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1 北への発車ベル A-Side track
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駅前には数多くの馬車が、所狭しと並び行き交っている。
本格的に鉄道が運行されるようになったのは、まだ数年前。未だ一般庶民が乗るには、高価な乗り物である。
それでもそこには、平民は勿論、着飾った貴族や軍人、商人など、様々な階級の人々がそれぞれの目的のために歩を進めていた。
一歩駅構内に入ると、真っ先に目に飛び込んでくるのは大きな鉄製のトレインシェッド。高い天井は、大きなアーチ状になっている。
幾本もの巨大な石柱は、行き先の違う列車のプラットホームを区切っている。
石炭の焼ける匂いと蒸気機関車が吐き出す煙の中、大きく分厚い眼鏡をかけ、毛糸編の帽子で頭を覆った女性・カレンは北行きの列車のホームへ立っていた。
彼女は革の旅行鞄を抱える片手に力を込めると、車両のステップをそろりと踏んだ。
中に入ると、深い赤茶の壁が迎え入れてくれる。
カレンは一般車両の三等ではなく、手元の切符にある番号通り、二等のコンパートメントの座席へ腰を下ろした。
足元に旅行鞄を置き、ふっとひとつ息を吐く。
身に着けていたコートを脱ぎ、手袋を外す。そこでやっと、落ち着けた。
乗り込んだ汽車は、これから北へ向けて走り出す。
コートを器用に畳みながら、車窓の外に視線を向ける。
反対側のプラットホームには、先ほど到着したばかりなのだろう。車両から流れ降りてくる乗客たちが目に入る。彼らは一様に、分厚い外套と見るからに頑丈そうなブーツを身に着けており、北の寒さを言葉なく伝えてくる。
ぼんやりとそんな景色を眺めていると、高らかな発車ベルの音が耳に入ってきた。直後、唸りを上げた汽笛が足元に振動を運び、煙突から大量に吐き出された黒煙が、車窓の外を覆う。
それからほどなくして、ガタンと大きく車体を揺らし汽車が動き出した。
最初はゆっくりと。徐々にその動きは早まっていき、駅の石柱がすべて見えなくなるころには、一定の速さで王都の景色の中を走りだしていた。
☆
(あなたへの想い、少しでも届けたい)
自身で決意し踏み出した一歩。もう後戻りはできないし、するつもりもない。
汽車は街を抜け、平原へ入った。冬の寒気が土の色を暗くし、ところどころに雪が薄く残り始めた。風景は簡素になるにつれて、空が広くなり北へ向かうほど、色が削られてゆく。
削ぎ落とされた景色を車窓から見つめ、汽車が線路を踏む音を聞きながら、カレンは過去の記憶を辿った。
☆
この国において、騎士という職にある者が遠方の地へ赴任する際、出発を前に婚姻を急ぐのは餞の意味を持つ時代があった。命の保証がない戦地へ向かう前に家名を繋ぎ、身を固める。そんな風習めいたことが今でも、特に高位貴族の間では定着している。
カレンはそんな古い験担ぎを、どこか遠い国の出来事のように思っていた。だがある日、何の予兆もなくそれは、現実としてカレンに突きつけられた。
王都にある貴族の子女たちが通う学園を卒業する頃、彼女自身がその習わしに従って、家を整えるための妻として選ばれたのだ。
カレンの生家と、相手であるローランの家は同格である侯爵家。双方にとって利のある縁談。両親が舞い込んできた縁談を悩みぬいた末に進めたのは、カレンが常に分厚い眼鏡をかけ、髪をきつくひっつめ手編み帽子を深くかぶって過ごすような、そんな娘の将来を案じてだったこともあったのだろう。
彼女がそのような姿でいるのには、人には言えない理由があった。
カレンがまだ幼い頃、邸の使用人が彼女に歪んだ欲望を向け、悪戯をされそうになった過去がある。その日を境に、カレンは自らの美しさを呪うようになり、それを隠すことでしか自分を守れなくなってしまった。両親はその事情を知っていたからこそ、娘の奇妙な格好を一度も咎めることなく、静かに見守り続けてきてくれていた。
そして訪れた顔合わせの日。
カレンは眼鏡の向こうから、婚約者となる青年・ローランを静かに見つめた。
