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何が取柄ぞ、根無し草

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 卯の下刻(午前七時頃)、霧の向う側から鬨の声が上がり、上杉軍の進攻が始まった。

 無論、その動きが武田勢の目に直接捉えられた訳では無い。あくまで接近の気配が音で感じられるのみである。

 先手を取られた以上、対応を急ぐ必要があったが、一気呵成が持ち味の上杉軍にしては進行が遅い。

 本来、謙信が得意とする用兵は奇をてらったものではなく、まず銃の一斉放火、次に弓矢で牽制し、長い三間柄の槍を持つ足軽隊の突撃へ繋いでいく。

 その際、兵は極度に密集して行動、敵の防備が薄い一点を巧みに突き崩し、迅速な兵の運用による反復攻撃で確実に相手の傷口を広げていく。

 即ち、騎馬武者の機動力で恐れられる武田軍に対し、上杉軍の強みは長槍足軽隊の連携にあるのだが、この時、彼等は猛進を控えていた。

 槍衾を敷くと言うより、分散した個々の部隊の判断に任せ、じりじり迫ってくる。





 信玄も騎馬武者隊は温存。敵の動きに対応しやすい鶴翼の陣形を整えながら、前衛の足軽隊を向かわせた。

 まずは互いに手探りの小手調べと言う所であろう。

 足軽の先陣が遭遇戦に突入した後は、しばらく乱戦の様相を呈した。

 伝令役が一向に晴れる兆しのない霧で動きを阻害され、前線と本陣の間を十分行き来できない為だ。

 但し、味方の劣勢を察する事ならできた。

 次々に旗下を率いて前線へ向う武田の諸将も「啄木鳥隊」が戻るまで持ち堪えるか否かが勝負、との認識を共有している。そして、このままでは凌ぎきれないとの危機感が高じ、陣に漂う空気まで重く沈んでいく。

 流れを変えねば、と勘助は思った。

 眦を据えて軍配を握り締める主君へ、叱責を覚悟の上で出陣を直訴しようと立ち上がり、信繁に先を越された。

 そして、大将の弟であり、副将格の信繁が敢えて矢面へ出ると言う意図を見抜き、彼を補佐すべく主君へ申し出たのである。

 時の巡りを味方にして参る、と。





「天厩殿、もしや御館様の影武者でも務める御所存か」

 霧の只中、勘助が問うた。

 天厩とは信繁の官職「左馬之助」の唐読みで、特に親しき者のみがそう呼ぶ。

 外様の足軽大将で許されているのは勘助のみである。

「わしを御屋形様と見誤るたわけが、敵に多いと良いがのう。どの道、引き付けて時を稼ぐが喫緊、成すべき役目であろう」

 信繁が厳しい表情を若干緩めた。

 できた笑い皺が、先程の兄とそっくり同じ位置にある。

 血は争えないという事なのであろう。その声、体型、顔立ちに至るまで信繁は兄と似ており、鎧をまとって馬上にあれば武田家中の者でさえ見誤る程である。
 
 この時、信玄の年齢は三十九才、二つ下の信繁が三十七才。対して勘助は六十九才の老境に達していた。

 文字通り親子ほどの差だ。

 婚期が早い当時の常識からすると孫であってもおかしくない。
 
 にも関わらず、武田家嫡流の二人にとって勘助は譜代の諸将と比べても尚、気を許せる存在であるらしい。

 その立ち位置は、彼が甲斐を最初に訪れた時点から既に異例であった。





 武者修行の為に諸国を巡り、放浪した後のおよそ十年間、勘助は今川義元が統治する駿河国で腰を落ち着け、しがない浪人暮しを強いられている。

 晴信の特使として駿河を訪れていた板垣信方と出会い、その推挙で武田家の陣営に加わったのは十七年前の事。

 兵法の腕を高く評価されながら、片目が潰れた醜い容姿や武骨過ぎる物腰で今川家から冷遇されてきた勘助が、もし板垣に見出されなかったとしたら、今も尚、冷や飯食らいの身に甘んじていたかもしれない。

 酒の席で一度、寄る辺なき根無し草の何処が良くて主君へ推挙する気になったか、板垣へ訊ねた事があった。

「ふむ、そうさなぁ。お主のその寄る辺なき身とやらが、気に入ったのかもしれんずら」

 酔った赤ら顔で豪快に笑い飛ばし、勘助の肩を何度も叩いた板垣の真意は容易に図り難い。

 単なる個人的な好意で動いたとも思えない。

 それに、武田家の陣営における勘助の立ち位置は長い間不安定なままで、中々正式な役職が決まらなかった。

 晴信が時に軍議へ参加させた事から勘助を軍師と見なす向きもある。しかし己の主君にそんな必要がまるで無い事を、勘助は十分に理解していた。

 幼い頃から学問に励み、大量の書を収集して見聞を広めていた晴信は孫子の兵法を好み、軍略についても自ら立案するのが主で横から口出しされるのを嫌う。

 それ故、勘助にできるのは、若き日の浪々の旅と修験道の修行に費やした経験の賜物である山岳、建設、天文学等の実践的な知識を求められるまま披露する程度である。

 弟の信繁も又、大変な学問好きであった。

 特に法制度については抜きんでた学識を持ち、勘介を自宅へ呼びつけて、近隣国の諸法度等につき語り合う一時を好んだ。

 その卓見を買われて兄から文案作成を命じられた武田家・家法の在り方についても、信繁は勘助に助言を請い、夜を徹して語り合った事が何度となく有る。

 その苦労が永禄元年(1558年)四月に『信繁家訓九十九か条の心得』という形で実を結び、武田家全体を統べる家令として受け入れられた時は、二人して祝いの盃を交わしたものだ。 





 あの夜は、楽しかったのう。

 勘助の胸をよぎる刹那の追憶は、川中島の霧から飛び出す敵十名ほどの急襲で途切れた。

 長槍ではなく太刀を帯びた足軽の小隊である。

 勘助の周囲を固める雑兵が素早く迎え撃ち、信繁の力を借りるまでもなく一息に蹴散らして退散させた。

「おい、深追いするでない。この霧では何処ぞに伏兵がおるか、わからぬぞい」

 追撃しようとする部下を勘助が厳しく叱咤する。

 信繁が又、肯いた。

「深追いするな、か。此度の合戦、どうしても上田原を思い出すのう、勘助」

「あの時は雪、此度は霧でございますな」

 答えて勘助は顔を上げた。

 灰色に淀んで空の青が全く見えない辺り、若き日の武田信玄が最初に喫した大敗の日にそっくりだと、勘助にも思えていた。


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