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3 北の街
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『あの夫婦、白い結婚じゃないの?』
嘲笑まじりに囁かれるその言葉は、想像以上に好奇にも下品にも響く。
愛されない妻、役目を果たせない可哀想な妻。
灯を落とした後の寝室の中など、誰かが覗けるはずもないのに。
揚げ句には、妻に問題があるのだろうと、陰湿で勝手な憶測が独りでに歩き出す。
カレンの見目も相まってか、そんな中傷めいた声が聞こえてきても、彼女の両親は気丈に振る舞った。娘の事情も理解し、同時に相手の若さも汲んでいた。婚姻とは、愛だけではなく制度でもある。だから「うまくやりなさい」と言い、言葉の裏にある娘を想う不安を飲み込んだ。カレンも周囲からのそんな雑音を、何事もないかのように聞き流し、両親の言葉に深く頷いていた。
住まいは、王都のこじんまりとした古い邸を買い取った。そこでのカレン若夫妻の食卓では、いつも二人分が整えられていた。夫は北の赴任先なのに、だ。
当たり前ではあるが、椅子に座るのはいつもカレン一人。対面に置かれてあるスープの湯気が消え、パンが硬くなっていく。
その風景が、カレンの心をさらに孤独にすると知ってか知らずか。そうすることは、無事に邸に戻ってきてほしいという祈りなのだと周りは話す。慣習だと言われれば、使用人の手前あって無下にもできず、カレンはそれを受け入れた。
これが労りあえる夫婦であるならば、また違うのだろうか。と思う。
居ない人の分まで必要なのだろうか。と思う。
だが、そんな中でもカレンは、留守を預かる妻として家を整えた。
やるべきことは、日々いくつもある。誰かに頼めばそれで済んだのかもしれないが、カレンはそうはしなかった。
カレンの結婚生活とは、そんな日々の重なりだった。
ローランが北の地に赴任したその日から三年。彼が王都に戻って来たのは、片手で数えるほど。
夫が恋しいか? と問われたら、頷いたであろう。
その恋しいが、どんな意味を持つのかは、三年の間に変化を遂げていた。
何も王都から北の赴任地へ行ったのはローランばかりではない。
そういった者たちが帰省した際、人の不貞の噂など、好事家の口実にされ口の端に掛かる。聞きたくなくとも、そのうちに自然と、カレンや両親の耳にも入ってきた。
カレンはそのことを、嘆息と共にこの決断するまでの間、吞み込み続けていた。噂は噂であり、自分が確認したことではない。そう考えて。
だが、確認しようにも本人は戻ってこない。文を書いても返事もない。
それこそが答えではないのか?
そう考えるようになっていた。
☆
汽車は北の地へと、その黒の塊から煙を吐きながら走っていた。
カレンは車窓から差し込む光で目を覚ました。やけに眩しい。カーテンを閉めずに眠ったせいなのか、白に近い灰色の雲から光の元は見えてないのに、明るさが車内を照らす。
薄っすら開いた瞼を、車窓の向こうにやってみると、風景はまた一変していた。
そこには北国独特の、雰囲気と景色があった。
汽車に沿って並んで見える建物の屋根はどれも急勾配で、壁は丸太造りのもの、石造りのもの様々見える。だが共通しているのは、どの屋根にも煙突がついてあった。
立ち並ぶ家屋の前には、積もる雪を両脇にかき分けて作ったのだろう、車輪の跡がついた細い道が、いくつも見えた。
少し大きな通りには、木の葉を落とした木と、針葉樹の上に雪を積もらせた木が点在している。
汽車は今、橋の上を渡っているようで、その下を流れているのだろう川は一目でわかるほど、白く凍り付いていた。
一晩走っただけなのに、こんなにも風景が変わるものなのか。と思っていると、コンパートメントの扉が叩かれた。
「はい」
カレンが返事をすると、外から昨日食堂を案内してくれた車掌の声がした。
「あと四刻半ほどで、最終駅に到着いたします。お降りのご準備をお願い致します」
「わざわざありがとうございます」
「いいえ、お忘れ物のありませんよう、お気を付けください」
彼は最後にそう言うと靴音を鳴らし、同じように別の乗客への声かけへと戻っていった。
☆
汽車は大きなブレーキ音と共にプラットホームに滑り込んだ。
重い扉が開き、ステップを下りた瞬間に、北国特有の鋭い冷気がカレンの全身を刺す。息を吸うたびに肺の奥まで冷たさが入り込むその一瞬、臓腑が凍る感覚に襲われる。
カレンは思わず身を竦め、旅行鞄を持たない反対の手でコートの前をきつく閉じ直した。
ホームには、ここでもやはり様々な職種の人々が往来していた。そこに居る人々の口元からは、白く大きな吐息がそこかしこで上がり、中には大きなマフラーのようなもので口元を隠す人もいる。
カレンは寒さに身を固めながら、駅舎の改札窓口に向かい、駅員に声を掛けた。