ローランは騎士学校を卒業したばかりの、若さゆえの野心に燃える騎士だった。彼はこれまで剣の修行に明け暮れ、色恋とは縁遠い生活を送ってきたと言う。故か、当初はこの縁談に前向きな様子を見せていると、カレンはそう聞かされていた。
しかし実際にカレンの姿を目の当たりにした瞬間、ローランの顔に隠しきれない動揺が走ったのを、カレンはその分厚いレンズ越しにある翡翠色の瞳に映していた。彼はすぐにその表情を打ち消したが、そこにあった失望は消えなかった。彼にとって隣に立つべき妻は、もっと誇らしく華やかな存在であって欲しかったのだろう。
「……宜しく」
ローランが口にしたのは、義務的な挨拶だけ。
カレンとローラン、当人同士の話もそこそこに縁談は纏まった。
それから儀礼的に数か月に一度、顔を合わせる茶の席で、ローランはカレンの見た目に関して、何も問わなかった。その静けさは少なくとも、カレンを追い詰めるものではなかった。
そして。婚約が整ってから一年を待たずに、二人は形式的な婚姻式を挙げた。
それはローランの赴任に合わせたもので、冬の寒い日のことだった。
だが、ローランはカレンに指一本触れようとはせず、初夜さえも赴任の準備という名目で事務仕事に没頭していた。カレンもまた、それを当然のこととして受け入れ、静かに夜を明かした。
婚姻してからわずか三日目の朝だった。赴任先へ旅立つ夫となったばかりのローランを見送るために、カレンは視線を下げつつ門前に立っていた。
馬に跨ったローランは、一度もカレンに視線を向けず冷ややかな声を投げた。
「家のことは君に任せる。帰還は早々出来ないと、心得て欲しい」
カレンはローランのその言葉に、ただひとつだけ静かに頭を下げた。
「お気をつけて。いってらっしゃいませ、旦那様」
カレンの言葉を聞くか否や、馬を走らせたローラン。蹄の音が遠ざかり、僅かに巻き上がった砂埃が収まると、そこには静寂だけが残った。
カレンは眼鏡の奥の瞼を閉じ、今日初めて深く長い息を吐き出した。その時はまだ、寂しさなどは無く。
これからの人生は長い。
お互いに思いあえるそんな夫婦関係を、時間かけて築けたらいい。
どこかでそんな希望もあったのかもしれない。
本格的に鉄道が運行されるようになったのは、まだ数年前。未だ一般庶民が乗るには、高価な乗り物である。
それでもそこには、平民は勿論、着飾った貴族や軍人、商人など、様々な階級の人々がそれぞれの目的のために歩を進めていた。
一歩駅構内に入ると、真っ先に目に飛び込んでくるのは大きな鉄製のトレインシェッド。高い天井は、大きなアーチ状になっている。
幾本もの巨大な石柱は、行き先の違う列車のプラットホームを区切っている。
石炭の焼ける匂いと蒸気機関車が吐き出す煙の中、大きく分厚い眼鏡をかけ、毛糸編の帽子で頭を覆った女性・カレンは北行きの列車のホームへ立っていた。
彼女は革の旅行鞄を抱える片手に力を込めると、車両のステップをそろりと踏んだ。
中に入ると、深い赤茶の壁が迎え入れてくれる。
カレンは一般車両の三等ではなく、手元の切符にある番号通り、二等のコンパートメントの座席へ腰を下ろした。
足元に旅行鞄を置き、ふっとひとつ息を吐く。
身に着けていたコートを脱ぎ、手袋を外す。そこでやっと、落ち着けた。
乗り込んだ汽車は、これから北へ向けて走り出す。
コートを器用に畳みながら、車窓の外に視線を向ける。
反対側のプラットホームには、先ほど到着したばかりなのだろう。車両から流れ降りてくる乗客たちが目に入る。彼らは一様に、分厚い外套と見るからに頑丈そうなブーツを身に着けており、北の寒さを言葉なく伝えてくる。
ぼんやりとそんな景色を眺めていると、高らかな発車ベルの音が耳に入ってきた。直後、唸りを上げた汽笛が足元に振動を運び、煙突から大量に吐き出された黒煙が、車窓の外を覆う。
それからほどなくして、ガタンと大きく車体を揺らし汽車が動き出した。
最初はゆっくりと。徐々にその動きは早まっていき、駅の石柱がすべて見えなくなるころには、一定の速さで王都の景色の中を走りだしていた。
☆
(あなたへの想い、少しでも届けたい)
