偽りの愛 ー 真実かどうかなんて、なぜわかるのでしょうか

苺 迷音

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53 出立 ーChapter ミレーユ

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 朝の光が公爵邸の回廊に差し込み始めるころ、玄関前では侍従たちが静かに外出の準備を進めていた。
 
 今日ミレーユは、先日出産した第一子・アレクセイを連れて生家ラフォード侯爵邸へ向かう。滞在は一泊。公爵邸に戻るのは、翌日の昼の予定である。

 先触れを出し、了承の返事を生家からもらった折に、ミレーユはヴァルターへこう告げていた。

「五日後、アレクセイを連れて生家へ参ります。両親が孫の顔を見たいそうですので、一日ほど家を空けますわ」

 楽しそうに微笑みながら言うミレーユに、ヴァルターは特に異を唱えず「分かった」とだけ答えた。

 そして、ミレーユが実家へ帰る日の朝。公爵邸の玄関ホールに、ミレーユは整った姿で立っていた。

「乳母を呼んで。アレクセイの支度は既にできているかしら?」

 ミレーユの声に侍女がすぐに動き、ほどなくして乳母が赤子を抱いて現れた。赤子は白い布に包まれ、寝起きの温かな体温を残している。

「奥様。アレクセイ坊ちゃまはすでに沐浴を済ませてございます。一泊分のお召し替えと必要な道具は、馬車へお詰めいたしました」

「ありがとう。アレクセイをこちらへ」

 乳母が一礼して差し出すと、ミレーユはアレクセイを受け取り、その小さな頬にそっと触れた。
 
 静かな呼吸。しっかりとした体つき。問題なく、健やかに育ってくれている我が子。

「元気ね。乳吐きなどは?」

「ございません、奥様。アレクセイ坊ちゃまは本当に、聡しい御子様でございます」

 乳母がアレクセイをミレーユから受け取り抱えて下がったところで、階段の上から足音がしたと同時に、ヴァルターが姿を見せた。

 涼しげな水色の薄いシルクスカーフをゆるく巻いたデイウェアに、髪は撫でつけず自然なままであったが彼の持つ気品は隠れない。むしろ柔らかく際立っていた。

 乳母の腕の中のアレクセイを見ると、ヴァルターは自然と歩み寄った。

「アレクセイを」

 乳母が今度はそっと、赤子をヴァルターの手元へと渡す。赤子受け取ったヴァルターの手も、当初よりは幾分なれたものになっていた。胸元で眠るアレクセイのその頬へ指先をそっと当てると、アレクセイはもぞりと身を動かし、父の衣を小さく掴む。その仕草に目を細めたヴァルターは、幸せそうにその顔をもう一度撫でた。

「ははは。強い子だな。手の力も立派なものだ。母様と一緒に、いい子にしているんだぞ。明日の帰りを待っている」

 ヴァルターは短く笑みを漏らし、もう一度抱き直してから乳母へ戻した。

「道中、しっかりと頼む」

「心得ております、旦那様」

 そのやり取りを見ていたミレーユが、ヴァルターに向き直り声を掛ける。

「では行って参ります。明日の昼には戻るわね」

「ああ、気をつけて行くんだぞ。侯爵夫妻にも、よろしく伝えてくれ」

「ええ。ヴァルター、一日寂しい思いをさせてしまうけれども。ごめんなさいね」

「たまにはいいだろう。君も羽根を伸ばしておいで」

 ヴァルターはその言葉と共に、ミレーユの額に軽く口づけを落とした。

 普段と何ら変わらないやり取り。だがミレーユは、小さな違和感を覚えずにはいられなかった。

 以前までなら?

