ジョニーは洗い場へ行った

ちみあくた

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 近年、智代が密かに悩み続けて来た夫の「異変」とは、単に晩酌の酒量が増えただけの問題ではない。

 仕事人間故の燃え尽き症候群とでも言おうか?

 何かにつけて過去を回顧し、失った物の数を数えたがる。そして新たな目標、喜びへ目が向かない厄介な傾向である。





「あの古いお煎餅の缶をね……あの人、自分の部屋で毎日、お酒を片手に何時間も眺めてるんです。独り言も増えちゃって、鬱にでもなるんじゃないかと」

 友里恵に思い切って打ち明ける以前、彼女は複数の医師に相談してみたと言う。

 得た答えは不安を裏付ける物ばかりだった。

 如何にも性格の暗そうな高齢者より、明るい態度と強気を装い、他人に悩みを見せないタイプの方が深刻な精神状態へ陥る危険性は高いらしい。
 
 そして、忠を介して事情を知った譲二が奇抜な打開策を智代へ提案した。昔、覚えた料理の再現を時折り試みる慎吾の気まぐれに便乗しようと言うのだ。
 
 スペインからのワイン直輸入は、慎吾の地味な会社人生の中で最も光輝く勲章であり、その成果を見たいと昔の仲間が頼めば断る事はあるまい。

 そこでホームパーティを開く段取りを整え、その席で口裏を合わせて、まず毎日の深酒をたしなめようと考えたのだが、
 
「俺、さっき慎吾に暫くの間、台所の洗い物を全て引き受けろと進言しました」

「あの人、納得したんですか?」

「ええ。口に出したらキチンと実行するタイプですからね。多分、それであいつの酒量は確実に減る筈」

 忠が「お前のその読み、イマイチ判んねぇわ」と横から割り込んでくる。

「俺の経験から言うとな、食事の後ですぐ食器を洗う習慣を身につけた場合、後で食卓へ戻ったとして、もう一度お酒を飲む気にはなりにくいんだよ」

「あ、食後、三十分で満腹感がピークになるってテレビで見たわ、あたし」

「洗い物をしっかりやれば、それくらいの時間は間違いなく掛かる」

「な~るほど。ウチもその手、使わせてもらおうかしら」

 いきなりのとばっちりで、忠が思わず「藪蛇だぁ!」と喚く。

 譲二は構わず、

「それに不慣れな家事に取り組む慎吾へあなたが手を貸せば、これまでより夫婦の距離が縮まるかもしれない」

 と、智代を勇気づける言葉を続けた。

「少なくとも、過去の思い出にしがみつく奴の傾向は薄れるでしょう。いや、俺らも協力して、薄れる方向へ持っていく」

「へへっ、あの高慢ちきが萎れちまったら、こっちも調子狂うしな」

 電話の向こうで、智代は更に感謝の言葉を繰り返した。

 長年の嫉妬と苛立ちを誇張し、演じていた先程までの態度と違い、哀しいまでの腰の低さだった。





「で、智代さん、あたしが預かってるコレはどうする?」

 しばしの沈黙の後、友里恵が唐突に言い、愛用している黒革のショルダーバックからレーベル面が白地のDVD―Rを取り出した。

「コレ?」

 怪訝に首を傾げる忠へ悪戯っぽく笑う友里恵を見た途端、譲二には閃く物がある。

「もしかして……慎吾が隠していた8ミリビデオをダビングしたんですか?」

 友里恵は頷くが、電話の向こう側の智代は何も言わない。

「オイ、お前、いつの間に!?」

「最初に智代さんから相談を受けた時、彼女が持ってきたのよ、旦那の目を盗んで、こっそりと」

「そう言えば業者のダビングサービスについて触れたの、友里恵さんでしたね」

「怖いなぁ、お前。とうにダビング済ませた癖して、すっ呆けてたんか!?」

「あんた、すぐ顔に出る方でしょ。秘密にしといた方が良いと思ったのよ」

「聞いてなかったのは俺も同じです」

「そうだよなぁ、慎吾が落ち込んでる話は確かに聞いたけど、昔の浮気うんねんは今日が初耳だもんな」

 答えに詰まる友里恵の様子を察したか、電話を通して智代が沈黙を破った。

「忠さん、すみません。保険のつもりで、使う気は無かったんです」

「保険?」

「あの人、割と短気な方だし、根が頑固じゃないですか。何かの弾みで臍を曲げちゃうかもしれないから」

「いざと言う時、お灸を据える切り札を用意したという訳ですね」

「はい」

「それじゃ、パーティの途中で急に過去の浮気の件を追求し始めたのは何故?」

「私と別の女の思い出を一緒にされた時、つい腹が立って……気が付いた時は缶の中のカセットを掴んでました」

 智代の弁明を聞きつつ、譲二は夫へ食って掛かる彼女の豹変を思い出していた。いつも物静かな女の奥底に淀む感情のマグマが噴出した瞬間を……

 一方、忠はすっかり友里恵の手の中のDVDへ興味の矛先を移しており、

「で、お前はもう見たの、それ?」

「さあねぇ」

「あ、見たな。ぜって~見てるわ、その顔」

「少なくとも、智代さんが見る前に中身を喋る気はありません」

「ずり~じゃねぇかよ、俺にも見せて」

 さりげな~くDVDへ手を伸ばす忠の手を払い、友里恵はスマホへ顔を寄せる。

「で、どうします? さっき二人でいた時も渡そうと思ったけど、男どもに見られちゃまずいから」

「友里恵さんが預かっていて下さい」

「見なくて良いわけ?」

 電話口へ向かって友里恵が問うと、智代は躊躇いがちに答えた。

「何が映っているにせよ、過ぎた事だし」

「それって物分かり良すぎないかな?」

「まだ、私なりにあの人が大事なの。見たら許せなくなりそうで」

 友里恵は一応納得した様子で、小さく頷き、白地のDVDをショルダーバックの中へと戻す。
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