〖完結〗終着駅のパッセージ 

苺 迷音

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26 治癒と焦燥

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 ローランに抱えられ、カレンは馬に乗せられた。鞍に腰を下ろした瞬間、足首の痛みが強くなり、思わず俯く。片手は馬の鬣に触れて身体を支え、もう片手は紙袋を握ったまま離さない。

 すぐ後ろにローランが乗る気配がした。馬が二人分の重さに合わせてわずかに身体を揺らす。カレンの背には、ローランが手綱を取る腕の動きだけが伝わってきた。カレンは顔を上げないまま、紙袋を握る指にさらに力を込めた。
 馬はゆっくりと歩き出し、雪を踏む音が一定の間隔で続く。

 周囲では団員の騎士たちがそれぞれ馬に乗り、侍女と御者たちも後に続く。橇馬車の馬が引かれて歩き、その横でランプの灯りがいくつも揺れている。風が吹くたび、光が雪の粒を照らして流れていった。

 やがて哨戒小屋が見えてきた。丸太を積み上げた壁がランプの光を受けて、その箇所の木肌の色をぼんやりと照らし出す。厩舎が併設され、屋根の縁には雪が厚く積もっていた。

 馬が止まり、ローランが先に降りる。彼はカレンの脇を支え、ゆっくり地面へ下ろした。足が雪に触れた瞬間、痛みが走る。

 歩くことが出来ないカレンは、ローランに再び抱えられ「お手数おかけします」と小声で言い、それに対して「ああ」とだけ、ローランから短い言葉が返って来た。



 哨戒小屋の扉が開くと、中は思ったより広かった。手前に簡素な居間があり、奥には寝台を置いた小部屋が見える。木造りの壁には蝋燭が灯され、隅に置かれた小さな暖炉に他の騎士が火入れをしていた。

 ローランはカレンを寝台に横たえると、すぐに侍女を振り返った。

「応急処置は、訓練で学んでいる俺たちの方が早い。ここは、俺がする」

「で、ですが」

「大丈夫だ。任せて欲しい」

 侍女は口を噤み、一歩、二歩と後ずさって、居間との境で足を止めた。

 ローランはカレンの足元に膝をつき、厚手の防寒靴に手をかけた。

「脱がすぞ」

 返事を待たず、靴紐を解きにかかる。ローランの手が不意に靴を掠めるたび、足首に小さな振動が伝わり、鈍い痛みが走る。それをカレンは、声を押し殺して堪えた。

 そのことにローランが気づいたのか、手つきはまさに腫れ物に触るように優しくなり、靴紐がゆっくりと緩んでいく。やがて靴が、負傷している足から下へ滑り取られた。

 露わになったカレンの足首を見たローランの眉が、僅かに寄る。

「……骨をいわせているかもしれないな」

 まるで独り言のような呟きだった。カレンは自分の足首を見る勇気が出ずに、ただ俯いたままで、胸元の紙袋を抱きしめる。

 膝をついたままのローランが、頭だけを扉の方を向け、少し声を張って呼びかけた。

「おい! すまんが、軒先の氷柱を削って持ってきてくれないか! 応急箱の中から、布もだ!」

 居間で控えていた団員の一人が短い返事のあと、外へと続く扉を開け、雪を蹴って走り出す音がした。

 小部屋の扉傍に控えていた侍女は、心配そうに二人を見守っていたが、その身体は寒さに晒されていた為か、小刻みに震えている。それに気づいたローランは、彼女に声を掛けた。

「暖炉の傍で身体を温めてくるといい。……部屋の扉は開けておくから」

 二人きりになることを回避するような、騎士らしい配慮を含んだその言葉に、侍女は僅かに安堵したようだった。彼女は小さく頭を下げると、扉を少し開けたままにし、暖炉の傍へと足を向けた。
 沈黙が落ちた。外の僅かな音が、やけに響いて聞こえてくる。

