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時を味方にして参る
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(一)
「時の巡りを味方にして参る、そう申し上げたのみでごいす」
永禄四年(1561年)九月十日、卯の下刻(午前八時頃)、千曲川ほとりの八幡原で愛馬の背に跨り、山本勘助は嘯いた。
その斜め後方で同じく騎乗し、精鋭ぞろいの郎党・足軽を引き連れて進む武田信繁が、兜の鉢と結ばれた面頬当ての下で顎を微かに上下させる。
頷いているのだ。
先刻、武田軍の拠点・海津城から半里の位置に構えた野陣にて、左翼の守りから一時戻った信繁が、兄であり、主君でもある戦国の雄・武田信玄に最前線への突入を申し出た際の事。
齢六十九に達する老軍師・勘助がしゃしゃり出て同行を願った。
そして主の耳元へ一言囁いた途端、僭越な振舞いを窘める所か、信玄は厳しい表情を若干緩めた。
ほんの一瞬だが笑みを浮かべたようにも思える。
「あの御屋形様が、いくさ場で頬を緩めなさるとはのう。はてさて、如何なる言葉で口説いたものか。そう思うてはみたものの」
「合点が行きませぬか、典厩殿」
「いやはや、時……時か、のう」
胸に淀む疑問を信繁は勘助にぶつけ、帰ってきた言葉の内、「時」という部分を反芻して何やら腑に落ちるものがあったらしい。
行く手は濃い霧に閉ざされていた。
俗に一寸先は闇と言う。
だがこの場合、前方に広がるのは切れ目の無い一面の灰色。恐ろしく濃い湿気の帳で覆い尽くされ、馬の足元さえ覚束ない。
到底、走る所では無い。
進む方角を過たぬよう細心の注意を払い、ゆるりゆるり一歩ずつ進まねばならない。
戦場の只中にあって、これほど遅々とした足の運びを強いられるのは、勘助にとっても、信繁にとっても、初めての経験であった。
焦れる。
この上なく焦れるが、是非も無し。
おそらく敵将・上杉謙信の軍勢も又、同じく募る焦燥を噛み締めている筈なのだから。
夏から秋へ移りゆくこの時節、西方の飛騨山脈、東方の三国山地から険しい尾根を伝い、中央の長野盆地へと流れ込む冷気は、往々にして濃い霧を生む。
地元の民にすれば珍しくも無い日常の範囲であろう。
しかし、この日の濃さはやや常軌を逸し、目が頼りにならない以上、道標になるのは音のみだ。
例えば、左手から微かに聞こえる千曲川のせせらぎ。
例えば、霧の向う側でぶつかりあう鋼の響き。
緒戦で真っ先に前進、既に敵と遭遇した飯富昌景、内藤修理が率いる雑兵の絶え間ない雄叫び、断末魔の声も聞こえてくるが、音と音の間の距離感は曖昧で一向に掴めない。
時に血の匂いが風に乗り、その音と匂いのみ足を進める毎に強くなっていく。
思えば、この合戦の口火を切ったのも音であった。
二つの川の恩恵をうける肥沃な穀倉地域、川中島は信濃から関東へ向う交通の要衝に当り、天文二十二年(1553年)から八年の長きに渡って武田晴信、長尾景虎という古今稀なる将才が相打つ舞台となっている。
数えて四度目となる此度の合戦は、関東管領の地位を上杉憲政から受け継いで武田討伐の大義名目を得た長尾景虎が出家により上杉謙信と名を改め、武田晴信もまた出家して信玄を名乗り、共に入道して初となる。
これまでの経過を振り返るならば……
まず八月十四日、一万三千の兵と共に春日山城を出立し、信濃を目指した謙信は、川中島を見下す妻女山に本陣を張った。
