霧のあとさき 川中島の根無し草

ちみあくた

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最期に俺が挑むなら

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 向ってくる敵兵と交戦しながら、少しずつ進んでいく。

 一陣の強風が霧を薙ぎ、向う方角の視界が開かれた時、想像を絶する光景が勘助の眼前に広がった。

 死屍累々とはこの事か。

 見渡す限り、数えきれない数の骸が転がっている。大地が血に染まり、千曲川へ流れ込んで、幾つも黒い筋ができている。

 その先へ目をやると、一つの巨大な塊を為す上杉の車懸りは武田の旗本本陣を目指し、ひたすら前進の勢いを増していた。

 武田側の鶴翼の陣が分断されてしまい、孤立している小隊が多数ある為、それを上杉側の小隊が個々に狙う乱戦も至る所で生じている様だ。

 何処も彼処も劣勢で、何処も彼処も敵だらけ。まさに進むも地獄退くも地獄の有り様である。 





 あぁ、最早、啄木鳥隊は間に合わぬのでは。





 生来強気の勘助と言えど危惧せずにいられなかった。何とか状況を変える力になりたいが、それも手遅れらしい。

 見回すと、もう周囲には誰もいない。

 彼を守っていた足軽達は、何時の間にか一人残らず討ち取られている。

 ふと、唇に苦い笑みが浮かんだ。

 「時の巡りを味方に」と言ってはみたものの、振返ってみれば彼ほど「時」に見放され、その巡りに抗った男もおるまい。 

 五十を過ぎるまで何者でも無かった。

 独りよがりで、俺の真価を見抜けぬ世間が悪い、巷は馬鹿者だらけじゃ、と粋がっていた。

 もっと高い身分こそ俺に相応しいと思い込む独り善がりや自惚れは、今思うと一体何処から来たものやら。

 見た目の悪さを僻んでもいた。

 僻めば僻むほど、世を恨む気持ちが募る。

 若い頃は酒に溺れ、春をひさぐ女の温もりに逃げ込もうとしていた時期さえ有る。

 思い出す度に痛む心の汚点だ。

 辛うじて己を鼓舞し、鍛え続けたからこそ板垣との出会いも有ったが、身の破滅まで紙一重であったと思う。

 逆に生涯で最も幸運と言えるのは、心服できる主君に仕えた事であろう。

 必死で手柄を積み重ねる内に無口な主は心を開き、境遇、資質が全く異なる主の中に己と同じ心の弱さを垣間見て、忠義の心は更に強くなる。

 武田の臣として戦う日々は楽しかった。

 若き日の飢えを満たし、得られなかった全ての望みを取り戻せる気がしたが…… 





 あぁ、また霧が濃くなってきたのう。 





 一人戦場を彷徨う勘助には、視界を覆う濃い靄が老化による視力の衰え、限界を超えた疲労や負傷のせいだと気付く事ができなかった。

 漂う幻影と現実の見分けも、最早ついてはいない。

 両手を突出し、開いた指先で宙をまさぐり、すっかり霧が晴れた青空の下を歩み続ける。

 数多の骸を踏み、跨ぎ、今や何処が味方の陣で、何を目指せば良いかも判らぬまま進んでいく。





 来い、早う。

 来い、啄木鳥よ、俺の時が止まる前に。 





 念仏のように呟きながら進む。

 実際、祈る気持ちだった。そして、時が早く過ぎるのを願う己の気持ちが、ふと滑稽に思えた。

 この戦場に至るまで、むしろ勘助は時が止まるのをこそ願ってきたのである。

 七十を目前にし、年をとるのが怖かった。

 お払い箱になりたくなかった。

 例え幾つになろうとも、楽隠居などしたくない。

 何時までも偉大な主君やその弟らと共に、天下を目指す果てしなき旅を続けていたかった。

 手遅れになりかけた頃、ようやく己の居場所と生き甲斐を掴む好機が巡ってきたのだ。出だしが遅い分、夢を追いかける猶予が、もう少しあっても良いではないか。 





 おぅ、御館様、物見でごいすか。 





 すっかり霞んだ視界の正面に、一人の鎧武者が現れ、兜の前立てに赤い鬼の顔を見た気がして、勘助は声を上げた。

 諏訪法性の兜、赤色縅の胴丸に白地の陣羽織。

 そこに主君がいる筈は無い。

 今の勘助にも、それくらい判っているのだ。

 だが、こちらを見つめる信玄の幻へ吸い込まれるように、覚束ない足取りは自ずと近づいていく。

 鎧武者が刀を抜いた。

 勘助の足は止まらない。

 何故、そんな幻を見るのか、心の何処かで理解はしていた。

