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牙を折られた若き虎

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(二)

 天文十七年二月の主戦場であった上田原は、川中島と同じく千曲川の川沿いでやや高低差のある河岸段丘の上に位置し、当時に於ける村上義清の重要拠点である。

 しばらく豪雪が降り続き、その日も僅かにみぞれ交じりの暗い空模様だった。

 一面の雪景色の中、退け気味に布陣し、あまり前へ出てこようとしない村上勢に対し、武田晴信(後の信玄)は強気の攻勢を仕掛けた。

 古老ながら敵陣突破力に定評のある猛将・板垣信方の部隊を先頭に立て、一気呵成に押しまくる。
 
 甲斐もまた雪深き地であり、雪中の戦いは苦にしないとの過大な自負が有ったのかもしれない。

 敵は為す術無く陣を割り、そのまま退却するかに見えた。

 意気上がる板垣は更に敵陣の奥へ突入したが、これが深追いを誘う巧妙な罠だ。

 林の途中に村上義清は多勢の伏兵を隠していた。遮二無二突っ込む武田軍を引き付け、死角から巧妙に襲う。

 雪で覆われた枝の間からいきなり槍の穂先が突き出されてきて、白い大地が鮮血に染まった。

 罠に落ちた先鋒を助けようと、甘利虎泰らが山林へ入るが、攻守逆転した戦況を覆すには至らない。

 その頃の晴信はまだ二十六才の若さである。

 才気と闘志に経験が追い付いておらず、自軍の構えを立て直すのに手間取った挙句、被害は急速に拡大していった。





 ではこの時、勘助の方はどうだったか。

 本当の所、彼には戦闘中の細かな記憶が残っていない。

 当時の勘助は既に五十六才。

 武田勢の中でも高齢だったが、実はこの上田原の戦いこそ、武将としての彼の初陣である。

 若い頃に全国を巡って武者修行していたから、兵法者と一対一で立ち会う経験なら幾度もある。

 しかし多勢がぶつかりあい、何時、何処から矢が飛んでくるかも知れぬ緊迫感は予想を遥かに超えており、初めて味わう戦場の空気に呑まれて、冷静さを欠いていた。

 只、戦い、只、打ち倒す。

 無我夢中と言い換えても良かろう。
 
 唯一はっきり記憶に焼き付いているのは、恩人・板垣信方の最後の姿である。

「年は関わりないわい。いかな剛の者でも初陣は怖いものずら。わしの後についてくれば良い」

 合戦の前夜、板垣は勘助にそう声をかけてくれた。

 豪快な笑い声はその後も長く胸に残ったが、死に際は凄惨極まりない。山林の狭間で落馬した後、再び馬に乗ろうとして下から胸を槍で突かれた。

 板垣隊の後続だった勘助は、絶命した板垣へ敵の足軽が蟻のように群がるのを見た。

 一人の敵が、胴体から切り離した板垣の首を頭上へ誇らしく掲げるのを目の当たりにした。
 
 武田家古参、重臣中の重臣を失った戦慄と動揺は、諸将へ瞬く間に伝わっていく。

 怒りに駆られ、突撃を繰り返した甘利虎泰、才間河内守らが相次いで板垣の後を追い、雪中に命を散らす。

 勘助はと言えば、ひたすら槍を振り回し、戦場を行き来したのみであり、手柄どころの話ではない。

 晴信、信繁の本陣にも村上義清の手が伸びた。

 ともに自ら刀を握り、雪中の乱戦の中で万事休すと思われた時、思わぬ活路が開けた。

 大月地方の岩槻城主・小山田出羽守信有の軍勢が急遽駆け付けたのだ。

 小山田家の先代当主は晴信の父・信虎の妹を娶っており、その縁を重んじる果敢な突撃が戦況を変えた。

 村上義清が愛馬にまたがって晴信へ肉薄、手傷を負わせる所まで行きながら、止めを刺せぬまま退却へ転ずる。

 ほんの少しでも小山田の突入が遅ければ、結果は違っていた。

 晴信、信繁は討ち死にし、武田は滅びていたであろう。

 人の知略や武力では抗いようもない「時」の運というものを、その時、勘助は思い知らされたのだ。





 後代に書かれた甲陽軍鑑によると、上田原の戦いは死者数において武田勢が村上勢の二倍を上回る惨敗であった。

 まだ若き総大将の心に、この敗戦が残した傷跡は極めて深い。
 
 彼は思考を停止した。

 陣を退く命令を出さず、陣構えを撤去する事さえ許さず、中央の床几に腰を据えて一歩も動おうとしない。唇を噛み締め、周りで誰が声を掛けても、ろくに答えようとしない。
 
「村上勢が再び攻め寄せたなら、今度こそ打ち破ってみせる」

 時折り口を開いては激しい口調で言い張るのだが、詰まる所は負け惜しみ。

 若くして武田の総領となり、以来、張り詰めてきた気持ちの心棒が折れて、本来の繊細な心の奥底へ引き籠ってしまったのだ、と勘助は思った。

 同時に、晴信がこれまで武田家に築いてきた足場が如何に脆い物であったかも見えてくる。

 無為な時が過ぎるにつれ、陣内諸将の気持ちが離れて、密やかにではあるが、晴信を軽んじる態度さえ出始めたのである。

 元来線が細く、幼い頃は自室にこもって本ばかり読んでいたという晴信は、父の信虎から武将の器ではないと見なされ、あからさまに忌避されていた。

 跡取りは弟の信繁にすると側近に明かしていた程であり、その父を追放する形で晴信が武田の実権を握ってからも、後ろ盾になっていた板垣信方ら数名を除き、心服する者は少ない。

 その肝心の板垣が命を落とし、しかも当の晴信が心の均衡を失ったままとなれば、裏切りが日常茶飯事の戦国の世で何が起きるかわかったものではない。





 勘助は、一人本陣の床几に座し、黙考する主君の孤独な姿に、板垣の言葉を思い出していた。

「寄る辺なき身が気に入った」

 それは不確かな覇権の上に立つ主君を支えるなら、家中のしがらみと無縁な外部の者で、それも世の辛酸をなめ尽くした勘助の様な男こそ相応しいと考えたからではないか。

 板垣の答えを知る術は無い。

 代りに勘助は、板垣が未だ存命なら打っていたであろう方策を思案し、直に信繁へ訴えて、その実行を促した。

 甲斐・躑躅ケ崎の館で隠棲している晴信の実の母・御北様へ連絡を取り、帰還を求める旨の書状を一筆したためて貰ったのである。

 傷ついた子の胸に母の言葉ほど響くものはあるまい。

 その書状が功を奏し、武田勢が陣を畳んで上田原から退いたのは三月五日の事であり、戦から二十日も経過した後であったが、本国へ戻った後も心の傷を癒す暇など無い。

 失いかけた家中の求心力を取り戻す為、何としても大きな戦果を挙げる必要があったのだ。


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