対する信玄は同月二十四日、近隣の友軍を吸収して二万に膨れ上がった兵を率い、川中島へ到達。まず茶臼山へ陣を張り、その後、千曲川沿いの海津城へ移って上杉の出方を伺う。
慎重過ぎるほど慎重な姿勢を双方が崩さなかった。
何せ当代屈指と言われる弓取り同志が対峙しているのだ。緒戦のつまづきが、そのまま致命傷となりかねない。
九月七日まで十四日間もの睨み合いが続き、戦力的に優位な武田軍が先に鋭気の捌け口を求めた。
「このまま一戦も交えず、陣を退くのは武士の名折れじゃ」
名高き赤備えの騎馬武者隊を率いる飯富虎昌、勇将の誉れ高き馬場信房が、九月八日の軍議にて戦端を開く旨を強硬に主張。
信玄は虎昌、信房に高坂弾正忠らを加えた「啄木鳥隊」と呼ばれる一万二千名余りの一軍を急遽編成した。
十日の早朝を期して妻女山への奇襲攻撃を仕掛けると断を下し、彼らを九日の夜の内に出立させる。
信玄自ら指揮する本隊は、「啄木鳥隊」の奇襲に呼応すべく十日未明に海津城を出て、妻女山から炙り出される上杉勢を待ち受け、川中島中央の八幡原にて挟撃しようと言うのである。
「啄木鳥」とは、巣にこもる獲物をつついて顔を出した途端に反対側から捕食する野鳥の習性に倣った命名であり、足軽大将の一人として信玄の傍らに侍る勘助から見ても万全の策に思えたが、敵将の慧眼がそれを見抜いた。
海津城から上った炊煙が普段より多いのを怪しみ、武田出撃の兆しと読んだ上杉謙信は秘かに妻女山を脱出、深夜の千曲川を渡って対岸の八幡原に新たな本陣を張る。
後詰の甘粕隊を食わると、その総勢は一万三千。
十日の寅の刻(午前四時頃)に海津城を出、一刻かけて川中島へ陣取りをした武田本隊・八千に対する優位は明らかだ。
ならば「啄木鳥隊」一万二千が奇襲の不発に気付いて妻女山から川中島へ駆け戻るまでの間、一気に雌雄を決する事が上杉側の基本戦略となる。
逆にもし「啄木鳥隊」の帰還まで凌がれた場合、数の優位は武田側に移る。まさに一刻を争う戦いと言えよう。
卯の刻(午前六時)を過ぎた頃、諏訪法性の兜、赤色縅の胴丸に白地の陣羽織をまとった信玄は床几に腰を落ち着け、斥候に出た浦野民部左衛門の帰還を待っていた。
その際、信繁は左翼、飯富政景は中央、内藤修理は右翼にそれぞれ布陣し、信玄を取り囲む旗本本陣構えには嫡子の義信を始め、原隼人佐ら諸将が顔を揃えている。
警護の馬周り衆に加え、勘助を含む足軽大将も出撃の下知を待っていて、悠然自若とした主君の態度が彼らにある種の余裕を与えている。
しかし、見るからに蒼ざめた表情の浦野が霧の向うから駆け戻るなり、雰囲気は一変した。
計略通り進んでいれば、啄木鳥隊は攻撃を始めたばかりの頃合いで、主戦場は妻女山の筈。なのに、いる筈の無い敵の大群が前方の平野でひしめいている、との報告がなされたのだ。
同時に不吉な音が聞こえた。
低く重苦しい地鳴り。即ち、馬の蹄が大地を踏み鳴らす響きが風にのり、信玄の耳にまで届く。
「御敵は、およそ三町ばかり先に陣を敷いておりまする」
「まことか、浦野」
「はっ、仕掛ける頃合いを図りおるか、と」
「左様、相違あるまいな」
信玄は斥候の言を俄かに信じかね、重ねて尋ねた後、室賀入道に再度の物見を命じる。
その語勢に、勘助は主君が胸へ秘める強い動揺を感じた。
人並み外れた自制心で表情に表さないが、斯様に張り詰め、追い詰められた信玄の眼を、勘助は過去に二度しか見た覚えが無い。
一度目は天文十七年(1548年)二月、信濃国・上田原で村上義清の軍勢と対した時。
二度目は天文十九年(1550年)九月、義清の出城である戸石城を攻めた時。