 彼は確実に『俺も共に行く』と言うか『外泊はまだ早い』と言っていたのではないか? なのに今のヴァルターは、理解のある夫であり父を『演じて』いる。そんな違和感。

 もしかしたら自分の思い過ごしなのかもしれない。もしくは、育児書などに書いてあった、産後しばらくは情緒が不安定になりやすいという状態なのかもしれない。

 だがどれも、あの夜の忌まわしい名前を打ち消してはくれない。
 聞き違いなどではないのだから。

 だからこそ。その違和感を取り除くために、生家に行くのだ。
 自身が納得できる形で、きちんとヴァルターの行動を把握するために。

 そう、自分に言い聞かせたミレーユは軽く頭を下げ、馬車へ向かう。乳母と侍女がアレクセイを抱いて後に続く。
扉が閉まり、馬車はゆっくりと公爵邸を離れた。



 数刻ほど、馬車を走らせた先。同じ王都の中ではあるが、貴族街のちょうど外れの、より一層閑静な場所に、ミレーユの生家でもあるラフォード侯爵家のタウンハウスはあった。中央に近ければ近いほど、その家門の影響力やパワーバランスが見て取れるのだが、ラフォード家は敢えてそこから距離を置いていた。

 決して影響力が劣るのではない。寧ろ逆だ。だからこその距離感。代々においてのラフォード家の資質が見て取れる。堅実で狡猾、決して慣れあわないという意思表示。そんなことが伺いしれるような位置。

 ラフォード邸の門を馬車が潜る。そこから少し走った先では、玄関扉はすでに開いており、家人たちが静かに並んでいた。馬車が止まり、ラフォード家の従者が扉を開ける。その手を借りながら石畳に降り立ったミレーユを迎えたのは、涼やかな表情を浮かべたミレーユの継母なる侯爵夫人だった。

「おかえりなさい、ミレーユ。道中は無理をしなかったでしょうね。……さあ、アレクセイを見せてちょうだい」

 その声音には、侯爵夫人としての威厳よりも、娘を案じる母の温かさが勝っていた。視線はすでに乳母の腕に向けられている。

 ミレーユの実母は、彼女が幼い頃に儚くなっていた。

 その数年後、父侯爵が後妻として娶った女性。ミレーユと同じく黒髪の美しい人である。彼女も立派に男児を産み落とし、ラフォード家の後継を繋いでいた。
 高位貴族の子弟は、十代前半から七年を寄宿舎で過ごし、その間に家格にふさわしい教養と序列意識を叩き込まれるのが常である。もちろんそこで、生涯の友や学びを見つける場でもある。ミレーユの腹違いである弟・サンジュルドも例にもれず、そのパブリックスクールで学びを得ている最中だ。

 家族関係は決して悪くなく、寧ろ良好と言ってもいい。

 継母となった女性は、ミレーユのことも実子と同じく愛情を注いでくれた。ミレーユ自身も、彼女のことを母というよりは、年齢の少し離れた姉のように慕っていた。二人とも気質がよく似ていたのかもしれない。もしかすると、父はそれも見越して、彼女と再婚を決めたのかもなどと思ったりする。

 そして、可愛い我が子アレクセイ。
 その名は、高貴な守護者を意味する名で、ヴァルターが選んだものだった。家を守り、祝福を受ける存在として育ってほしいという願いが込められている。初めて夫にその名を告げられた時、ミレーユはその響きにふさわしい未来を確かに思い描いた。

 我が子もいつかは寄宿舎へ、学びに行くことになるだろう。なんの過不足もなく、しっかりとした安定した未来を。

 乳母が一礼し、歩み出る。侯爵夫人はその腕へ自然と手を差し伸べ、孫を丁寧に抱き取った。

「まあ、なんてしっかりした子なの。頬の色も良いわ。生まれたばかりとは思えないほど、凛々しい顔をしているわ」

 その豊かな髪を撫でながら、侯爵夫人は満足げに息をついた。ミレーユはその横顔を見つめ、控えめに微笑む。

「お母様に抱かれて、きっと安心しているのでしょうね。小さいながらも、聡いみたいなのよ」

「あなたも、すっかり母の顔になったわね。落ち着きが出たものだわ」

 侯爵夫人はアレクセイの額にそっと唇を寄せた。

「さあ、お入りなさい。お父様も楽しみにしていたのよ。朝から珍しく、落ち着かない様子でね」

 そう言い侯爵夫人はクスリと笑う。

「そうそう。アレクセイの用意もちゃんと整えてありますから。全て自由に使って頂戴ね」

「ありがとうございます、お母様」

 ミレーユは軽く礼をし、乳母と侍女を伴って屋敷の中へ進んだ。
 
 アレクセイは侯爵夫人の腕の中で、小さく吐息を洩らすように寝息を立てている。初めての里帰りを祝福するかのように、夏の光が廊下へ柔らかく差し込んでいた。
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