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晩餐会の幽霊
晩餐会の幽霊 10 浮き立つ者達
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『侯爵が消えた瞬間、部屋に響いた悲鳴。果たして幽霊の正体とは?(皇都通信)』
『私は見た!参加者が語る、宴の一部始終(日々新聞)』
『天威集う侯爵邸、奇跡の夜に浮かび上がる幽霊の影(皇民日報)』
予想通りアルノー侯爵邸で開かれた晩餐会の出来事が、新聞各紙の一面を華々しく飾っていた。時折真実が織り交ぜられてはいたが、全体に虚実混交で面白おかしく書かれている記事ばかり。
通常通りであれば、晩餐会で披露された料理をメインに書かれ、集うゲストの顔ぶれやそこで交わされる会話などを中心に記事は描かれている。だが今回は、それは影を潜めていた。
その中にあっても、滅多に公に姿を見せないステラは勿論、シュベルアン・ルシアスの容姿やファッションまでも、挿絵付きで詳しく報じられていた。情報の重要性は理解しているつもりだが、噂がこうまで電光石火で広がると、どこか浮足立つ感覚を覚えざるを得ない。
ステラが自室で新聞を読み耽っていると、扉を叩く音がした。そのリズム・癖で、誰が来たのかわかる。
「どうぞ」
と返事をしたが、新聞の文字の上に留まった視線は、行間の隙間を探るように鋭く動いていた。
「ステラ、おはよう」
入ってきたのはシュベルアン。彼が入室すると共に、微かに清涼感溢れる爽やかな香りが、風と共に漂い、鼻孔をくすぐった。同時に「あら?」と思ったステラはようやく顔を上げ、声のする方へ目線を向けた。
「おはようシュベル。今日はアンじゃないのね?」
「あぁ。胸騒ぎがして」
「胸騒ぎ?」
問われたシュベルアンは小さく頷き、ステラの前の席に腰を下ろす。
「昨日の晩餐会。まだまだ何か起こりそうだと、俺の勘が言ってるんだ」
「そうね。実際、既にこんなに話題になっているもの。でもそれと、シュベルで居る事と何の関係があるの?」
「着替えるのが少々面倒でな。昨日の晩餐会に出たのは“俺”だったし」
そうねとステラが再び、新聞に目を落とす。シュベルアンは、口角を少しあげた。
「騒ぎになっているようだな」
「ええ。私は見た! 参加者が語る、宴の一部始終! ですって」
「へぇ。昨日の今日でもう、筒抜けなのもすごいな」
「ほら、マダム・ランヴィエやロクサーヌ夫人が居たでしょう? あの二人が絡むと広まるのは、矢よりも早いわよ?」
くすくすとステラが笑う。
「ごめんなさい。少々お行儀が悪かったわね」
まだ綻ぶ口元を整えるように、シュベルアンを見て微笑んだ。
「構わない、事実だしな。でもここだけの話な?」
シュベルアンも唇を微かに綻ばせ、その瞳に穏やかな光を宿していた。
☆
午後の日差しが柔らかくヴァーレンシュタイン邸を照らす中、ルシアスが再訪した。彼は執事長に案内され、応接室へと通される。ルシアスは背凭れに寄りかかり、片足を組んで、まるで部屋にあるものすべてを支配するかのように悠然とした姿勢で待っていた。
微かに薔薇の香りが揺れるその空間は、まだ姿が見えないステラを彷彿とさせた。
「待たされるのも悪くないな……」
ルシアスは呟きながら、暇つぶしに指を鳴らして軽くリズムを刻む。部屋の静けさを楽しむように、軽い微笑みを浮かべていた。運ばれてきた紅茶を口にして、待ち人の顔を浮かべると更に深く顔も綻んだ。
その静寂を破るように扉が開き、姿を見せたのはシュベルアンだった。彼はルシアスを一目見るなり、軽く眉を上げる。
「妙に楽そうじゃないか」
皮肉めいた声音に、ルシアスは片手を宙でひらりと振った。
「まぁな。スティと、ついでにシュベルにも会いに来てやったぞ」