「恐れ入ります。北の騎士団の詰所へ伺いたいのですが、道を教えていただけないでしょうか」
分厚い眼鏡越しに尋ねるカレンを、駅員は訝し気に見下ろした。地味な風体で、毛糸の帽子を目深にかぶった女性が、なぜ荒くれ者の多い詰所などに行くのか不思議に思ったのだろう。
「詰所かい? ここからだと、駅前の広場から出ている乗り合い馬車を使って行くといい。三つ目の停留所で下りれば、目の前が大きな石造りの建物だ。迷うことはないよ」
カレンは丁寧に礼を言うと、その足で教えられた通りに駅の外へと向かった。
駅の外にでると、広がる空は白灰色。そこからは水を多く含んでいるのか、重く冷たい雪が、どんどん落ちてきていた。
その場にいると、埋もれてしまいそうな感覚に襲われたカレンは、無意識に歩を速める。
駅員が教えてくれた広場には、数台の馬車が停まっていた。カレンはその中の一台、既に数人が乗り込んでいる馬車に、料金を払い乗り込んだ。
馬車の中は土の交じった干し草の匂いと、濡れた毛糸の生乾きのような独特の匂いが混じり合っている。ガタガタと大きく揺れながら進む馬車の窓から、カレンは雪に埋もれた北の街並みを眺めていた。
「詰所前だ。下りる人はいないか」
「あ、はい。降ります」
御者の声に促され、カレンは足元に置いてあった旅行鞄を持ち直し、馬車を下りた。目の前には、要塞のような無骨な石造りの建物がそびえ立っている。ここが、ローランが三年間過ごした場所なのだ。
カレンは鉄製の重い扉を押し開け、中へと足を踏み入れた。
広々とした土間のような空間には、石炭ストーブの熱気が充満している。奥の机には、一人の騎士が面倒そうに書類を眺めていた。
カレンは受付の机まで歩み寄り、小さな声でその男性に声を掛けた。
「失礼いたします。私は、カレン・ブレンダルと申します。お忙しい所、申し訳ないのですが……ローラン・ブレンダルを呼んでいただけませんでしょうか?」
ローランの名を出した途端、騎士の手が止まった。彼は眼鏡をかけた地味な女性を一瞥すると、隣にいた別の騎士と顔を見合わせ、含みのある笑みを浮かべた。
「ああ、ローランですか。あいつなら今、中央の大訓練場にいるはずだよ」
「訓練場、ですか?」
「ここを真っ直ぐ言った先にあるよ。……同じ部隊のブリジットと一緒なんじゃないかな。赤茶髪の背の高い女だ。探してみてください」
男たちの嘲笑を含んだ視線を背中に感じながら、カレンは静かに一礼した。
彼らが何を笑っているのか、その理由はわからなかった。
嘲笑まじりに囁かれるその言葉は、想像以上に好奇にも下品にも響く。
愛されない妻、役目を果たせない可哀想な妻。
灯を落とした後の寝室の中など、誰かが覗けるはずもないのに。
揚げ句には、妻に問題があるのだろうと、陰湿で勝手な憶測が独りでに歩き出す。
カレンの見目も相まってか、そんな中傷めいた声が聞こえてきても、彼女の両親は気丈に振る舞った。娘の事情も理解し、同時に相手の若さも汲んでいた。婚姻とは、愛だけではなく制度でもある。だから「うまくやりなさい」と言い、言葉の裏にある娘を想う不安を飲み込んだ。カレンも周囲からのそんな雑音を、何事もないかのように聞き流し、両親の言葉に深く頷いていた。
住まいは、王都のこじんまりとした古い邸を買い取った。そこでのカレン若夫妻の食卓では、いつも二人分が整えられていた。夫は北の赴任先なのに、だ。
当たり前ではあるが、椅子に座るのはいつもカレン一人。対面に置かれてあるスープの湯気が消え、パンが硬くなっていく。
その風景が、カレンの心をさらに孤独にすると知ってか知らずか。そうすることは、無事に邸に戻ってきてほしいという祈りなのだと周りは話す。慣習だと言われれば、使用人の手前あって無下にもできず、カレンはそれを受け入れた。
これが労りあえる夫婦であるならば、また違うのだろうか。と思う。
居ない人の分まで必要なのだろうか。と思う。
だが、そんな中でもカレンは、留守を預かる妻として家を整えた。
やるべきことは、日々いくつもある。誰かに頼めばそれで済んだのかもしれないが、カレンはそうはしなかった。
カレンの結婚生活とは、そんな日々の重なりだった。
ローランが北の地に赴任したその日から三年。彼が王都に戻って来たのは、片手で数えるほど。
夫が恋しいか? と問われたら、頷いたであろう。
その恋しいが、どんな意味を持つのかは、三年の間に変化を遂げていた。
何も王都から北の赴任地へ行ったのはローランばかりではない。
そういった者たちが帰省した際、人の不貞の噂など、好事家の口実にされ口の端に掛かる。聞きたくなくとも、そのうちに自然と、カレンや両親の耳にも入ってきた。
カレンはそのことを、嘆息と共にこの決断するまでの間、吞み込み続けていた。噂は噂であり、自分が確認したことではない。そう考えて。
だが、確認しようにも本人は戻ってこない。文を書いても返事もない。
それこそが答えではないのか?
