神雧 - KAMIATSUME -

神代 一文

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第14章 風の残像

第425話 露野の背

後ろを振り返ったのは、こよいだった。

 列車れっしゃの最後尾、小さな丸窓から、走り去る景色が見えた。露野つゆのの平原が遠ざかっていく。実際の露野へ戻ったのではない。経蔵防壁の線路が、根に記録された露野の座標層を窓外へ映している。久遠くおんがそう告げても、白くなる草と古井戸の像には現地と同じ温度があった。

 けれど、色がおかしかった。

 露野つゆのを最初に訪れたとき、草は深い緑で、露つゆは朝日を受けて金色に光っていた。地面は柔らかく、踏むたびに水の匂いがした。

 今、窓の向こうに見える露野つゆのは、白かった。

 「凍ってる」

 こよいが呟つぶやいた。

 久遠くおんが窓に寄った。義眼ぎがんの蒼光そうこうが丸窓を通過し、遠くの地表を走った。

 「霜しもじゃない。漂白ひょうはくだ。露つゆが凍っているんじゃなく、露つゆそのものが漂白ひょうはくされている。水分が白化している」

 緑だった草が、灰色に変わっていた。灰色の上に白い霜しものようなものが載のっている。けれど久遠くおんの言うとおり、あれは霜しもではなかった。霜しもには結晶がある。あの白には、構造が無い。のっぺりと、平坦へいたんに、草の表面を塗り潰すように広がっている。

 あさひが後ろから覗き込んだ。

 「速えな」

 「速い。窓に露野が映ってから、まだ半刻も経っていない。それでもう、あそこまで進んでいる」

 久遠くおんは義眼ぎがんの蒼光そうこうを細く絞り、遠ざかる白い地表を走査そうさした。光が届く範囲はんいで、漂白ひょうはくの進行速度を計測けいそくしているのだろう。やがて目録もくろくを開き、数値を確認した。

 「露野つゆのの地表温度が下がっている。けれど、これは自然な冷却れいきゃくじゃない。漂白ひょうはくが進行するとき、対象から色と名前と温度が同時に抜ける。冷たく見えるのは結果であって、原因じゃない。名前が消えることで、その場所の熱が失われる」

 こよいは窓に額ひたいをつけた。

 硝子ガラスが冷たい。向こう側の冷気が、硝子ガラスを通じてこちらに伝わってくる。

 露野つゆのの古井戸いどが、まだあの場所にあるはずだった。名前たちが自力で掘った温かい泉いずみも、根が繋つないだ地下水脈ちかすいみゃくも。金色の水を湛たたえたあの小さな穴が、今もあそこにあるはずだった。

 「井戸いどは」

 こよいの声が震えた。

 「あの泉いずみは。根は。あの子たちが作った場所は、大丈夫なの」

 久遠くおんは答えなかった。

 義眼ぎがんを細め、遠くの地表をもう一度走査そうさした。蒼光そうこうが長く伸び、白い平原の中に何かを探している。

 「根は地下だ」

 しばらくして、久遠くおんが言った。

 「地表の漂白ひょうはくが地下まで届くには、時間がかかる。根脈こんみゃくは地下深くを走っている。今すぐには消えない」

 「今すぐは」

 「そうだ。今すぐは」

 その言葉の意味を、こよいは理解した。今すぐではないが、いずれは届く。漂白ひょうはくは止まらない。地表を覆おおい、やがて地下に浸透しんとうし、根を辿たどり、泉いずみに至る。

 あさひが窓から離れた。壁に背をつけ、腕を組んだ。

 「振り返るな」

 短く言った。

 「振り返ったら足が止まる。足が止まったら、追いつかれる。前だけ見ろ」

 こよいは窓から顔を上げなかった。

 「見ないと忘れる」

 小さな声で言った。

 「あの場所がどんなだったか、覚えておかないと。温かかったこと。金色の水が湧いていたこと。名前たちが自分で場所を作ったこと。忘れたら、漂白ひょうはくと同じだ」

 あさひは何も言わなかった。

 久遠くおんが目録もくろくを閉じた。

 「覚えておけばいい。ただし、足は止めるな」

 列車れっしゃが加速した。

 露野つゆのがさらに遠くなる。白い平原が広がり、かつて緑だった丘が白い丘に変わっていく。空との境目が曖昧あいまいになっていた。地面も空も白く、どこまでが大地でどこからが空なのか分からなくなっている。

 巾着きんちゃくが震えた。

 中の名前たちが、露野つゆのの気配を感じ取っている。あの泉いずみで生まれ直した仲間がいる。あの根を通って辿たどり着いた名前がいる。その故郷こきょうが、白に塗り潰されていく。

 こよいは巾着きんちゃくを両手で包んだ。掌てのひらに伝わる脈動みゃくどうが、いつもより速い。

 「大丈夫」

 声が震えていた。自分に言い聞かせているのだと分かっていた。それでも、声に出さなければ名前たちに届かない。
 名前たちに向かって、言った。

 「根は深い。あの子たちが張った根は、簡単には消えない。ぼくたちが前に進めば、漂白ひょうはくより先に名前を集められる。追いつかれる前に、もっとたくさん見つけるから」

 列車れっしゃが丘を越えた。

 露野つゆのが見えなくなった。丸窓の向こうに、ただ白い霧きりが流れていた。

 おたまは丸窓から離れず、白くなる平原へ小鈴を鳴らした。窓の像は答えない。それでも根の向こう側で、露野の古井戸が一度だけ金色に瞬いた。地下の網はまだ生きている。

 こよいは窓から離れ、座席に座った。膝ひざの上に巾着きんちゃくを置き、目を閉じた。瞼まぶたの裏に、金色の水面が揺れていた。あの温かさを、指先が覚えている。

 列車れっしゃは、漂白が北へ押し寄せる源を断つため、あえて南の前線へ走り続けた。背中の方角で、露野つゆのの座標層が静かに白んでいった。

 振り返って覚えた景色を、今度は前へ進む理由に変えながら。
 小鈴の余韻も、南へ向かう車輪に重なった。
 露野つゆのの背に置いてきた名前たちが、遠ざかっていく。小鈴の余韻が、南へ向かう車輪の律動りつどうに重なり、やがて溶けて消えた。それでも、拾えた分は確かに胸にある。失った分まで覚えていよう、とこよいは車窓の闇へ、静かに別れを告げた。忘れないことが、せめてもの手向たむけだった。
 列車は南へ、拾った名前と、拾えなかった名前の記憶を乗せて走り続けた。
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