飄々とした口調に、シュベルアンはほんの少し口元を緩めた。皇太子がただ会いに来たわけではないことなど、分かりきっている。
「……何か話があるんだろう?」
ルシアスが口を開こうとした瞬間、再び扉が軋んだ。現れたのは、ステラ。
ルシアスの目が一瞬だけ輝き、その表情がふわりと和らぐ。
「スティ、昨夜ぶりだね。相変わらず美しいよ。こんな眩しい日でも、スティの微笑みには敵わないなぁ」
軽やかに告げるルシアスに、ステラは苦笑しながら椅子に腰を下ろした。それを遮るように、シュベルアンが言葉を挟む。
「余計な話はいい。早く話せ」
「せっかちだなぁ」と軽い笑いを混ぜつつ、椅子に深く座り直した。
ステラも静かに微笑み、促した。
「ありがとう、ルシ。でも、冗談はいいの。本題を教えて?」
ルシアスは手元のカップに視線を落とし、言葉を選ぶように少し間を取った。
「実は第一騎士団に、アルノー侯爵の捜索願が出されたんだ」
空気が、わずかに張り詰める。
「ヴィクトル達が調査に向かっているが、いまのところ、進捗は不明だ」
ステラが眉をひそめた、その時。
「……なるほどな」
横から低い声が響いた。振り向けば、ライオネルが壁にもたれ、腕を組んでいた。
「ライお兄様っ。いつからそこに?」
「最初からだ。なぁ、シュベル」
急に振られたシュベルアンは「さぁな」と冷たく受け流す。
「シュベルお前さ、スティと俺への対応の差、ひどくない?」
そんなやり取りに、ステラは小さく笑った。ルシアスが喉を鳴らし、続ける。
「ともかくだ、スティ。俺たちで侯爵邸へ行ってみるか? 現場を見れば何か掴めるかもしれない」
その言葉に、ライオネルが即座に声を荒げた。
「スティに何かあったらどうするんだ! 行くなら、男二人だけで行け!」
「むさくるしい男二人で行っても、意味ないだろう?」
と、ルシアスが片手をひらひらさせて笑う。それに、ライオネルがキッと睨み返した。
「駄目だっ、駄目すぎる!」
「ライはうるさいなぁ」とルシアスが応じた時、シュベルアンが低い声でまとめにかかった。
「ステラに決めさせればいい。何かあれば、俺が対処する」
互いに譲らぬ言い合いをよそに、ステラは静かに立ち上がった。 一度、深く息を吸うと
「私、行くわ」
はっきりと告げた声に、部屋が静まる。
「消えたアルノー侯爵も、イレーネ夫人やクラリス嬢も……気になるもの」
男たちの言葉は止み、空気に静かな覚悟が満ちた。
「変な輩が潜んでいたらどうするんだ!」と、なおも焦るライオネル。 ステラは苦笑して応えた。
「心配しすぎよ、お兄様。大丈夫だから」
それでも心配顔の兄をよそに、シュベルアンが腕を組みながら呟く。
「止めても無駄だってわかってたことだろう?なら、ついていくさ」
そう言って、彼は一歩扉へ向かって歩き出した。
☆
「ルシ!シュベル!何があってもスティを守るんだぞ!」
ライオネルは、最後の最後まで納得しない様子だったが「……頼んだぞ……本当に」と呟いた。彼の中ではまだまだステラは、小さな”守るべき妹”かのように思えるのか、不承不承三人を見送った。
侯爵邸へ向かう馬車の中で、シュベルアンがふいに口を開いた。
「そういえば、午前中にステラに言おうと思っていたことがある」
「なあに?」
ステラは首を傾げながら問いかける。
「昨日のガラスの音、覚えてるか? あれ、普通の音じゃなかった」
ステラは、ふと記憶を辿る。
「……そう言えば、割れる音にしては、ずいぶん大きすぎた気がするわ」
シュベルアンが小さく頷く。
「そうだろう? それが俺の、胸騒ぎの正体かもしれない」
「俺は、侯爵の消え方に違和感を覚えた」
と、付け加えるように、ルシアスも切り出す。