 誰かの手に掛かって果てるのなら、相手はこの俺が認めるにたる優れた武士でなければならぬ。

 長い間、一途にそう思い込んでいた。

 そして勘助が最も認める男とは、結局の所、武田信玄をおいて他に無い。

 同時に心の何処か、妙に醒めた部分が、避け難い一つの問いを彼自身へ投げかけた。 





 俺の気持ちなど今更、自明じゃ。

 だが果たして御館様は、あの御方からは、山本勘助という男が如何に見えていたのであろうか。





 ふと胸の奥で、懐かしい記憶が疼いた。

 何時の事だったか。

 そう、あれは信濃の平定を果たした後の、満月の夜だったと思う。
 
 祝う酒席の最中、主から「晴幸」なる諱を名乗れと突然申し付けられ、ひどく狼狽した事があった。

 諱とは本来、人の死後に贈られる称号であり、目上の人から何らかの事情で一字を賜る時にも使う。

 その意味で「晴幸」の諱は不自然ではない。

 しかし、そもそも主の当時の名「晴信」は時の足利将軍から直々に賜ったと言う特別な名であり、その内の一文字を更に臣下へ与えるのは通例に反している。

 論外の掟破りと言っても良い。

 にも拘らず、普段は酒を嗜む程度の主がその酒宴では朗らかに酔い、「構わぬから、存分に名乗るが良い」と、赤ら顔で勘助の肩を強く叩いた。

 ひどく狼狽しつつ、反面、全身が震える程、嬉しかったのを覚えている。

 それ以降、諱の話は主から出なかった。

 酒に伴う戯れとも思えたから、「晴幸」の名はあくまで秘し、表向きに使った事は無い。

 だが、山本家内部の文書には諱を明記し、後世へ伝えたいと願った。主との絆の証、誰が伝えずにいられようか。

 此度の合戦を前に晴信が出家、信玄入道となった時はすかさず勘助も倣い、同じく出家して「道鬼」を名乗っている。

 その時、「たわけ」とだけ主は呟いた。

 おこがましい振舞いへ腹を立てた様子も無く、ただ微かな笑みを浮かべていた。

 その眼差しに、他の武将へ接する時と一線を画す情誼の欠片が含まれていたと思うのは間違いだろうか。





 濃い霧に覆われた心の迷路を彷徨う内、気が付くと二間ほどの距離まで鎧武者に近付いていた。

 自分でも、妙な心境だな、と勘助は思う。

 老いる事があれ程怖かったのに、死ぬのは何故だか、あまり恐ろしく感じない。

 目の前で刀を袈裟に構える主の幻に斬られたいのか、一太刀交えてみたいのか、それすら判らないまま、足が動く。

 武田信繁が信玄を常に主として奉じ、兄への思いをひた隠しにしたように、勘助の中にも秘めた思いがある。

 主は彼にとって友だった。

 先祖から仕えてきた古参なら、こんな身の程知らずの感慨は抱くまい。

 年を経て転がり込んだ寄る辺なき根無し草だからこそ、山本勘助は命懸けで本音を武田信玄にぶつけ続け、信玄も又、それを望んだように思う。

 或いはこれも、只の自惚れだろうか。 





 鎧武者に重なる信玄の面影が、ふと刀を下ろし、哀しげに微笑んだかに見えた。

 怪訝に思う間も無く、誰かが背中を押す。

 振返ると濃い霧の外側、彼のぼやけた視界の外から無数の槍が突き出て、穂先が根元まで突き刺さっているのが見えた。 





 はて、こりゃ随分と傷の数が増えたのう。 





 穂先が引き抜かれ、血潮の泥濘へ崩れ落ちる間も、勘助は痛みを感じなかった。

 「時」が来た。

 実感できたのはそれだけだ。

 信玄の幻が消え失せ、真の顔に下卑た笑みを浮かべる鎧武者が、首を取るべく迫って来るのを、他人事のように見上げていた。

 では、そんな彼の目が最後に捉えた光景とはどのようなものであったのか。

 何か赤く閃き、押し寄せる疾風が鎧武者も、周りに群がる足軽共も、ことごとくを蹴散らし、討ち取って行く。

 それは、待ちに待った勝利の兆し。

 妻女山から駆け付けた「啄木鳥隊」の切り込み役、赤備えで知られる飯富虎昌の騎馬隊であったが、戦国史上に残る大逆転の行く末を見届ける事無く、勘助の意識は既に失せている。





 川中島の合戦を生き延びた後、武田信玄は人払いをした陣屋に残り、唯一人で山本勘助の亡骸を検分した。

 その老いさらばえた躰には、六十八の傷が刻まれていたと言う。

 彼の年の数には、あと一つだけ足りなかった。

                        (終)

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