AI仕掛けのロング・グッドバイ 愛しき女スパイに大いなる眠りを

ちみあくた

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君のコーヒーが冷める間に

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 その日、エド・ハンソンが仕事を終え、重苦しい夏の夜霧が漂うLAウエストサイドの事務所へ戻ったのは、午後9時を少し過ぎた頃の事だ。

 玄関のドアをくぐるなり、愛用の中折れ帽を投げる。

 狭いフェルトのつばが回転し、緩い放物線を描いて、樫の帽子掛けへ掛かった。

 狙いに寸分の狂い無し。

 およそ六年続いた先の大戦より生還を果たし、LAで探偵業を始めたエドは、住処を兼ねる事務所へ戻る度に帽子を投げている。もう千回以上投げた筈だが、一度も落とした事は無い。

 エドにとって、それは仕事のオン、オフを切り替える厳かなセレモニーだった。
 
 事務所外では、町の有力者やクライアントの前でも帽子を脱ごうとしない為、口さがない裏社会の住人達には、この習慣についてまことしやかな噂がある。
 
 曰く、戦争中、共に従軍した義兄を庇って頭部に酷い傷を負い、それを隠す為、帽子を手放さないと言うのだが……
 
 
 
 
 
「綺麗なものね、あなたの横顔」

 玄関から部屋の奥へ進み、ネクタイを緩めようとした時、右手から声がした。

 見ると、事務用の机に片肘をつき、左の掌の上に形の良い顎を乗せた女の、真っ赤な唇が月明かりに浮ぶ。

 ラナ・ホワイト。

 エドの唯一の部下であり、秘書と事務職を兼ねる有能な女性だ。半年前に事務所へ雇い入れて以来、一度も仕事でエドを失望させた事は無い。

「君か……驚かすな」

 ラナは軽く、首を傾げて見せた。

「こんな時間まで残業かい?」

「あなたを待っていました。ずっと、このデスクに座ったまま」

 今度はエドが、怪訝そうに首を傾げる。

「ねぇ、エド、それじゃ足りないわ」

「え?」

「もっと首の角度を変えて下さらない? 噂の傷が本当にあるか、確かめられる様に」

「そいつは悪い冗談だ」

「あら、そうかしら?」

 聞きなれた女性事務員の声に、エドはこの時、豊かな色香と媚を感じた。





 珍しい事もあるものだ。

 先の大戦の間、ラナは従軍看護師だったと言う。

 若い頃に修羅場をくぐったせいか、普段は化粧っ気が殆ど無く、黒縁眼鏡に地味な濃紺のジャケット、ミドル丈のスカートで通している。
 
 行動も控えめで、机に頬杖をついたままこちらを見上げる挑発的な態度は元より、鮮やかなルージュをつけた姿さえ、これまでエドに見せた事が無い。
 
 
 
 
 