「侯爵の席には、倒れたワイングラスと赤く染まったクロスが残されていた。暗闇の中で動揺して何かに触れたのだろう。それまでは誰もワインを零した様子などなかった。だが、あの足元が定まらない闇の中では、動くことすらほぼ不可能な状況だったはずだ。それにもかかわらず、灯りが戻った時には、侯爵の姿はどこにもなかった」
「あぁ……確かに……」
一晩経ち、改めて思考が落ち着いたのか「そういえば」と、三人はそれぞれ思い出したことや違和感を共有する。そんな時間を過ごしていると、あっと言う間にアルノー侯爵邸の門前にたどり着いた。
邸の前には衛兵が二人、厳重な面持ちで立っていたが、皇太子ルシアスの姿を認めるとすぐに門を開いた。
三人が中へ足を踏み入れた瞬間。そこに漂っていたのは、前日の華やかさや喧騒とは似ても似つかぬ、異様さに染められたひんやりとした静寂と残像。湿った冷気が肌を這ってくるぞわっとした感覚。広間に差し込む光さえ、鈍色に歪んで見えた。使用人たちの動きに、普段の冷静さはなく、ひそひそ声が不安と好奇心を帯びて耳を掠める。それが空間の高貴さを曇らせ、広間の品格を巣食い覆うように広がっていた。
床には靴跡の痕、わずかにずれた椅子、片付けられていない食器――昨晩の喧騒の残り香が広間全体に奇妙な形を刻んでいる。
扉の前で立ち止まったステラ・ルシアス・シュベルアンは、黙ったまま広間を見つめていた。昨夜の宴がまるで、春の夜が見せた一時の幻想だったのではないか? そんな疑念さえ胸を掠めた。
「……主の居なくなった館そのものだな。」
シュベルアンが沈んだ声で呟き、ルシアスが微かに笑みを浮かべる。
「たった一晩でこれとはな。本物の幽霊屋敷みたいじゃないか。」
「まるで何かに急かされるように、宴が急に止まった感じ」
ステラが広間の床に目を落としながら静かに言った。
しばしの沈黙の後、ステラは顔を上げて小首を傾げる。普段なら可愛らしい仕草が、この空気の中では浮いて見えた
「……そういえば、昨日は薔薇の香りがほんのりしてたのに……今日は感じないわ」
その一言にシュベルアンが反応する。
「薔薇なんてあったか?」
「あぁ、そういえば。薔薇の塩?の話をスティとしたよね」
と、ルシアスはステラを見て軽く微笑んだ。
薔薇の事はそれ以上深く考える者はなく、三人は再び沈黙に包まれながら、広間の奥へと歩みを進めた。
それにどんな意味があったのか、わからないままに。
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通常通りであれば、晩餐会で披露された料理をメインに書かれ、集うゲストの顔ぶれやそこで交わされる会話などを中心に記事は描かれている。だが今回は、それは影を潜めていた。
その中にあっても、滅多に公に姿を見せないステラは勿論、シュベルアン・ルシアスの容姿やファッションまでも、挿絵付きで詳しく報じられていた。情報の重要性は理解しているつもりだが、噂がこうまで電光石火で広がると、どこか浮足立つ感覚を覚えざるを得ない。
ステラが自室で新聞を読み耽っていると、扉を叩く音がした。そのリズム・癖で、誰が来たのかわかる。
「どうぞ」
と返事をしたが、新聞の文字の上に留まった視線は、行間の隙間を探るように鋭く動いていた。
「ステラ、おはよう」
入ってきたのはシュベルアン。彼が入室すると共に、微かに清涼感溢れる爽やかな香りが、風と共に漂い、鼻孔をくすぐった。同時に「あら?」と思ったステラはようやく顔を上げ、声のする方へ目線を向けた。
「おはようシュベル。今日はアンじゃないのね?」
「あぁ。胸騒ぎがして」
「胸騒ぎ?」
問われたシュベルアンは小さく頷き、ステラの前の席に腰を下ろす。
「昨日の晩餐会。まだまだ何か起こりそうだと、俺の勘が言ってるんだ」
「そうね。実際、既にこんなに話題になっているもの。でもそれと、シュベルで居る事と何の関係があるの?」
「着替えるのが少々面倒でな。昨日の晩餐会に出たのは“俺”だったし」
