紫苑の誓約ー甘美な愛とすれ違いの愛の果てに、記憶を失くした皇太女を変わらず溺愛するー

苺迷音

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76 出立の朝

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 帝都の北方公館は、夜更けすぎでも無駄な物音ひとつ立てない。
 広間の灯は落とされ、来客を想定していないことを示すように、廊下の燭台だけが最小限にともっている。

 扉をノックする音。その後、静かにわずかばかり、扉が開く。
 ヴォルフが視線だけで合図すると、近侍のセルジュが書簡箱を抱えて入ってきた。銀の飾りを控えめに施した箱は、遠路を運ばれたものにしては汚れが少ない。途中で幾度も手替わりが行われた印だ。

「殿下。北より」

 セルジュが跪き、箱の留め金を外す。
 中には数通の封書。王印の封蝋が押され、そのうち一通は封の縁がわずかに擦れている。書き直し、あるいはためらいの跡。
 
 彼は最上の封書だけを抜き取り、ペーパーナイフを滑らせる。紙の裂ける音が、静かな部屋に短く走った。
 数行を目で追い、口元がわずかに動く。

「……帝国の中枢は揺らいでいる。機を逃すな、か」

 最後まで読み終えるより早く、ヴォルフは封書を火皿に落とした。火は小さく、しかし迷いなく紙を食む。文字の線が崩れ、灰は形を失って沈んだ。
 
 セルジュは目を伏せたまま、次の封書を差し出そうとしたが、ヴォルフが手で制した。

「もういい。父上の『熱』は伝わった」

 短く息を吐き、椅子の背にもたれず背筋を保ったまま、ヴォルフは言った。

「帝冠は欲しければくれてやる。私は別のものを望む」

 セルジュの瞳がかすかに揺れる。彼はこの主の「望み」の輪郭を知っている。だが、それを口にすることはない。

「……南方とは、どうなさいます。リカルド侯の娘は、殿下との『協調』を流布しつつあります。昨夜の交流会でも」

「好きにさせておけ」

 食い気味に、ヴォルフ。声音は冷ややかだが、言葉の端にわずかな苛立ちが滲む。

「あの女は己の欲に忠実だ。だからこそ使える。だが、信用には値しない」

 セルジュは、ほんのわずか間を置いてから、核心に踏み込む。

「……暗殺未遂の件、再調査の結果が出ました。噴射機構は、南の手の者が東方経由で入手した可能性が高い。殿下の命によるものだと、北方内でも一部で囁かれております」

 ヴォルフの指先が止まった。目だけを上げ、セルジュをまっすぐに射る。

「その噂を、信じるのか」

「いいえ。私は殿下の御傍におりました故」

「ならば忘れるな。あれは、私の命ではない」

 そう、言い切る。その静かな断言に、セルジュの背筋が自然とのびた。

「南の女は、私の企図を知らぬところで余計な真似をした。その噂も、多分術の中だ。あの女、敵で味方でやはり……敵だ」

 ここにきて、ヴォルフの苛立ちは頂点に達しようとしていた。何もかもうまくいかない。

 南方女の術を使えば、ジュノは手に入ると思っていた。策は成るはずだった。綿密に練り上げ、細部にまで気を配ってきた。

 それなのに、あの女はもとより、ジュノの側近どもが離れぬ。予定では奴らはとっくに排除されているはず。挙句、暗殺未遂ときた。そして、あのライネルまで。すべてが狂っている。

「どう考えてもおかしいだろ……」

 行きつく先の答えはひとつ。

 南方は『最初から』こちらと共闘など、する気がなかった。うまい具合に、利用されていた。

 ……いや。共闘をする気がないのは、南方諸侯ではなく、もしかしたら――

 あの女。

 そこまで考えたヴォルフは、南方女が今まで自分に語っていたことが、全て嘘のように思えた。

「あの女。真の企みは何だ」

 己の口からでたその言葉に、身体の芯が怒りで震えた。



 宮廷の朝は、静かに動き出す。
 
 廊下の端で仕え人たちが、それぞれの勤めの準備をし始め、遠くのほうで鐘の音が短く鳴る。衣擦れの気配も、まだ控えめだ。

 東の空は、紫から藍へとゆっくり混じり合い、やがて淡い橙が滲み出て来る。
 夜と朝のあいだを、掌でなぞるような一瞬。

 グスタフの私室の扉が、二度控えめに叩かれた。

「入れ」

 返事は短い。
 音もなく扉が開き、白の旅装束を纏ったジュノが一歩、静かに入ってきた。
 装いは簡素だが、柔らかな布が動きに合わせてわずかに揺れる。余計な飾りのないその姿は、彼女の無垢な可憐さをより一層、際立た挿せていた。

「来たか」

「はい。出立の前に、ご挨拶をと思いまして」

 グスタフは筆を置き、立ち上がる。目元に、威厳よりも柔らかな色が宿る。言葉を選ぶ間も、視線は娘の顔を離れない。

「東の別荘は、森の奥だ。都よりはずっと涼しい。……だが、湖の風は冷える。夜は薄着で外に出るな」

「はい」

「食べ物と水にも気をつけろ。土地が変われば体に合わぬことがある。暑くても、無理を通すな。お前はこの季節、すぐに陽にやられて、肌が赤くなってしまう」

 そこで、ジュノの口元に笑みが浮かんだ。
 父が自分の昔を覚えている。その事実がくすぐったくて、そして嬉しい。

「気をつけます。エレナも一緒ですし、皆様が側に居てくださいますから」

「ああ。何かあればすぐ、あの者たちを頼れ。決して、一人でなんとかしようとするな。お前はすぐに、一人で物事を抱え込む癖があるからな」

 グスタフの声音が、ほんのわずか柔らかくなる。ジュノはそんなグスタフを見て、小さく笑っていた。笑うジュノにグスタフは、言葉が止めどなく溢れる自分に気づき、短く咳払いをしてからもうひと言だけ添えた。

「……困ったら、すぐに知らせよ」

「はい。ご心配、ありがとうございます。……嬉しいです」

 ジュノの笑みは、今の彼女らしい、飾り気のない明るさだ。
 グスタフは目を細め、その笑顔を目に刻むように見つめた。

「行きなさい。気をつけて行け」

「行ってまいります」

 ジュノが一礼して退室する。扉が音もなく閉まり、部屋に静けさが戻る。外から、車輪が軋む小さな音が聞こえた。準備が進んでいる。

 グスタフは窓辺に立ち、遠くの空を見やる。紫と藍が薄まり、朝の青がはっきりしてきた。

「……どうか、穏やかな日々であれ。皆、我が娘を頼んだぞ」

 誰にともなく漏れた言葉が、静かな部屋に沈む。
 
 皇帝の声ではない。

 一人の父としての声だった。
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