「私ね、前から好奇心をくすぐられていたんです」

「俺の傷に?」

「ええ、傍へ来て見せてくれたら、私の秘密も教えて差し上げるのに」

 赤い唇が優美に笑った。

「断る」

 帽子掛けへ素早く片手を伸ばし、エドは中折れ帽を被り直す。

「つれないのね。本当に残念。良い機会だと思ったのに」

 ラナは机の下から右手を出し、引き金に手を掛けている9ミリ口径の拳銃を、正確にエドの眉間へ向けた。

「その冗談も笑えない」

「ごめんなさい。私、ユーモアのセンスに欠けるのよ」

 銃口が火を噴く。僅かに逸らした銃弾はエドの頬を掠め、壁に無粋な穴を穿った。

「何の真似だ、ラナ?」

「ふふ、もうお見通しなんじゃない? 私の正体、それにあなたへ近付いた目的も」

「言っている意味がわからんな」

「なら一昨日、あなたが私に内緒で義兄宛てに書き、暗号化したメールで密かに発信しているメッセージの内容は何?」

「あのメールの事、何故知ってる!?」

「お互い、打ち明けておくべき事が幾つか有りそうね」

「らしいな」

「良いわ、時間はまだ残っている。私の仲間がここへ駆け付けるまで」

「君を迎えに来るのか」

「私じゃなく、あなたを迎えに来るの。あなたは私達にとっても、私達の敵にとっても、至極特別の意味を持つ人だから」

「VIP扱いとは光栄の至り」

 エドは軽口を叩きつつ、ラナの隙を伺い、腰の裏側に仕込んだホルスターから35口径のリボルバーを抜こうとした。

 9ミリの弾丸が再び頬を掠め、硝煙を上げる小型拳銃を片手に、女性事務員が優雅に微笑む。

「余計な真似はしない方が身の為よ」

 ラナの促すまま、エドは拳銃を床に置き、机の方へ蹴る。





「ねぇ、エド、少しリラックスして待ちませんか? 二人きりで話せるのは、これが最後になるかもしれないし」

 エドの銃を拾い上げ、自分の銃を再び雇用主の眉間へ向けて、ラナが机の傍の椅子へ目をやった。

 彼女らしい手際の良さだ。

 机上には事前に用意したらしい白磁のカップが二つあり、一つはラナの正面、一つは机の反対側に置かれていて、冷めかけたコーヒーが中で揺蕩っている。

「ねぇ、側に来て。もう帽子は脱がなくて構わないから」

「良いだろう。だが」

 エドが手首を捻ると、人工皮膚に覆われたセラミックの骨格が露わになり、親指の部分がスライドして、小型電子加速砲の先端が現れた。

 二本の人造尺骨に仕込まれた伝導体の間に電流を流し、間に生じた磁場の相互作用によって超高速の弾体を打出す仕組みで、威力は拳銃の比ではない。

「こいつはどうする?」

「出来たら、外して頂きたいわね」

 先の大戦中に埋め込まれた人体内蔵兵器を、エドは右肘の先からイジェクトし、足元に落とした。

「自己申告、感謝します」

「どうせ君のその眼は、俺の体に仕込んだ玩具を全て見抜いているんだろ?」

「まあね。でも、あなたの方から捨ててくれたのは嬉しい」

 微笑むラナの双眸が、ルージュにも負けない真紅の光を放つ。

 放たれた光はエドの体を嘗めた。

 これも先の大戦で、初めて戦場に投入されたテクノロジーの一つだ。

 前世紀の初頭、医学目的で開発された磁気共鳴像影とX線走査を組み合わせた高度なセンサーで、人体の機械化された部分を正確に炙り出す事ができる。

 義眼に仕込める程小さくなったのは、大戦中の技術革新の賜物と言えるだろう。

「厄介な時代になったもんだな」

「ええ」

「人体改造技術の飛躍的進化により、相手が丸腰かどうか、君のような目が無いと判別するのが難しい。もっとも、俺の奥の手は少々威力があり過ぎ、狭い部屋の中ではどうせ使いものにならないんだが」

「あなたの義兄さんならどんな場所でも躊躇せず、撃ちまくるでしょうに」

「俺は、あの人とは違う」

 エドは肩を竦め、ゆっくり椅子に歩み寄って腰を沈めた。

 ラナが何を企んでいるにせよ、相手の出方を判断し、ミスを引き出す駆引きには相当の自信がある。
 
 使えない武器を敢えて晒して見せたのもその一手。
 
 彼女が同僚として働く間、隠し続けてきた能力や意図を暴くには、弱い立場に甘んずる方が好都合かもしれない。
 
 
 
 
 
 しばらく互いに何も言わなかった。
 
 代りにエドは白磁のカップを手に取り、一口すすって、じっくり味わう。
 
「あぁ、残念だな」

 ラナの瞳の奥で赤い光が瞬いた。

「君の淹れてくれるコーヒーは何時でも最高なのに、最後に味わう一杯が冷めてしまった代物とは」

「淹れ直してあげたいけれど」

「お願いできるかい?」

「ダメ……私が隙を見せたら、あなたはそれを見逃さない」

 ラナは口惜しそうに唇の端を噛んだ。

 責任感の強い女だ。

 こんな状況でも秘書としての職務を全う出来ないのは辛いらしい。
 
「で、何時気付いたの、私の事?」

 すぐには答えず、エドは醒めた液体を口の中で転がした。

「この事務所に職を得てから半年、私はあくまで忠実なあなたの部下に徹した。ばれる様なミスは、何一つ犯さなかった筈なのに」

「そんな昔の事は覚えていない」

「昔? あなたが私を疑い、不審人物として義兄へ密告したのは一昨日でしょ?」

「そこまでご存じの所を見ると、彼の組織内部にも君の仲間が潜入し、情報を集めている様だな」

 曖昧な笑みをラナは浮かべた。

「そいつから君に連絡が来て、義兄が動く前に先手を取ろうとした訳か?」

「教えてあげてもいいけど、先に私の質問に答えて」

 今度はエドが曖昧な笑みを浮かべた。

「気付いてすぐ、私を始末しなかったのは何故?」

「さあね」

「この目の力で、あなたの考えている事も全部見抜けたら良いのに」

「見抜いてどうする? 君達、人造人間に人の心が理解できるって言うのか?」

「ん~、どうかしら?」

 ラナの瞳の奥で、又、赤い光が蠢いた。

 もし、この目で彼女が自分自身を見たら、どんな風に見えるのだろう?
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