偽りの愛 ー 真実かどうかなんて、なぜわかるのでしょうか

苺 迷音

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35 彼女の計算 -Chapter ミレーユ

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 夜が深まり、グレイストン公爵邸はしんとした静けさに包まれていた。主寝室のベッドの片側では、ヴァルターが変わらぬ呼吸を続けている。胸の上下に合わせて衣服がわずかに動き、その呼吸のリズムがいつもと変わらぬ夜を語っていた。

 反対側に横たわるミレーユは、瞼を閉じずにいた。眠れないわけではない。目を閉じると、今日届いた帳簿に挟まれた封書と、中の文字が浮かび上がってくる。

 『案件は成立。季節外れの東風こちが来たの。警戒を』

 筆跡はリージェリアのもの。王城で何かが動いたのは確かだった。
 
 セレイナ。エリオス。
 
 関わる人々の顔が、脳裏に順に並ぶ。

 調べようと思えば、王城にも領地にも手段はいくらでもある。だが、ミレーユはそこまで求めなかった。必要な情報は揃っていると判断していた。

 上半身をゆっくり起こし、枕元に背を預ける。横を見ると、ヴァルターは深く眠っていた。近づく気配にも反応しないほどの熟睡で、昼間の毅然とした表情は微塵も残っていない。頬にかかった髪を指で払うと、寝顔がはっきり見えた。

(最初にこの人を見た時から、私はきっと)

 夫の横顔を見ながらミレーユの意識は自然と、過去へ向かった。





 王太子・セラフィムの婚約者となったのは、まだ年端もいかない頃だった。その頃から未来の王太子妃、ゆくゆくは王后となるべくして宮廷教育に明け暮れる日々が続いた。ミレーユは顔と名前を覚えるため、何度も夜会に出席していた。王太子妃は貴族の序列を把握し、誰を立てるべきか誤ってはならない。教本より先に、実際の顔を覚えるよう叩き込まれていた。

 その夜も、大広間で社交用の笑みを保ちながら、出席者たちを順に視線で追っていた。

「グレイストン公爵家嫡男、ヴァルター様でございます」

 侍女に耳打ちされ、視線を向けた先にいた男は、すでに周囲の注目を受けていた。

 少し癖のある明るい茶髪は、整っていながら飾り立ててはおらず、背の高い彼の姿勢は真っ直ぐだった。服装も過度な装飾がなく、必要なものだけを身に着けている。他の若い貴族たちのように笑みを誇示することも、地位を強調する仕草もない。それでも、彼は場にしっかり存在感を示していた。

 王太子セラフィムと話している時も、過度に構えず、礼節を弁えながら必要なことだけを言葉にする。その様子に目が引かれたミレーユは、少し離れた場所から二人を静かに見続けていた。

(ああいう方の妻になる人は、どんな女性なのかしら……)

 なぜかふと、そう思った。

(彼は……私好みの容姿なのかも。……でも、私の行き先はもう決まっているものね)
 
 気づけば、視線は自然とヴァルターの姿を追っていた。ハッと我に返り、自分にも異性の好みがあるのだと初めて知り、小さく自嘲する。だがその感情は直ぐに、胸の奥底へ押し込めた。
 
