神雧 - KAMIATSUME -

神代 一文

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第16章 余白の終点

第486話 地図の外

目録もくろくの座標ざひょうが、途切れた。

 久遠くおんが頁ページを繰る手が止まる。義眼ぎがんの蒼光そうこうが紙面を舐なめるように走ったが、次の数列を拾えないまま、光は宙で揺れた。

 「……ここから先の座標ざひょうがない」

 久遠くおんの声は低く、平坦へいたんだった。けれど指先が頁ページの端を押さえる力だけが、わずかに強い。

 「ない、って……地図ちずが間違ってるの?」

 こよいが巾着きんちゃくを胸に押さえながら訊いた。

 「間違いじゃない。書かれていない。最初から、この先は記録きろくされなかった」

 久遠くおんは義眼ぎがんの焦点を前方へ向けた。蒼光そうこうが空間を透過していく。だが光は何も捉えず、ただ薄い霧きりの粒に散って消えた。

 義眼ぎがんが、初めて何も映さなかった。

 こよいは久遠くおんの横顔を見た。いつもなら蒼い光の奥に数列や図形が浮かぶのに、今は暗い硝子ガラスのように沈んでいる。

 「久遠くおん、目……」

 「分かってる。映らない。ここは観測者かんそくしゃすら測定そくていを放棄ほうきした場所だ。座標ざひょうを振る以前に、対象として認識にんしきされていない」

 あさひが大剣の柄つかに手を置いたまま、前方を睨にらんだ。

 「見えないのか。全部か」

 「全部だ。距離も高度も温度も、何ひとつ値が出ない」

 風が止んでいた。

 正確には、風が存在するかどうかすら判別はんべつできなかった。頬ほおに触れるものがあるが、それが空気の流れなのか、気温の境目なのか、こよいには分からない。

 足元の地面は硬い。硬いのに、色がない。白でも黒でもなく、「色」という属性ぞくせいがそもそも与えられていないような表面だった。

 「地図ちずの外って、こういうことだったんだ」

 こよいが呟つぶやく。

 地図ちずに描かれていない場所。線が引かれなかったのではなく、線を引く対象として認められなかった空間。

 久遠くおんは目録もくろくを閉じようとして、やめた。閉じれば最後の座標ざひょうを見失う。開いたまま脇に抱え、義眼ぎがんではなく裸眼らがんで前方を見た。

 「歩くしかない。数値が使えない以上、身体で測る」

 「身体で?」

 あさひが首を傾かしげる。

 「足裏の感触かんしょく、呼吸こきゅうの間隔かんかく、神々の脈。計器けいきが死んだなら、俺たちの身体が計器になるだけだ」

 こよいは足裏に意識を集めた。硬い。冷たくはない。湿ってもいない。ただ、硬い。

 一歩を踏むと、踏み返しがあった。地面が足を押し戻す感覚かんしょく。それだけが「ここに何かがある」という証拠しょうこだった。

 三人は横に並んだ。

 久遠くおんが真ん中、こよいが左、あさひが右。いつもは久遠くおんが前を取るのに、前後の区別がつかないこの場所では、横一列が最も安全な形だった。

 巾着きんちゃくの中で神々が脈打つ。微かだが、一定の間隔かんかくを刻んでいる。

 「神々は反応してる。この場所にも、何かがいる」

 「名前か」

 「分からない。実体がない。でも、脈があるってことは、無ではない」

 こよいは巾着きんちゃくを片手で押さえ、もう片手を前方に差し出した。指先に触れるものはない。空気と同じ温度の空間が、どこまでも続いている。

 あさひが足音あしおとを変えた。踵かかとから爪先への移行を遅くし、一歩ごとに地面の返りを確かめている。

 「地面は続いてる。少なくとも、落ちる気配はない」

 「落ちる以前に、ここに『下』があるかすら怪しいがな」

 久遠くおんが皮肉めいた声で言った。けれどその口調に、こよいは少しだけ安堵あんどした。皮肉が出るうちは、久遠くおんはまだ折れていない。

 しばらく歩いた。

 距離も時間も分からない。ただ、歩幅と呼吸こきゅうの回数だけが積み上がっていく。

 不意に、こよいの右足が何かを踏んだ。

 硬い感触かんしょくではなかった。紙に似ている。薄くて、乾いていて、踏んだ瞬間に端がわずかに捲めくれた。

 「待って」

 こよいは膝をつき、指先でそれに触れた。紙だった。一枚の、古い紙。文字はない。罫線けいせんもない。けれど紙であることは確かだった。

 「久遠くおん。紙がある」

 「紙?」

 久遠くおんが義眼ぎがんを向けたが、やはり何も映らない。裸眼らがんで覗き込み、指先で端に触れた。

 「本物の紙だ。繊維せんいがある。だが何も書かれていない」

 「書かれていないんじゃなくて、まだ書かれていないんじゃないかな」

 こよいの声は静かだった。

 地図ちずの外に落ちていた白紙。誰にも測られず、誰にも記録きろくされなかった場所に、一枚だけ残されていた紙。

 あさひが鼻を鳴らした。

 「地図ちずがないなら、描けばいい。そういうことだろ」

 久遠くおんは答えず、紙を拾い上げて目録もくろくの間に挟はさんだ。義眼ぎがんが映さないものを、紙が記録きろくする。その可能性だけを、今は持っておく。

 三人はまた歩き出した。

 色のない地面を、値のない空間を、身体だけを計器にして進む。神々の脈が、唯一の方角を示していた。

 こよいは左手で巾着きんちゃくを押さえ、右手の指先を前方に伸ばしたまま歩いた。触れるものがなくても、手を伸ばすことをやめなかった。

地図ちずの外には、まだ何も描かれていない。

だから、手を伸ばす意味がある。

伸ばした指先が、何もない空間の抵抗ていこうをわずかに拾った。風ではない。三人が歩くたびに押し分けた空気が、遅れて戻ってきたのだ。こよいはその微かな流れを頬ほおでも感じ、次の足場を探る合図にした。見るための光も、測るための数字もない。それでも呼吸を一つ進めるごとに、通ってきた距離だけは身体の内側へ残っていった。

おたまが白紙へ前足を置いても、文字も座標も浮かばなかった。けれど肉球の温度だけは残る。久遠はそれを目録に挟み、観測結果ではなく、四人がここに来たという手触りの記録として保管した。久遠くおんの目録もくろくは、いつのまにか測るための書物から、覚えておくための帳面へと変わっていた。数字にならないものこそ、いちばん守る価値がある。
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