そう考えるようになっていた。
☆
汽車は北の地へと、その黒の塊から煙を吐きながら走っていた。
カレンは車窓から差し込む光で目を覚ました。やけに眩しい。カーテンを閉めずに眠ったせいなのか、白に近い灰色の雲から光の元は見えてないのに、明るさが車内を照らす。
薄っすら開いた瞼を、車窓の向こうにやってみると、風景はまた一変していた。
そこには北国独特の、雰囲気と景色があった。
汽車に沿って並んで見える建物の屋根はどれも急勾配で、壁は丸太造りのもの、石造りのもの様々見える。だが共通しているのは、どの屋根にも煙突がついてあった。
立ち並ぶ家屋の前には、積もる雪を両脇にかき分けて作ったのだろう、車輪の跡がついた細い道が、いくつも見えた。
少し大きな通りには、木の葉を落とした木と、針葉樹の上に雪を積もらせた木が点在している。
汽車は今、橋の上を渡っているようで、その下を流れているのだろう川は一目でわかるほど、白く凍り付いていた。
一晩走っただけなのに、こんなにも風景が変わるものなのか。と思っていると、コンパートメントの扉が叩かれた。
「はい」
カレンが返事をすると、外から昨日食堂を案内してくれた車掌の声がした。
「あと四刻半ほどで、最終駅に到着いたします。お降りのご準備をお願い致します」
「わざわざありがとうございます」
「いいえ、お忘れ物のありませんよう、お気を付けください」
彼は最後にそう言うと靴音を鳴らし、同じように別の乗客への声かけへと戻っていった。
☆
汽車は大きなブレーキ音と共にプラットホームに滑り込んだ。
重い扉が開き、ステップを下りた瞬間に、北国特有の鋭い冷気がカレンの全身を刺す。息を吸うたびに肺の奥まで冷たさが入り込むその一瞬、臓腑が凍る感覚に襲われる。
カレンは思わず身を竦め、旅行鞄を持たない反対の手でコートの前をきつく閉じ直した。
ホームには、ここでもやはり様々な職種の人々が往来していた。そこに居る人々の口元からは、白く大きな吐息がそこかしこで上がり、中には大きなマフラーのようなもので口元を隠す人もいる。
カレンは寒さに身を固めながら、駅舎の改札窓口に向かい、駅員に声を掛けた。
「恐れ入ります。北の騎士団の詰所へ伺いたいのですが、道を教えていただけないでしょうか」
分厚い眼鏡越しに尋ねるカレンを、駅員は訝し気に見下ろした。地味な風体で、毛糸の帽子を目深にかぶった女性が、なぜ荒くれ者の多い詰所などに行くのか不思議に思ったのだろう。
「詰所かい? ここからだと、駅前の広場から出ている乗り合い馬車を使って行くといい。三つ目の停留所で下りれば、目の前が大きな石造りの建物だ。迷うことはないよ」
カレンは丁寧に礼を言うと、その足で教えられた通りに駅の外へと向かった。
駅の外にでると、広がる空は白灰色。そこからは水を多く含んでいるのか、重く冷たい雪が、どんどん落ちてきていた。
その場にいると、埋もれてしまいそうな感覚に襲われたカレンは、無意識に歩を速める。
駅員が教えてくれた広場には、数台の馬車が停まっていた。カレンはその中の一台、既に数人が乗り込んでいる馬車に、料金を払い乗り込んだ。
馬車の中は土の交じった干し草の匂いと、濡れた毛糸の生乾きのような独特の匂いが混じり合っている。ガタガタと大きく揺れながら進む馬車の窓から、カレンは雪に埋もれた北の街並みを眺めていた。
「詰所前だ。下りる人はいないか」
「あ、はい。降ります」
御者の声に促され、カレンは足元に置いてあった旅行鞄を持ち直し、馬車を下りた。目の前には、要塞のような無骨な石造りの建物がそびえ立っている。ここが、ローランが三年間過ごした場所なのだ。
カレンは鉄製の重い扉を押し開け、中へと足を踏み入れた。
広々とした土間のような空間には、石炭ストーブの熱気が充満している。奥の机には、一人の騎士が面倒そうに書類を眺めていた。
カレンは受付の机まで歩み寄り、小さな声でその男性に声を掛けた。
「失礼いたします。私は、カレン・ブレンダルと申します。お忙しい所、申し訳ないのですが……ローラン・ブレンダルを呼んでいただけませんでしょうか?」
ローランの名を出した途端、騎士の手が止まった。彼は眼鏡をかけた地味な女性を一瞥すると、隣にいた別の騎士と顔を見合わせ、含みのある笑みを浮かべた。
「ああ、ローランですか。あいつなら今、中央の大訓練場にいるはずだよ」
「訓練場、ですか?」
「ここを真っ直ぐ言った先にあるよ。……同じ部隊のブリジットと一緒なんじゃないかな。赤茶髪の背の高い女だ。探してみてください」
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