だった。十分に美人と言えるが、特に目立つタイプではなく、さながら路傍の花と言う所だろうか。
 
 二人とも息子が15才の時、交通事故で亡くなっている。

 しかし仮に話を聞けたとしても、隅の両親から事件の背景を紐解く特別な要素は出なかっただろう。平凡な家庭の、ごく有り触れたエピソードを聞かされるだけだ、と五十嵐には思えた。

 彼らに特別な物語は無い。

 後の怪物を生み出す家庭に相応しい強烈な体験や異常な出来事など、記録を見る限り欠片も無い。
 
 隅亮二自身にせよ、少年時代は平凡なのだ。

 成績は中の上。スポーツには特に興味を示さず、同級生の話によると物静かで存在感が薄かったらしい。いつもクラスの一番後ろの席にいて、自分から発言はしない。隅を覚えていないクラスメートも多かった。
 
 趣味は読書。絵も好きで、時々、山野へ出て写生をする事もあったそうだが、さほど上達しなかったらしい。

 特に仲の悪い生徒がいない反面、親友もおらず、中学、高校を通して帰宅部。非行の記録は一切残っていない。

 今風に言えば草食系の無色透明。無い無い尽くしも良い所だ。





 結局、全て隠れ蓑だったんじゃねぇか?

 特筆すべき点が無い隅の学生時代を顧み、五十嵐にはそう思えてならない。

 己の非凡さと胸の内に宿る不穏な願望、強烈な衝動に気付いて以降、常に心を偽る習慣を身に付けたとしたら?

 あの赤い仮面の中身はぽっかり空いた空洞であり、その空虚さこそ隅の本質かもしれない。





 何度となく五十嵐を驚嘆させた明晰さを隅が示し始めるのは、大学受験の一年前である。

 平凡な偏差値に過ぎなかったものが、全国規模の大学模試でいきなりトップテンに入る成績を示し、そのまま帝都大学へ入学を果たした。
 
 そこから先は生まれ変わった様に才能を発揮。

 最短コースで外科医の医師免許を取り、将来を嘱望されながら、突如として犯罪心理学へ専攻を移す。
 
 FBIへの留学・研修を終えて日本へ帰ってきた後、大学の研究室からも離脱。

 しばらく各地の診療所を転々とし、自分の診療所を開設する為のノウハウを学ぶのと並行して、日本中に幅広い人脈を築いている。
 
 その甲斐あって開設後の診療所は順風満帆。

 彼を頼り、全国から患者が集ったと言う。そして、その患者の中から或る特質を持つ患者を隅はピックアップし……





 ヒュウと背後で風が鳴り、五十嵐の背筋が凍った。

 背後に誰かの視線を感じる。各地を巡る調査中も追跡者の気配や息吹の接近を感じる事が何度となくあった。

 嫌だねぇ。年を喰えば、誰でも怖気づくもんだ。

 そう笑い飛ばしたいが、昔、隅の脅迫を受けた際、協力者がいると仄めかされた記憶が脳裏で閃く。

「私のサイトに集う同朋、そのコミュニティの広がりを甘く見てもらっては困るのさ」

 あの時、隅は余裕の笑みを浮かべていた。はったりでは無く、五十嵐と家族をいつでも殺せるとの宣言だったと思う。

 では、今は?

 隅が姿を消した後も、その同朋とやらは託された使命を頑なに守り、五十嵐の監視を続けているのだろうか?

 薄気味悪さに身震いし、五十嵐はマンションの門を潜ってエントランスホールを抜け、切れかけた蛍光灯が点滅する暗い階段を見上げた。

 こんな時は、何でケチらずエレベーター付きのマンションを選ばなかったんだ、とつくづく思う。

 痛む膝に喝を入れ、どうにか階段を上っていく五十嵐の背後で、又、ヒュウと風が鳴った。
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