そうねとステラが再び、新聞に目を落とす。シュベルアンは、口角を少しあげた。
「騒ぎになっているようだな」
「ええ。私は見た! 参加者が語る、宴の一部始終! ですって」
「へぇ。昨日の今日でもう、筒抜けなのもすごいな」
「ほら、マダム・ランヴィエやロクサーヌ夫人が居たでしょう? あの二人が絡むと広まるのは、矢よりも早いわよ?」
くすくすとステラが笑う。
「ごめんなさい。少々お行儀が悪かったわね」
まだ綻ぶ口元を整えるように、シュベルアンを見て微笑んだ。
「構わない、事実だしな。でもここだけの話な?」
シュベルアンも唇を微かに綻ばせ、その瞳に穏やかな光を宿していた。
☆
午後の日差しが柔らかくヴァーレンシュタイン邸を照らす中、ルシアスが再訪した。彼は執事長に案内され、応接室へと通される。ルシアスは背凭れに寄りかかり、片足を組んで、まるで部屋にあるものすべてを支配するかのように悠然とした姿勢で待っていた。
微かに薔薇の香りが揺れるその空間は、まだ姿が見えないステラを彷彿とさせた。
「待たされるのも悪くないな……」
ルシアスは呟きながら、暇つぶしに指を鳴らして軽くリズムを刻む。部屋の静けさを楽しむように、軽い微笑みを浮かべていた。運ばれてきた紅茶を口にして、待ち人の顔を浮かべると更に深く顔も綻んだ。
その静寂を破るように扉が開き、姿を見せたのはシュベルアンだった。彼はルシアスを一目見るなり、軽く眉を上げる。
「妙に楽そうじゃないか」
皮肉めいた声音に、ルシアスは片手を宙でひらりと振った。
「まぁな。スティと、ついでにシュベルにも会いに来てやったぞ」
飄々とした口調に、シュベルアンはほんの少し口元を緩めた。皇太子がただ会いに来たわけではないことなど、分かりきっている。
「……何か話があるんだろう?」
ルシアスが口を開こうとした瞬間、再び扉が軋んだ。現れたのは、ステラ。
ルシアスの目が一瞬だけ輝き、その表情がふわりと和らぐ。
「スティ、昨夜ぶりだね。相変わらず美しいよ。こんな眩しい日でも、スティの微笑みには敵わないなぁ」
軽やかに告げるルシアスに、ステラは苦笑しながら椅子に腰を下ろした。それを遮るように、シュベルアンが言葉を挟む。
「余計な話はいい。早く話せ」
「せっかちだなぁ」と軽い笑いを混ぜつつ、椅子に深く座り直した。
ステラも静かに微笑み、促した。
「ありがとう、ルシ。でも、冗談はいいの。本題を教えて?」
ルシアスは手元のカップに視線を落とし、言葉を選ぶように少し間を取った。
「実は第一騎士団に、アルノー侯爵の捜索願が出されたんだ」
空気が、わずかに張り詰める。
「ヴィクトル達が調査に向かっているが、いまのところ、進捗は不明だ」
ステラが眉をひそめた、その時。
「……なるほどな」
横から低い声が響いた。振り向けば、ライオネルが壁にもたれ、腕を組んでいた。
「ライお兄様っ。いつからそこに?」
「最初からだ。なぁ、シュベル」
急に振られたシュベルアンは「さぁな」と冷たく受け流す。
「シュベルお前さ、スティと俺への対応の差、ひどくない?」
そんなやり取りに、ステラは小さく笑った。ルシアスが喉を鳴らし、続ける。
「ともかくだ、スティ。俺たちで侯爵邸へ行ってみるか? 現場を見れば何か掴めるかもしれない」
その言葉に、ライオネルが即座に声を荒げた。
「スティに何かあったらどうするんだ! 行くなら、男二人だけで行け!」
「むさくるしい男二人で行っても、意味ないだろう?」
と、ルシアスが片手をひらひらさせて笑う。それに、ライオネルがキッと睨み返した。
「駄目だっ、駄目すぎる!」
「ライはうるさいなぁ」とルシアスが応じた時、シュベルアンが低い声でまとめにかかった。
「ステラに決めさせればいい。何かあれば、俺が対処する」
互いに譲らぬ言い合いをよそに、ステラは静かに立ち上がった。 一度、深く息を吸うと
