神雧 - KAMIATSUME -

神代 一文

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第15章 潮の外縁

第441話 町の静けさ

町は静かだった。
 静かすぎて、足音あしおとが悪目立ちする。石畳いしだたみを踏むたびに、硬い反響はんきょうが通りの両側の壁に跳ね返り、増幅されて戻ってくる。自分たちの足音あしおとだけが、この町に存在する唯一の音おとだった。
 家はある。窓もある。灯ひも点ついている。
 なのに、人の気配がない。犬の鳴き声も、鍋の音おとも、咳払せきばらいもない。窓の向こうに揺れる灯ひは、誰かが灯ともしたのではなく、消す者がいなくなっただけに見えた。灯心とうしんが燃え尽きるまで、ただ灯ともり続けている。
 生活せいかつの音おとだけが、きれいに取り除かれている。

 こよいは息を吸った。
 空気が薄い。肺に入る量はいつもと同じはずなのに、何かが足りない。音おとが吸われる空気だ。声を出せば、その声も吸い取られてしまいそうな、そういう重さが鼻腔びこうの奥に広がっていた。
 壁の漆喰しっくいは灰色に褪あせ、ところどころ剥はがれた跡が黒い下地を見せている。軒下のきしたに干された布が、風もないのに微かに揺れていた。揺れているのに音おとがしない。それが、この町の異様さを一番よく伝えていた。

 久遠くおんが声を低くして言った。

 「……観測かんそくが、町を黙らせた」

 「黙らせる?」

 「声は記録きろくになる。記録きろくは追跡できる。だから、声を奪う」

 久遠くおんの義眼ぎがんが町並みを走査そうさしている。蒼光そうこうが壁の表面をなぞり、窓枠まどわくの木目もくめを照らし、石畳いしだたみの継ぎ目を追う。読み取れるものを探しているのだろう。けれど蒼い光は何にも引っかからず、滑るように町の奥へ消えていった。声を奪われた町は、記録きろくも拒んでいる。

 あさひが鼻を鳴らす。

 「卑怯ひきょうだな」

 短い言葉に、怒りが滲にじんでいた。あさひの手が大剣の柄つかを握り、離し、また握る。斬る相手がいないことへの苛立ちが、その反復に出ていた。声を奪うという行為は、あさひにとって最も軽蔑けいべつすべきものだった。戦う前に、相手から声を取り上げる。名乗りも、叫びも、救いを求める声すらも。

 こよいは巾着きんちゃくを抱え、灯ひの下を歩いた。
 神々の温もりが、静けさの中でやけに大きく感じる。胸元にある小さな熱源が、この町で唯一の生きた温度だった。巾着きんちゃくの中の名前たちは声を出さない。けれど脈動みゃくどうは続いている。この町の静けさに飲み込まれることなく、布の中で確かに拍動はくどうしている。

 町の角を曲がると、井戸いどがあった。
 石を積み上げた古い井戸いど。縁ふちの石が黒ずみ、苔こけの痕跡こんせきだけが残っている。苔こけ自体はもう枯れていた。水気を失って、石の表面に灰色の染しみを残している。
 井戸いどの上に、札ふだが掛かっている。
 木の札ふだ。紐ひもで縁ふちに吊つるされている。風がないのに、微かに揺れていた。
 札ふだには文字がない。表面が削られている。文字があった場所だけが、周囲よりわずかに凹へこんでいた。文字を消した跡だった。でも、札ふだの裏側が、微かに震えている。

 こよいは札ふだに触れ、耳を近づけた。
 音おとはない。代わりに、胸の奥がきゅっと鳴った。指先に木の乾いた感触が伝わり、その奥に、もっと古い温度がある。名前の残熱ざんねつではない。恐怖の温度だ。誰かがこの札ふだに、声を閉じ込めたのかもしれない。声を出せなくなった誰かが、最後の手段として札ふだに触れ、自分の存在の痕跡こんせきを残そうとした。

 久遠くおんが言う。

 「静けさは、死じゃない。恐怖だ。恐怖が、声の代わりに残ってる」

 義眼ぎがんの蒼光そうこうが札ふだを照らした。金色の文字は浮かばない。名前はない。けれど蒼い光が札ふだの木目もくめに沿って震えている。恐怖が刻まれた木の繊維せんいが、光を乱反射らんはんしゃしているのだ。

 あさひが剣の柄つかを叩く。硬い音が静けさを裂いた。その音おとは一瞬だけ通りに響き、すぐに吸い込まれて消えた。

 「恐怖なら、斬れる」

 「斬るな。ここは聞け」

 久遠くおんの言葉に、あさひが黙る。剣の柄つかから手を離しはしない。けれど力を抜いた。久遠くおんの判断に従うときの仕草しぐさだった。聞け、と言われたから聞く。それがあさひの信頼の示し方だった。

 こよいは頷うなずいた。
 静けさを壊さない。壊さずに、通る。
 町の静けさは、敵の技術だった。でも、静けさの中でも歩ける、という自分たちの証明でもあった。声を奪われても、足は動く。脈は打つ。巾着きんちゃくの中の名前たちが黙っていても、温もりだけは伝えてくる。それで十分だった。

 町の静けさの中で、ひとつだけ音おとがした。
 木札きふだが、かすかに擦すれる音おと。紐ひもが軸にこすれる、乾いた小さな音おと。
 こよいが振り返ると、誰もいない。でも、札ふだだけが揺れている。さっきよりも大きく。風ではない。何かが、内側から札ふだを押している。

 「……居る」

 こよいが言うと、久遠くおんが頷うなずいた。

 「居る。だから黙ってる。居るのに黙ってるのが、この町の怖さだ」

 声を奪われて、それでもここに居続けている。逃げなかったのか、逃げられなかったのか。どちらにしても、この町の住人は——かつて住人だったものは——まだ消えていない。声がなくても、存在している。札ふだを揺らすだけの力が、まだ残っている。

 あさひは剣に手を置き、音おとの方向へ身体を向けた。
 抜かない。布に包んだまま構える。背筋を伸ばし、呼吸を浅くして、気配だけで周囲を探っている。見えない相手に対する、あさひなりの礼儀だった。

 三人は足音あしおとを殺しながら、札ふだの揺れる方へ歩いた。
 静けさが敵なら、静けさごと引き受けて進むしかない。声を出せないなら、足で語る。足音あしおとを消しながらも、一歩ずつ確かに石畳いしだたみを踏む。ここを通ったという事実を、石に刻むように。
 こよいの巾着きんちゃくが、かすかに温かくなった。
 名前たちも、この町の恐怖を感じ取っている。それでも脈打つことをやめない。

 その小さな鼓動こどうが、こよいの足を前に出した。
 町の奥から、もう一枚の札ふだが揺れる音おとが聞こえた。

 おたまは井戸の木札の下で座り、小鈴を鳴らさず尾だけを石へ打った。奥の札が同じ間で揺れる。声を奪われた住人たちは、猫の無音の合図なら観測の記録にされず返せるらしい。

 町名を訊くことはしなかった。久遠くおんは札の揺れと井戸の位置を余白へ記す。名を声にできる日まで、外海区画の「声なき井戸町」という仮称だけを三人の記憶に置いた。
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