神雧 - KAMIATSUME -

神代 一文

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第14章 風の残像

第426話 次の潮音

最初に聞こえたのは、遠い呼吸こきゅうだった。

 列車れっしゃの揺れの合間に、低い音おとが混じった。規則的きそくてきで、けれど機械的ではない。吸って、吐いて、また吸う。その間隔かんかくがゆっくりと変わる。生きている音おとだった。

 「波だ」

 あさひが顔を上げた。窓の外を見ている。こよいも耳を澄すませた。確かに聞こえる。水が岩に当たり、引き、また押し寄せる音おと。

 波の音おとだった。

 けれど、こよいが知っている波の音おととは違った。普通の波は、ざあっと押し寄せて、さらさらと引く。これは違う。押し寄せるときに声がある。引くときに、何かを残していく気配がある。

 通風口つうふうこうから、塩の匂いが入ってきた。

 それまでの空気とはまるで違った。乾いた砂すなの匂い、枯れた草の匂い、霧きりの湿り気。南部を走っている間ずっと纏まとわりついていたそれらが、一斉に薄くなった。代わりに、潮しおの匂いが入り込んでくる。重たい、しょっぱい、けれどどこか懐かしい匂い。

 久遠くおんが目録もくろくを開いた。頁ページをめくる指が、少し速い。

 「海域かいいきに入る。目録もくろくの区分が変わった。南部内陸圏から、沿海遷移帯えんかいせんいたいに移行している」

 窓の外の景色が変わり始めていた。砂すなの平原が途切れ、地面に黒い岩が露出し始めた。岩は角張っていて、表面が潮しおで磨みがかれたように滑らかだった。岩と岩の間に水たまりがあり、列車れっしゃが通過するたびに水面が揺れた。

 こよいが窓に張りついた。岩の色が面白かった。黒い岩の表面に、白い線が走っている。潮しおの跡だった。波が何百年もかけて岩を削り、塩を残し、その繰り返しが白い縞模様しまもようを作っていた。

 あさひが窓を開けた。

 塩風が車内に吹き込んだ。あさひは風を顔に受け、口を動かした。空気を噛かむように。

 「味が違う。今までの空気には味が無かった。これは、塩っぱい」

 久遠くおんが目録もくろくの頁ページを指で押さえた。

 「沿海遷移帯えんかいせんいたいの特徴だ。内陸の漂白ひょうはくは名前を消すが、海に近い領域りょういきでは漂白ひょうはくの進行が遅い。潮しおが名前を運ぶからだ。波が打ち寄せるたびに、海底に沈んだ名前の欠片かけらが岸に打ち上げられる。漂白ひょうはくが消す速度と、潮しおが運ぶ速度が拮抗きっこうしている」

 こよいは耳を傾けた。

 波の音おとが近くなっていた。押し寄せる音おとの中に、かすかに高い音おとが混じっている。金属とも石ともつかない、澄んだ音おと。水の中で何かが転がるような音おとだった。

 「聞こえる。波の中に、何か混じってる」

 「名前の欠片かけらだ。海底に沈んだ名前が、波に洗われて岸に打ち上げられるとき、欠片かけら同士がぶつかって音おとを出す。貝殻かいがらが鳴るのと同じ原理だ」

 こよいは目を閉じた。

 波の音おとを聴いた。寄せて、返して、寄せて。その呼吸こきゅうのような律動りつどうの中に、小さな名前たちの声が混じっている。ぶつかり合い、転がり、また波に攫さらわれ、また打ち上げられる。

 巾着きんちゃくが穏やかに脈打った。布が温かい。海から聞こえる名前たちの気配に、中の名前たちが応えている。

 「この先に、町はあるの」

 久遠くおんが目録もくろくをめくった。

 「海図かいずの町、という記録きろくがある。海に面した集落しゅうらくで、名前の漁りょうを行っていたらしい。波が運んでくる名前の欠片かけらを拾い集めて、繋つなぎ合わせる。内陸の井戸いどや泉いずみとは違う方法で、名前を守ってきた土地だ」

 あさひが窓から身を引いた。潮風で頬ほおが赤くなっている。

 「漁りょうか。剣で斬きるもんじゃねえな」

 「斬きるものでも、読むものでもない。拾うものだ」

 久遠くおんが目録もくろくを閉じた。表紙に潮しおの飛沫しぶきが細かい粒となって付き、革の表面が僅かに湿っていた。

 「海の名前は、待つことで集まる。波が運んでくるのを待ち、岸で拾う。俺たちがこれまでやってきた方法とは、根本的に違う」

 列車れっしゃが岬みさきを回った。

 窓の外に、海が見えた。灰色の水平線すいへいせんが、霧きりの向こうに長く伸びていた。空と海の境目が滲にじんでいて、どこまでが水でどこからが空なのか判然としない。けれど波は確かにあった。白い波頭が立ち、岩に砕け、飛沫しぶきが霧きりに混じっていく。

 波の音おとが車内を満たした。呼吸こきゅうのような律動りつどうが、列車れっしゃの揺れに重なった。車輪の刻むリズムと、波が岸を打つリズムが交差し、そのずれが奇妙な和音を作っていた。

 こよいは巾着きんちゃくを胸の前に掲げた。海に向かって。波が運んでくる名前たちに向かって。

 「聞こえるよ」

 小さく言った。

 波が返事のように、一つ高い音おとを立てた。岸のどこかで、名前の欠片かけらが転がった音おとだった。潮風がこよいの髪を攫さらい、塩の粒が唇くちびるに触れた。

 おたまが窓辺へ跳び乗り、波が高く砕けるたびに耳を動かした。小鈴と同じ高さの音が沖から返ると、巾着の二十七の脈も穏やかに揃う。欠片同士がぶつかる音を、猫が先に聞き分けていた。

 久遠くおんは沿海遷移帯を地名ではなく、潮が名前を岸へ返す範囲を示す区分として目録に注記した。「海図の町」も正式名ではない。名を失った漁師たちが自分たちの役目を呼ぶために残した通称だった。
 地図にない呼び名でも、その働きと記憶は今も海辺に残っている。
 地図から消された呼び名でも、海辺の岩や潮の匂いが、それを覚えている。土地そのものが記憶の器うつわなのだと、こよいはこの旅で、何度も教えられていた。
 土地が覚えているなら、いつか読み返せる。こよいは海辺の岩に手を触れ、そこに刻まれた見えない記憶を、指先で確かめた。
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