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勘助、出しゃばる
しおりを挟む上田原の戦いから僅か五か月後、信濃の守護職にあった実力者・小笠原長時へ戦いを仕掛けたのは、晴信にとって大きな賭けと言えよう。
辛うじて塩尻峠の戦いで勝利をもぎ取り、小笠原氏を信濃から追放した事により勢力は以前を上回る程になるが、晴信には物足りなかった。
一刻も早く村上義清への雪辱を果たしたいとの思いが、胸の奥底で滾っている。
二年後、晴信は新たに旗下に加えた真田幸隆を用い、村上と近い間柄の武将を寝返らせる裏工作を進めた。
同時に軒猿と呼ばれる忍びを多数放ち、近隣での丹念な情報収集を行う。
その結果、村上義清が奥信濃の高梨昌頼と領土を巡る諍いを起こしているのを察知し、両者が戦端を開くのを待って、すかさず兵を動かした。
狙いは義清の出城である戸石城だ。
国境の要地にある城塞の割にその作りは小さく、立て籠もる兵の数も僅か五百人余りなのに対し、動員した武田の攻め手は七千を超える。
攻略は容易く思え、戸石城を取った後の戦略まで見据えた戦いだったのだが、思いのほか手こずった。
東西が険しい崖に囲まれている上、兵の意気も極めて盛ん。
攻め手の陣頭指揮を晴信から任された横田高松は、城壁からの落石攻撃に苦しめられ、敢え無く討ち取られてしまう。
その上、高梨昌頼と早期の和睦を結んだ村上義清が二千の兵を引き連れ、猛然とこちらへ押し寄せてくる。
尚、総戦力で勝る武田軍ではあるが、戸石城の兵、村上の寄せ手による挟撃に晒され、全軍壊滅の危機に瀕した。
上田原に続く大敗。
勘助は、ここが己の正念場だと腹を据えた。
亡き板垣信方から見込まれ、期待された根無し草の真価を発揮するとしたら、ここしかない。
諸将が出払い、閑散とした旗本陣屋で主の前に進み出た勘助は自ら囮となり、全軍退却の際に敵を惹きつける役割を申し出る。
「たかが足軽大将の分際で、出過ぎた真似を致すでない」
怒声と鋭い眼差しが飛んできた。
上田原で敗れて以来、晴信は髭をたくわえ、以前以上に肉体を強く鍛え上げて、峻厳な岩の如き逞しさと威圧感を発するようになっている。
勘助はたじろぐ己を叱咤し、言葉を継いだ。
「役不足の某だから良いのでごいす。討ち取られた所で、我が方は何ら痛手になりますまい」
「痛手もなければ得も無ぇずら」
言葉の端々に苛立ちが滲んだ。
これまで信玄の側から意見具申を求める事はあっても、勘助の方からしゃしゃり出た事は一度も無い。
「お主が如き老いぼれ、行った所で無駄死にじゃ。あの板垣すら討ち取った戦上手ぞ、村上は」
小さく信玄が顎をしゃくった。
「去ね、目障りじゃ」
勘助に背を向け、戦場の方角を睨む。
如何に苦境を脱するか、その思索に没入し、もう下っ端の具申になどすっかり興味を失ったようだ。
これ以上、食い下がれば不敬の極み。
だが処断されるのを覚悟の上で、勘助は信玄の双眸が睨む方へと回り込み、両膝をついて尚も声を張り上げた。
「某、その板垣様が見込んだ寄る辺なき身の根無し草にて」
「黙れ」
「今こそ、あのお方の代りに為すべき事がござる」
「お前如き、板垣の代りになるものか」
苛立ちが激怒へ転じ、信玄は怒鳴った。
触れてはならない心の傷が痛んだのであろう。眉が逆立ち、右手は刀の柄にかかっている。
それでも勘助は退かず、朗々と声を発した。
「某をお斬り遊ばした所で、刀の錆になるだけの事。それより今は時の巡りを味方にする方策を講じて下され」
