紫苑の誓約ー甘美な愛とすれ違いの愛の果てに、記憶を失くした皇太女を変わらず溺愛するー

苺迷音

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75 貞操の危機と温かな記憶

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 その時だった。

「レオ」

 バルコニーの入口から、声が響く。

「すまない。お邪魔するつもりはないのだが……北方の件で、話がある」

 声の主はリュシアンだった。バルコニーに足を踏み入れた彼のその表情は、珍しく深刻に見える。

「セリア嬢、誠に申し訳ない」

 リュシアンは、セリアに向かって深く頭を下げた。

「少し緊急で、レオと話せる時間が欲しい」

 レオから顔を少し離し、リュシアンを見たセリアの表情が僅かに変わった。

「リュシアン殿下。畏れ多いのですが……それは、今でなければならないのですか」

「それが」

 リュシアンが、言葉を濁した。わずかに視線を揺らし、レオの方を見る。

「レオ」

 リュシアンがレオに近づき、小声で囁いた。

「セリア嬢には、例の……その、事情を話したのか?」

 その声は低く、真剣そのもの。だが、何かを隠すように言い淀み話す。視線を交わすレオとリュシアン。何かを察したレオは、一瞬の間を置いて頷いた。

「ああ。極秘の件なら、セリア嬢に伝えてある」

「なら、話は早いな」

 ふっと息を吐いたリュシアンは、セリアに向き直った。

「セリア嬢。ご存じのように、レオには時間がない。話せるときに話しておかないと、後々拗れてしまう案件があってね。貴方ならご理解いただけるかと」

 リュシアンの声が、真摯な色を帯びる。

「お二人の時間の邪魔をして、心苦しいのだが。これは北方との関係にも関わることで、申し訳ない」

 セリアは、しばらく黙っていた。リュシアンの言葉、その深刻な表情。そして、レオとの囁き合い。

 北方の話は、本当なのかもしれない。

「わかりました」

 セリアはレオから二・三歩距離を取り、優雅に頷いた。

「レオ様、リュシアン殿下。どうぞ」

「申し訳ございません、セリア嬢」

 レオは、深く頭を下げた。



 レオとリュシアンはバルコニーを出て、そこから一刻も早く離れるように、無意識に足早に廊下を歩き始めた。喧騒が遠ざかり、静寂が二人を包んでいく。

 そして、大広間からの音楽も届かない場所まで来た二人は、足を止めた。

「助かった」

 レオは、深く息を吐いた。

「本当に、助かった。非常に不味い状況だった」

「そうだろうな。間一髪って所か」

 リュシアンが、にやりと笑った。

「お前らがバルコニーへ歩いて行くのが見えて。お前の顔、蒼白だったぞ」

「笑うな」

 レオは、苦笑した。

「あのままお前が来てくれなかったら、どうなっていたか」

「セリアは、引き下がらないぞ。レオ、貞操の危機だな」

 リュシアンが、回廊の大柱に寄りかかりながら、腕を組んだ。

「ああ。そして、あれは明らかに何か企んでいる。既成事実を作りたいのだろう。噂を揺るぎない物とするために」

「間違いない。それに、あの誘惑の仕方」

 リュシアンが、眉をひそめた。

「淑女の皮を被った、蛇だ」

「同感だ」

 二人は再び、廊下を進んだ。月明かりが、窓から差し込んでいる。



 その頃、皇女宮では。ジュノと共に、アレンとカイが晩餐の席についていた。

 テーブルには、ジュノの為に作られた料理が、品よく並べられている。

 前菜は、燻製鴨のサラダ仕立て。薄切りの燻製鴨がルッコラの上に盛られ、バルサミコソースが艶やかに光っていた。

 スープは、カボチャのヴルーテ。濃厚な黄金色のスープに、生クリームが渦を描き、ローストしたカボチャの種が浮かんでいる。

 メインは、鱸のポワレ。皮がパリッと焼かれた鱸の切り身に、白ワインとバターのソースが添えられ、色とりどりの季節野菜のソテーが皿を彩っていた。

 そして、デザートには林檎のコンポート。紅茶で煮込まれた林檎がシナモンに絡み合い、芳醇な香りを放っていた。

「姫様、お口に合いますか」

 カイが、優しく尋ねた。

「はい。とても美味しいです」

 ジュノは、嬉しそうに微笑んだ。足元では、キャウが丸くなっている。

「姫様は、この林檎のコンポートがお好きだったな」

 アレンが、林檎のコンポートにナイフを入れる。

「そうなんですか? 確かに、とても美味しいですし、キラキラしてて見た目も楽しいです」

 ジュノが、目を輝かせた。

「ああ、そう言えば小さい頃、姫様は中庭の林檎の木に登って、一番高いところにある実を取ろうとしたんだ」

 アレンが、懐かしそうに笑った。

「俺も一緒に登って、姫様を支えてた。そしたら、陛下に見つかって、大目玉を食らった。俺はさらにその後、親父にめちゃくちゃ怒られた」

 アレンが肩を竦めつつ、声を上げて笑った。

「懐かしいなぁ」

「まあ! そんなことが」

 ジュノも吊られて、一緒に小さく笑う。

「やっぱり私、お転婆さんだったのかしら」

「お転婆というか」

 カイが微笑みを浮かべながらも、言葉を選ぼうとしていると

「お転婆でしたね!」

 アレンがズバリとそう言い、再び笑う。

「でも、姫様はいつも楽しそうでした」

 カイが、優しく微笑んだ。

「俺たちも、姫様と一緒にいると、楽しかった」

「そう言えば姫様、その林檎を取った後『これで美味しいコンポートを作ってもらうの』って、嬉しそうに言ってましたよね」

 カイが懐かしそうに言うと、アレンも同意して何度も首を縦に振る。

「林檎を籠いっぱいに詰めて、厨房に走って行って料理人に頼んでさ」

「ええ。そして、出来上がったコンポートを、私たちにも分けてくださった」

 アレンが、ジュノを見つめた。

「姫様は、いつも俺たちを気遣ってくださっていました。一緒に怒られながら『ごめんなさい、私のせいで』って、謝ってくれて」

「そうだったのですね」

 ジュノの目に、涙が薄く滲んだ。悲しいわけではない。懐かしそうに話す、アレンとカイの優しさや、ジュノを想ってくれている気持ちが強く伝わって、それが嬉しくて、温かくて。気づいたら、涙が溢れていたのだ。

「私、覚えていないのに」

「大丈夫です。姫様は、今も同じです。私たちを気遣ってくださる」

「だから、俺たちは姫様を守ります」

 アレンが、真剣な表情で言い切る。そこにはアレンの強い覚悟があった。

「必ず、お守りします」

「ありがとうございます。いつか私も、皆様に守られるばかりじゃなくて、守れるくらい強くなりますね」

 こっそり指で、流れそうになる涙を拭きながら、ジュノは二人へ決意を話す。

「姫様は十分にお強いですよ。そして、私たちを守ってくださっています」

「その通り! そう言えば、林檎で思い出したんだが、姫様は苺も好きで。こっそりみんなで、つまみ食いをしていたら――」

 三人の晩餐は和やかに進む。耐えることのない笑い声が、夜の時間に溶けていった。
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