神雧 - KAMIATSUME -

神代 一文

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第16章 余白の終点

第485話 縁への入口

縁ふちへの入口は、目立つものではなかった。

 道の先が、少しだけ薄い。それだけだ。石畳いしだたみの色が一段だけ淡くなり、空気の透明度がわずかに変わっている。注意していなければ見過ごす程度の違いだった。

 こよいは歩幅を小さくし、足裏で確かめた。砂すなでも石でもない感触かんしょく。踏んだ瞬間に、力が働く。

 押し返される。靴底を通じて、地面から垂直に力が上がってくる。体重を拒絶きょぜつする力ではない。確認する力。ここに足を置く覚悟かくごがあるかを問うような、静かな圧力だった。

 「……戻る」

 反射的に足を引いた。膝ひざが小さく震えた。

 「……ここだな」

 久遠くおんが確認するように言った。
 義眼ぎがんの蒼光そうこうが、地面の薄さを縫い目のように照らす。蒼い光が地面の表面を走ると、薄い部分だけ光が透過した。地面の向こう側に、別の色が見えた。

 縁ふち。世界が世界を縫い止めている場所。

 「ここを越えると、理ことわりの内と外の区別が曖昧あいまいになる」

 あさひが剣の柄つかを叩く。金属の乾いた音おとが、縁ふちの手前で止まった。音おとが縁ふちの向こうに渡らない。吸い込まれたのではなく、到達を拒まれたように、手前で消えた。

 「曖昧あいまいな方が、逃げやすい」

 「……逃げやすい代わりに、戻りにくい」

 久遠くおんが即座に返した。

 こよいは巾着きんちゃくに触れた。神々が、静かに震えている。熱でも冷えでもない。

 境目そのものの震えだった。名前たちが、内と外の狭間はざまで揺らいでいる。

 入口には標しるべがあった。
 木札きふだでも石碑せきひでもない。紙だ。
 裂けかけた紙が、空中に留まっている。風に揺れることもなく、重力に従うこともなく、ただそこにある。紙の端が焦こげたように黒ずみ、文字の半分が消えていた。

 『縁ふちに入る者は、名を軽くしろ』

 「名を……軽く」

 こよいが呟つぶやく。

 久遠くおんが鼻で笑う。

 「全部捨てろ、じゃない。重い名を握ったままだと、縁ふちが引っ張る」

 「引っ張られたところに楔くさびが刺さる」

 あさひが一歩、縁ふちへ足を置いた。

 薄い地面が、たわむ。たわんだのに、落ちない。あさひの体重を受けて地面が沈み、一拍遅れて弾力が返ってきた。

 「落ちないな」

 「入口は優しい」

 「怖いのは、入ってからだ」

 久遠くおんが言う。義眼ぎがんの蒼光そうこうが不安定に明滅していた。縁ふちの近くでは、義眼ぎがんの精度せいども揺らぐのだ。

 こよいは深く息を吸い、短く言った。

 「……ぼくは、ぼくのまま行く」

 「でも、重いところは、手放す」

 手放す。後悔こうかい。言えなかった言葉。自分を責める癖くせ。
 全部ではない。いま邪魔な分だけ。胸の奥から一つずつ取り出し、息に乗せて吐き出す。吐いた息が、縁ふちの手前で白く消えた。

 こよいは、あさひの手を取った。あさひの掌てのひらは乾いていて、硬い。剣を握り続けてきた手だ。
 久遠くおんが、その背中に続く。

 縁ふちへの入口を越えると、風の音おとが一段だけ薄くなった。

 世界が、紙の端をめくるみたいに、静かに裏返った。

 瞬間、足元の色が変わった。砂すなは砂すなのままなのに、粒の光り方が違う。
 月明かりではない光が、粒の内側から滲にじんでいる。砂粒の一つ一つが、微小な灯火ともしびを宿しているように見えた。

 こよいは反射的に、名を呼びそうになった。
 自分の名。神々の名。助けたい誰かの名。
 喉のどの奥が熱くなり、言葉がせり上がる。

 「……止めろ」

 久遠くおんが低く言った。

 「ここは縁ふちだ。呼んだ瞬間に『呼んだ事実』だけ固定こていされる。意味は残らない」

 「残るのは、楔くさびだ」

 こよいは唇くちびるを噛かみ、息だけを吐いた。

 あさひが、手の力を少しだけ強めた。

 「声が出そうなら、握れ。握って、戻せ」

 「戻す先は、俺たちだ」

 縁ふちの内側では、遠くの音おとが遅れて届く。
 鳥の鳴き声が、二回鳴ったみたいに聞こえる。波の音おとが、山の風みたいに変わる。

 世界の端で、世界が別の顔をする。

 久遠くおんが目録もくろくを開かずに言った。

 「……入口は優しい。だからこそ、次からは容赦がない」

 「ここで一度、歩幅を揃そろえろ」

 三人は黙って頷うなずき、歩幅を揃そろえた。

 縁ふちの薄い地面が、わずかに沈み、また戻る。呼吸こきゅうと同じだ。

 それなら、進める。

 こよいは巾着きんちゃくを胸に押し当てた。
 神々の温もりが、布越しに心臓へ届く。

 重さはある。けれど、引っ張られてはいない。巾着きんちゃくの温もりが、心臓の鼓動こどうと静かに重なっている。
 手放すべきものは、入口で置いてきた。

 足元の光が、三人の歩幅に合わせて瞬またたいた。
 一歩ごとに、砂粒が短い光を放ち、すぐに消える。薄い地面が三人の重さを受けて微かにたわみ、呼吸こきゅうのように戻るのが足裏に伝わった。

足跡あしあとの代わりに、光の残像ざんぞうが縁ふちの地面に染み込んでいった。三人が進むたびに、背後の光は淡く揺れながら静かに沈み、やがて地面の色に溶けた。

握った手の間に汗が滲にじんだ。あさひの指が動くたび、こよいは自分の指も同じだけ握り返した。声にすれば意味を失う場所でも、この力加減なら届く。進む、止まる、大丈夫。その三つを掌てのひらだけで確かめながら、こよいは次の一歩を置いた。沈んだ地面が戻るまで待つと、後ろから久遠くおんの靴音くつおとも一つ重なった。

おたまだけは「名を軽くしろ」という標を読まないまま、縁へ入った。猫は後悔も役目も手放さず、それらを重荷として握りしめてもいない。小鈴の一拍が遅れて届くたび、三人は自分の名前を捨てるのではなく、名前に貼りついた他人の命令だけを降ろせばよいのだと確かめた。

 別々の歩幅のまま、四つの光が縁ふちの奥へ続く。一つに溶け合わないことが、かえって互いを照らしていた。誰かの命令に名前を明け渡さず、自分の名前で並んで歩く。それが、長い旅の果てに三人と一匹の選んだ、たった一つの答えだった。
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