それらは又、常勝を謳われる信玄の輝かしき戦歴に影を落とす、手痛い敗北の記憶でもある。
「時の巡りを味方にして参る、そう申し上げたのみでごいす」
永禄四年(1561年)九月十日、卯の下刻(午前八時頃)、千曲川ほとりの八幡原で愛馬の背に跨り、山本勘助は嘯いた。
その斜め後方で同じく騎乗し、精鋭ぞろいの郎党・足軽を引き連れて進む武田信繁が、兜の鉢と結ばれた面頬当ての下で顎を微かに上下させる。
頷いているのだ。
先刻、武田軍の拠点・海津城から半里の位置に構えた野陣にて、左翼の守りから一時戻った信繁が、兄であり、主君でもある戦国の雄・武田信玄に最前線への突入を申し出た際の事。
齢六十九に達する老軍師・勘助がしゃしゃり出て同行を願った。
そして主の耳元へ一言囁いた途端、僭越な振舞いを窘める所か、信玄は厳しい表情を若干緩めた。
ほんの一瞬だが笑みを浮かべたようにも思える。
「あの御屋形様が、いくさ場で頬を緩めなさるとはのう。はてさて、如何なる言葉で口説いたものか。そう思うてはみたものの」
「合点が行きませぬか、典厩殿」
「いやはや、時……時か、のう」
胸に淀む疑問を信繁は勘助にぶつけ、帰ってきた言葉の内、「時」という部分を反芻して何やら腑に落ちるものがあったらしい。
行く手は濃い霧に閉ざされていた。
俗に一寸先は闇と言う。
だがこの場合、前方に広がるのは切れ目の無い一面の灰色。恐ろしく濃い湿気の帳で覆い尽くされ、馬の足元さえ覚束ない。
到底、走る所では無い。
進む方角を過たぬよう細心の注意を払い、ゆるりゆるり一歩ずつ進まねばならない。
戦場の只中にあって、これほど遅々とした足の運びを強いられるのは、勘助にとっても、信繁にとっても、初めての経験であった。
焦れる。
この上なく焦れるが、是非も無し。
おそらく敵将・上杉謙信の軍勢も又、同じく募る焦燥を噛み締めている筈なのだから。
夏から秋へ移りゆくこの時節、西方の飛騨山脈、東方の三国山地から険しい尾根を伝い、中央の長野盆地へと流れ込む冷気は、往々にして濃い霧を生む。
地元の民にすれば珍しくも無い日常の範囲であろう。
しかし、この日の濃さはやや常軌を逸し、目が頼りにならない以上、道標になるのは音のみだ。
例えば、左手から微かに聞こえる千曲川のせせらぎ。
例えば、霧の向う側でぶつかりあう鋼の響き。
緒戦で真っ先に前進、既に敵と遭遇した飯富昌景、内藤修理が率いる雑兵の絶え間ない雄叫び、断末魔の声も聞こえてくるが、音と音の間の距離感は曖昧で一向に掴めない。
時に血の匂いが風に乗り、その音と匂いのみ足を進める毎に強くなっていく。
思えば、この合戦の口火を切ったのも音であった。
二つの川の恩恵をうける肥沃な穀倉地域、川中島は信濃から関東へ向う交通の要衝に当り、天文二十二年(1553年)から八年の長きに渡って武田晴信、長尾景虎という古今稀なる将才が相打つ舞台となっている。
数えて四度目となる此度の合戦は、関東管領の地位を上杉憲政から受け継いで武田討伐の大義名目を得た長尾景虎が出家により上杉謙信と名を改め、武田晴信もまた出家して信玄を名乗り、共に入道して初となる。
これまでの経過を振り返るならば……
まず八月十四日、一万三千の兵と共に春日山城を出立し、信濃を目指した謙信は、川中島を見下す妻女山に本陣を張った。
対する信玄は同月二十四日、近隣の友軍を吸収して二万に膨れ上がった兵を率い、川中島へ到達。まず茶臼山へ陣を張り、その後、千曲川沿いの海津城へ移って上杉の出方を伺う。