「時を、だと」
「左様、戸石攻めは策の誤りと言うより城に篭った奴原が思いの外踏ん張って、ちと段取りが狂うたのじゃ」
山本勘助は、武骨な外見に似合わず良く通る美声の持ち主で、宴席の場で求められると時折り閑吟の一節を謳ったと言う。
果たして、その効果まで計算したものか、否か。
低く澄んだ声音が荒れた野陣の隅々にまで響き渡り、沸騰しかけていた信玄の血を冷やした。
勘助、続けて曰く、
「先年来、真田幸隆殿が仕込みおる謀略も又、信濃の地侍どもの間に深く沁み入り、日々、我が方の御味方を増やしおる所にて、大勢は武田へ大きく傾く。
急ぐ要など無いのでごいす。
ここで御館様が無事に御退きあそばせば、自ずと時が巡り行き、信濃平定を果たす見込みが立ちまする」
「わしが生き延びれば、それで勝ち、と申すか」
「時の運は自ずとお館様に微笑みましょう」
「ふん、根無し草がぬかしおる。長く仕えてきた奴らには、到底言えぬ放言ずら」
「されど、御館様も胸の奥では同じ思案をお持ちの筈」
言い終えると同時に、勘助は頭を地にすりつけ、深々と土下座した。
信玄はその背を睨み、しばし口を閉ざす。先程までの激しい怒りの代りに、ふと呆れたような笑みが髭だらけの頬に浮んだ。
「同じ、か。寄る辺なき身の根無し草、のう。確かに幼き頃、親父殿に疎まれたこのわしも、あの板垣から見れば似たような立場だったかもしれぬ」
呟く声が醒めている。
己自身を突き離し、客観的に見つめているのだと、勘助には思えた。あの上田原で敗戦を受入れられず、意地になって陣を退かなかった姿とは別人だ。
二年の月日が経つ間、晴信は確かに精神も肉体も強かに生まれ変わっていた。
仇敵への雪辱に拘る気持ちを捨て、近い将来に見込める六分の勝ちで十分とみなす心の余裕は信濃の盟主、いや、天下をも統べるに足る大きな器と思えた。
「されば御館様、此度のしんがり、某にお任せ下され」
「だがお主、もう随分といい年ずら。腰が抜けて、囮役など務まらぬのではないか」
顔を上げた勘助は、晴信の揶揄を受け、かっと片目を見開いてみせる。
「諏訪大明神の御名にかけて御誓い申す。某、本日までの年嵩より多くの傷を受けるまで立ちおおせ、御味方に勝利を呼び込んで御覧にいれましょう」
「して、お主の年は」
「若干、五十八の小僧にござる」
「ぬかすわ、このたわけ」
破顔一笑した信玄の許可を得るや否や、勘助は五十騎の精鋭を引きつれ、村上の陣屋を襲った。
巧みに相手の虚を突き、素早く逃げて、険しい山野を駆け巡る。
その繰返しはまさに神出鬼没。
主と同様、勘助も又、上田原からの二年を無為に過ごしていた訳では無かった。
板垣の無残な死に様に為す術が無かった己の未熟を恥じ、戦場で如何に手駒を動かすか研究し続けてきた。
かつて修験道を学び、山中を浪々した身だからこそできる奇襲戦術を様々考案し、磨き抜いてもいる。独自の工夫ゆえ、敵が見破るのは至難だ。
年の数を超える傷どころか、深手の一つも負う事無く、見事に武田軍のしんがりを務めた勘助は故郷への帰還を果たす。
そして一層の信任を得た主君の傍らにあって功績を着実に積み重ね、天文二十二年(1553年)、遂に村上義清の本拠たる葛尾城を攻略。
武田晴信が信濃一帯をその手に握り、関東への進出を果たす大きな原動力となったのである。
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