 少しして団員が戻り、氷の欠片と布を差し出した。ローランはそれを受け取ると、再びカレンの足元に膝をつく。氷を布で包み、腫れ上がった足首にそっと当てた。

 冷たさが、痛みを僅かに和らげる。

 だが、それを当てているのはローランの手だ。三年間、一度も触れなかった男の指が、今、足首に触れている。事務的な動作のはずなのに、その指先の温度が妙に生々しく感じられて、カレンの肌が粟立った。

 視線を逸らす。壁の一点を見つめ、意識をそこに集中しようとした。

「なあ、カレン」

 不意に、ローランの低い声が、名を呼んだ。

「なぜ、お前がこの地にいる?」

 カレンは、答えなかった。婚約してから離縁するまでの間、ほぼ会話もなく過ごした元の夫だ。思い入れもなければ、今さら何か問いかけられても、自身の現状について話す理由が見当たらない。

「なぜ、閣下の馬車に乗っていた? アルヴェルト家の紋章を掲げた橇に」

 言葉を紡ぐことはなく、カレンは下を向き続けた。ローランの手が、足首の上で止まった。

「……まさか」

 ローランのその声色が変わった。例えるのであれば、喉の奥から吐き出した、湿り気のある嫌な響き。

「お前、閣下と不貞でもしてたのか?」

 思わず顔を上げたカレンの視線が、ローランを射た。

「そうか……」

 ローランが口角を上げ、鼻を鳴らすように荒々しく語意を上げた。

「はっ! そういうことか。合点がいく。なるほどな。俺が帰省しないほうが、お前にとっては都合がよかったよな? あの時、閣下から北の茶葉をもらったと言っていたな」

 声が、じわりとさらに熱を帯びていく。

「あれがそうだったのか。それで俺に、この顔を隠していたのか」

 ローランの手が、氷から離れた。足首を離れ、ゆっくりと持ち上がる。その指先が、カレンの頬に向かって伸びてきた。

「やめて」

 身を捩った。寝台の端まで逃げようとして、足首に激痛が走る。

「やめて……っ!」

「元だが、夫だぞ?」

 立ち上がったローランは、カレンの髪に手を掛け、上から言い放つ。

「どうだ? 初夜のやり直しだってできるだろ? 離縁不履行の申し立てだって……あの時は不意打ちみたいなもんだったからな。あぁ、俺と離縁して、閣下と婚姻するためか? 俺が北に居る間、お前……閣下と不貞してたんだろ!」

 ローランの声が叫びに変わった、その瞬間。

 半分だけ開かれていた木の薄い扉が、勢いよくさらに広がった。居間の温められた暖気が部屋の中に入ると同時に、そこには長身の影が立っていた。
 
 ハルシオン、その人だった。

 雪に濡らした外套を羽織り、髪を雪に濡らしたその灰色の瞳が、部屋の中を一瞥する。寝台の隅で身を縮めるカレンとその前に立つローラン。状況は、一目で把握されただろう。

「不貞? 誰に言っている? ローラン、お前が言うな」

 ローランの顔が強張った。

「カレンをそんな口汚い言葉で罵ることは、この私が許さない」

 ハルシオンは一歩、部屋の中に踏み込んだ。その気配だけで、空気が張り詰めたものに変わってゆく。

「そして」

 ローランを射抜くその視線は、部下を見る上官のものではなく、ただ一人の男として、牙を剥き出し威嚇を孕んでいるようだった。

「仮に、不貞をしていたら? それがどうした? 何の問題がある?」

 ローランの顔から、みるみるうちに血の気が引いていった。何かを言いかけようと口を動かすが、声は出ていない。ただ、ハルシオンの圧倒的な威圧感に圧し潰されたかのように、その場に力なく立ち尽くしていた。

「……申し訳、ありませんでした」

 絞り出すような声で頭を下げるローランにハルシオンは、それには応えずカレンの傍に歩み寄った。

「カレン」

 その声は、さっきまでとは全く違う、柔らかな響きだった。

「迎えに来ました。もう、大丈夫です」

 その言葉を聞いた瞬間、強張る身体から力が抜け、カレンの目から一粒、涙が零れ落ちた。
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