「私、行くわ」
はっきりと告げた声に、部屋が静まる。
「消えたアルノー侯爵も、イレーネ夫人やクラリス嬢も……気になるもの」
男たちの言葉は止み、空気に静かな覚悟が満ちた。
「変な輩が潜んでいたらどうするんだ!」と、なおも焦るライオネル。 ステラは苦笑して応えた。
「心配しすぎよ、お兄様。大丈夫だから」
それでも心配顔の兄をよそに、シュベルアンが腕を組みながら呟く。
「止めても無駄だってわかってたことだろう?なら、ついていくさ」
そう言って、彼は一歩扉へ向かって歩き出した。
☆
「ルシ!シュベル!何があってもスティを守るんだぞ!」
ライオネルは、最後の最後まで納得しない様子だったが「……頼んだぞ……本当に」と呟いた。彼の中ではまだまだステラは、小さな”守るべき妹”かのように思えるのか、不承不承三人を見送った。
侯爵邸へ向かう馬車の中で、シュベルアンがふいに口を開いた。
「そういえば、午前中にステラに言おうと思っていたことがある」
「なあに?」
ステラは首を傾げながら問いかける。
「昨日のガラスの音、覚えてるか? あれ、普通の音じゃなかった」
ステラは、ふと記憶を辿る。
「……そう言えば、割れる音にしては、ずいぶん大きすぎた気がするわ」
シュベルアンが小さく頷く。
「そうだろう? それが俺の、胸騒ぎの正体かもしれない」
「俺は、侯爵の消え方に違和感を覚えた」
と、付け加えるように、ルシアスも切り出す。
「侯爵の席には、倒れたワイングラスと赤く染まったクロスが残されていた。暗闇の中で動揺して何かに触れたのだろう。それまでは誰もワインを零した様子などなかった。だが、あの足元が定まらない闇の中では、動くことすらほぼ不可能な状況だったはずだ。それにもかかわらず、灯りが戻った時には、侯爵の姿はどこにもなかった」
「あぁ……確かに……」
一晩経ち、改めて思考が落ち着いたのか「そういえば」と、三人はそれぞれ思い出したことや違和感を共有する。そんな時間を過ごしていると、あっと言う間にアルノー侯爵邸の門前にたどり着いた。
邸の前には衛兵が二人、厳重な面持ちで立っていたが、皇太子ルシアスの姿を認めるとすぐに門を開いた。
三人が中へ足を踏み入れた瞬間。そこに漂っていたのは、前日の華やかさや喧騒とは似ても似つかぬ、異様さに染められたひんやりとした静寂と残像。湿った冷気が肌を這ってくるぞわっとした感覚。広間に差し込む光さえ、鈍色に歪んで見えた。使用人たちの動きに、普段の冷静さはなく、ひそひそ声が不安と好奇心を帯びて耳を掠める。それが空間の高貴さを曇らせ、広間の品格を巣食い覆うように広がっていた。
床には靴跡の痕、わずかにずれた椅子、片付けられていない食器――昨晩の喧騒の残り香が広間全体に奇妙な形を刻んでいる。
扉の前で立ち止まったステラ・ルシアス・シュベルアンは、黙ったまま広間を見つめていた。昨夜の宴がまるで、春の夜が見せた一時の幻想だったのではないか? そんな疑念さえ胸を掠めた。
「……主の居なくなった館そのものだな。」
シュベルアンが沈んだ声で呟き、ルシアスが微かに笑みを浮かべる。
「たった一晩でこれとはな。本物の幽霊屋敷みたいじゃないか。」
「まるで何かに急かされるように、宴が急に止まった感じ」
ステラが広間の床に目を落としながら静かに言った。
しばしの沈黙の後、ステラは顔を上げて小首を傾げる。普段なら可愛らしい仕草が、この空気の中では浮いて見えた
「……そういえば、昨日は薔薇の香りがほんのりしてたのに……今日は感じないわ」
その一言にシュベルアンが反応する。
「薔薇なんてあったか?」
「あぁ、そういえば。薔薇の塩?の話をスティとしたよね」
と、ルシアスはステラを見て軽く微笑んだ。
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