自身で決意し踏み出した一歩。もう後戻りはできないし、するつもりもない。
汽車は街を抜け、平原へ入った。冬の寒気が土の色を暗くし、ところどころに雪が薄く残り始めた。風景は簡素になるにつれて、空が広くなり北へ向かうほど、色が削られてゆく。
削ぎ落とされた景色を車窓から見つめ、汽車が線路を踏む音を聞きながら、カレンは過去の記憶を辿った。
☆
この国において、騎士という職にある者が遠方の地へ赴任する際、出発を前に婚姻を急ぐのは餞の意味を持つ時代があった。命の保証がない戦地へ向かう前に家名を繋ぎ、身を固める。そんな風習めいたことが今でも、特に高位貴族の間では定着している。
カレンはそんな古い験担ぎを、どこか遠い国の出来事のように思っていた。だがある日、何の予兆もなくそれは、現実としてカレンに突きつけられた。
王都にある貴族の子女たちが通う学園を卒業する頃、彼女自身がその習わしに従って、家を整えるための妻として選ばれたのだ。
カレンの生家と、相手であるローランの家は同格である侯爵家。双方にとって利のある縁談。両親が舞い込んできた縁談を悩みぬいた末に進めたのは、カレンが常に分厚い眼鏡をかけ、髪をきつくひっつめ手編み帽子を深くかぶって過ごすような、そんな娘の将来を案じてだったこともあったのだろう。
彼女がそのような姿でいるのには、人には言えない理由があった。
カレンがまだ幼い頃、邸の使用人が彼女に歪んだ欲望を向け、悪戯をされそうになった過去がある。その日を境に、カレンは自らの美しさを呪うようになり、それを隠すことでしか自分を守れなくなってしまった。両親はその事情を知っていたからこそ、娘の奇妙な格好を一度も咎めることなく、静かに見守り続けてきてくれていた。
そして訪れた顔合わせの日。
カレンは眼鏡の向こうから、婚約者となる青年・ローランを静かに見つめた。
ローランは騎士学校を卒業したばかりの、若さゆえの野心に燃える騎士だった。彼はこれまで剣の修行に明け暮れ、色恋とは縁遠い生活を送ってきたと言う。故か、当初はこの縁談に前向きな様子を見せていると、カレンはそう聞かされていた。
しかし実際にカレンの姿を目の当たりにした瞬間、ローランの顔に隠しきれない動揺が走ったのを、カレンはその分厚いレンズ越しにある翡翠色の瞳に映していた。彼はすぐにその表情を打ち消したが、そこにあった失望は消えなかった。彼にとって隣に立つべき妻は、もっと誇らしく華やかな存在であって欲しかったのだろう。
「……宜しく」
ローランが口にしたのは、義務的な挨拶だけ。
カレンとローラン、当人同士の話もそこそこに縁談は纏まった。
それから儀礼的に数か月に一度、顔を合わせる茶の席で、ローランはカレンの見た目に関して、何も問わなかった。その静けさは少なくとも、カレンを追い詰めるものではなかった。
そして。婚約が整ってから一年を待たずに、二人は形式的な婚姻式を挙げた。
それはローランの赴任に合わせたもので、冬の寒い日のことだった。
だが、ローランはカレンに指一本触れようとはせず、初夜さえも赴任の準備という名目で事務仕事に没頭していた。カレンもまた、それを当然のこととして受け入れ、静かに夜を明かした。
婚姻してからわずか三日目の朝だった。赴任先へ旅立つ夫となったばかりのローランを見送るために、カレンは視線を下げつつ門前に立っていた。
馬に跨ったローランは、一度もカレンに視線を向けず冷ややかな声を投げた。
「家のことは君に任せる。帰還は早々出来ないと、心得て欲しい」
カレンはローランのその言葉に、ただひとつだけ静かに頭を下げた。
「お気をつけて。いってらっしゃいませ、旦那様」
カレンの言葉を聞くか否や、馬を走らせたローラン。蹄の音が遠ざかり、僅かに巻き上がった砂埃が収まると、そこには静寂だけが残った。
カレンは眼鏡の奥の瞼を閉じ、今日初めて深く長い息を吐き出した。その時はまだ、寂しさなどは無く。
これからの人生は長い。
お互いに思いあえるそんな夫婦関係を、時間かけて築けたらいい。
どこかでそんな希望もあったのかもしれない。
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