慎重過ぎるほど慎重な姿勢を双方が崩さなかった。
何せ当代屈指と言われる弓取り同志が対峙しているのだ。緒戦のつまづきが、そのまま致命傷となりかねない。
九月七日まで十四日間もの睨み合いが続き、戦力的に優位な武田軍が先に鋭気の捌け口を求めた。
「このまま一戦も交えず、陣を退くのは武士の名折れじゃ」
名高き赤備えの騎馬武者隊を率いる飯富虎昌、勇将の誉れ高き馬場信房が、九月八日の軍議にて戦端を開く旨を強硬に主張。
信玄は虎昌、信房に高坂弾正忠らを加えた「啄木鳥隊」と呼ばれる一万二千名余りの一軍を急遽編成した。
十日の早朝を期して妻女山への奇襲攻撃を仕掛けると断を下し、彼らを九日の夜の内に出立させる。
信玄自ら指揮する本隊は、「啄木鳥隊」の奇襲に呼応すべく十日未明に海津城を出て、妻女山から炙り出される上杉勢を待ち受け、川中島中央の八幡原にて挟撃しようと言うのである。
「啄木鳥」とは、巣にこもる獲物をつついて顔を出した途端に反対側から捕食する野鳥の習性に倣った命名であり、足軽大将の一人として信玄の傍らに侍る勘助から見ても万全の策に思えたが、敵将の慧眼がそれを見抜いた。
海津城から上った炊煙が普段より多いのを怪しみ、武田出撃の兆しと読んだ上杉謙信は秘かに妻女山を脱出、深夜の千曲川を渡って対岸の八幡原に新たな本陣を張る。
後詰の甘粕隊を食わると、その総勢は一万三千。
十日の寅の刻(午前四時頃)に海津城を出、一刻かけて川中島へ陣取りをした武田本隊・八千に対する優位は明らかだ。
ならば「啄木鳥隊」一万二千が奇襲の不発に気付いて妻女山から川中島へ駆け戻るまでの間、一気に雌雄を決する事が上杉側の基本戦略となる。
逆にもし「啄木鳥隊」の帰還まで凌がれた場合、数の優位は武田側に移る。まさに一刻を争う戦いと言えよう。
卯の刻(午前六時)を過ぎた頃、諏訪法性の兜、赤色縅の胴丸に白地の陣羽織をまとった信玄は床几に腰を落ち着け、斥候に出た浦野民部左衛門の帰還を待っていた。
その際、信繁は左翼、飯富政景は中央、内藤修理は右翼にそれぞれ布陣し、信玄を取り囲む旗本本陣構えには嫡子の義信を始め、原隼人佐ら諸将が顔を揃えている。
警護の馬周り衆に加え、勘助を含む足軽大将も出撃の下知を待っていて、悠然自若とした主君の態度が彼らにある種の余裕を与えている。
しかし、見るからに蒼ざめた表情の浦野が霧の向うから駆け戻るなり、雰囲気は一変した。
計略通り進んでいれば、啄木鳥隊は攻撃を始めたばかりの頃合いで、主戦場は妻女山の筈。なのに、いる筈の無い敵の大群が前方の平野でひしめいている、との報告がなされたのだ。
同時に不吉な音が聞こえた。
低く重苦しい地鳴り。即ち、馬の蹄が大地を踏み鳴らす響きが風にのり、信玄の耳にまで届く。
「御敵は、およそ三町ばかり先に陣を敷いておりまする」
「まことか、浦野」
「はっ、仕掛ける頃合いを図りおるか、と」
「左様、相違あるまいな」
信玄は斥候の言を俄かに信じかね、重ねて尋ねた後、室賀入道に再度の物見を命じる。
その語勢に、勘助は主君が胸へ秘める強い動揺を感じた。
人並み外れた自制心で表情に表さないが、斯様に張り詰め、追い詰められた信玄の眼を、勘助は過去に二度しか見た覚えが無い。
一度目は天文十七年(1548年)二月、信濃国・上田原で村上義清の軍勢と対した時。
二度目は天文十九年(1550年)九月、義清の出城である戸石城を攻めた時。
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