 王太子妃として生きる未来は、幼い頃から示され続けてきた道だ。視線も言葉も行動も常に制限される世界。役目だけを果たして進む道。

 それが『正しい未来』だと理解していたからこそ、グレイストン公爵家の嫡男を見たときに浮かんだ感情を、深く考えないようにした。


 
 その頃、ミレーユのナルヴァ国への留学が決まった。それは、王太子妃教育の延長線上にあった。隣国の文化と語学を身につけ、外交の土台を作るための一年だった。

 その学舎で最初に声をかけてきたのが、リージェリアだった。

「あなたが、隣国の王太子殿下の婚約者なのね」

 数度の会話で互いの境遇を話す仲になり、中庭の木陰で過ごす時間が増えた。リージェリアの柔らかな笑みに潜む諦念を見つけたのは、そんな会話の中でだった。

「嫁ぎ先の最候補に挙がっているのは、自国の有力貴族よ。一回り以上年上で、正妻を迎えたことのない方。婚姻の縁が薄いと言われているの」

「厳しいわね」

「そちらもでしょう」

 リージェリアの笑みは軽かったが、言葉の裏にある覚悟は隠せていない。政治の駒として動くという諦め。

「国のために、王家のために。駒として動く未来。夢なんて多くは持てないわ。王家になんて生まれてこなければよかったと、何度思ったか」

「本当は、望む相手を選べるはずなのにね。あなたも私も」

「望む相手、いるの?」

「さあ……それは……どうかしら」

 ミレーユは言葉を濁した。王太子妃としての未来がある身で、別の男を好ましく思ったなどと口にできるはずはない。だが、それでも二人の間には共通する感覚があり、自然に距離が縮まった。

 将来について話し合い、政務や情勢について議論し、時には愚痴も漏らす。身分を越えた友情は、そうして生まれていった。



 そうして一年後。ミレーユが帰国する頃には入れ替わるように、王太子セラフィムの外遊先がナルヴァ国と決まった。国境付近での紛争が激化していることもあり、今回の外遊が軽いものではないことはすぐに理解できた。

 その知らせを聞いた瞬間、リージェリアが自身の婚約者と会えば、どう感じるかは想像できた。
 
 次期国王となる男。温和で礼儀正しく、人の話を聞く人だ。

(リージェの好みに合うでしょうね)

 予測はすぐ確信へ変わった。セラフィムが外交へ旅立ってから、数週間もしないうちにリージェリアから届いた文には、控えめな言葉ながら好意がはっきり読み取れた。

 その手紙を読み終えた夜、ミレーユは机の上で指を組み、長く息を吐いた。

 セラフィムの方も、リージェリアに惹かれるのは自然の成り行きだ。彼女は愛らしく、庇護欲をそそる。セラフィムが好みそうな女性だと思った。しかも、あの二人が縁付けば、紛争の締結と和平条約を結べる道も開け、両国にとっても悪くない。

 問題は自分の行き先だった。

(今ならまだ変えられる)

 脳裏に浮かんだのは、グレイストン公爵。嫡男ヴァルターは独身。婚約の噂もない。戦で功績を上げ、家の影響力を増している。

(王太子妃は役目。公爵夫人なら家を動かし、領地を整え、自分の力を使える)

 しかも、好ましいと思った男でもあった。
 
 彼の声、話し方、周囲に対する態度が思い出される。

(私を自由にしてくれるのは、あの人)

 ただヴァルターには一つだけ、懸念材料となる想定外の名前があった。



 ヴァルターを調べるのは容易かった。宮廷にも領地にも、情報を得るための糸はある。

 その中に『セレイナ・エルグレン』という名があった。それを見た瞬間、心のどこかが冷えた。
 
 王都の商人貴族である伯爵家の娘。彼女の存在自体は知っていた。社交界でどう評されているかも、耳にしたことはある。だが、そこまで興味もなければ、かかわりを持つような存在ではなかった。

 その二人の間に深い感情があったことは、ごく一部の者達の間ではあったが、囁かれていた話と報告書には書かれてある。

(なるほど。……このままなら、ヴァルター公は、あの人を選ぶでしょうね)

 リージェリアも、自国の別の貴族へ嫁がされるだろう。誰も望んだ未来を得られないまま、元の枠に戻るだけになる。

(今、動くことが出来たら。ヴァルター公も今なら、まだ、手に入れられる)

 当時のミレーユは、セレイナを排除するところまでは考えていなかった。王太子との婚約を解き、ヴァルターとの縁を結ぶ。それが目標だった。そしてセレイナのことも、美しいと評判の美姫とある故に、次の相手は直ぐに決まるだろう、そう考えていた。

 数日後、セラフィムとの対話は淡々と進んだ。政略婚の同士として情はあれど恋ではないこと。リージェリアとの婚姻の方が国にとって良いこと。そして自分はグレイストン公爵家と結ばれたいと望むこと。

 ただし、この密会の内容は『他言無用』と約束を交わした。

 セラフィムが最終的に頷いたとき、ミレーユは胸の奥で安堵と喜びの入り混じった高鳴りを覚えた。

(これで道が変わる)

 その頃は、皆が穏やかな未来へ進むものと信じていた。
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