神雧 - KAMIATSUME -

神代 一文

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第16章 余白の終点

第490話 琥珀の名

匂いが変わった。

 それまでの、乾いた紙と古い革の混じった空気が、ふいに途切れた。代わりに鼻の奥を撫なでたのは、雨が降る直前の土に似た匂いだった。湿り気を帯びているのに重くない。むしろ透き通るような、若い匂い。長い間乾いた空気の中を歩いてきた三人の鼻には、その匂いはやけに鮮烈に届いた。

 こよいは足を止め、鼻で息を吸った。

 「……何だろう、この匂い」

 「俺も拾った。金属でも紙でもない。植物に近いが、花じゃない」

 あさひが剣の柄つかから手を離し、掌てのひらを上に向けた。空気の湿度を確かめている。指の腹が空気を掬すくうように動き、見えない粒子を捕まえようとしていた。

 久遠くおんは目録もくろくを開かなかった。開いても、もう座標ざひょうは出ない。代わりに義眼ぎがんだけを点灯てんとうさせ、周囲を見回した。蒼光そうこうは相変わらず何も映さないが、光の散り方がさっきまでと違う。蒼い筋がまっすぐ進まず、途中で微かに曲がっている。何かに屈折させられている。

 「散乱さんらんが変わった。光が何かに当たってる。だが形状は読めない」

 「見えないのに、ある」

 「ああ。ここには何かがいる。いるのに、名前がない」

 名前がない、という言葉に、こよいの巾着きんちゃくが反応した。布越しに、神々がひとつ跳ねる。痛みの脈ではない。驚きに近い鼓動こどうだった。布が内側から押され、すぐに戻る。名前を持つ者が、名前のない存在に出会ったときの反応だった。

 「神々が跳ねた。名前に反応してるんじゃなくて、名前がないことに反応してる」

 こよいは巾着きんちゃくを両手で包み、脈の形を確かめた。これまで集めてきた三十七の名前は、すべて一度は名付けられた存在だった。忘れられたか、削られたか、摩耗まもうしたかの違いはあっても、最初に名を持っていたことだけは共通している。

 ここは違う。

 足元の地面が柔らかくなっていた。踏むとわずかに沈む。水気を含んだ土に近い感触かんしょくだが、靴底に泥は付かない。沈んだ分だけ地面が押し返し、足を上げると元の高さに戻る。

 こよいは屈かがみ、指先で地面に触れた。

 冷たくない。温かくもない。ちょうど体温と同じ温度。境界きょうかいのない温度だった。指先と地面の間に、温度差がない。触れているのに触れていないような、不思議な感覚だった。

 「根だ」

 久遠くおんが静かに言った。

 「義眼ぎがんでは見えない。だが足裏から伝わる振動しんどうがある。地中に根が走ってる。太い根じゃない。細い、産毛うぶげみたいな根が密に絡んでいる」

 久遠くおんが片膝かたひざをつき、掌てのひらを地面に当てた。義眼ぎがんの蒼光そうこうが消え、裸眼らがんだけで地面を見つめている。見えないものを、見る以外の方法で感じ取ろうとしていた。

 こよいは掌てのひらを地面に当てたまま、目を閉じた。

 振動しんどうがある。微かで、一定ではない。呼吸こきゅうのように膨らんだり縮んだりしている。

 「生きてる」

 「生きてるなら、起点きてんがある。根にはどこかに始まりがあるはずだ」

 あさひが前方を指した。鼻先を上げ、匂いの濃い方角を探っている。

 「あっち。匂いが濃い」

 三人は匂いを辿った。

 歩くごとに、足元の感触かんしょくが変わっていく。硬い地面から、柔らかい土のような層へ。やがて足の裏に、根の存在がはっきりと伝わり始めた。靴底を通して、細い脈動みゃくどうが指先まで上がってくる。

 空気の匂いが濃くなった。土と水と、名前のない植物が混ざったような、古いのに新しい匂い。呼吸するたびに、肺の奥まで匂いが染みる。

 こよいの目に、何かが映った。

 地面から、薄い光が滲にじんでいる。金色ではない。銀でもない。色の名前がつけられない光だった。根が地表に近い場所で密集みっしゅうし、その接触点せっしょくてんから光が漏れている。

 「これが……根脈こんみゃくの起点きてん?」

 久遠くおんが膝をつき、裸眼らがんで地面を見た。義眼ぎがんを補助にせず、自分の目だけで見ている。

 「断定はできない。だが、ここの根は他のどの場所よりも細く、密度みつどが高い。末端ではなく、中心の構造こうぞうだ」

 こよいは写本しゃほんを膝ひざの上に広げた。三十七の名前が並ぶ頁ページの端が、微かに揺れている。風はないのに。根の振動しんどうが、紙に伝わっているのだ。紙の繊維せんいが根の脈動みゃくどうを受け取り、文字の一つ一つが微かに震えていた。

 「写本しゃほんの名前たちが、この場所を知ってる」

 「知ってるんじゃねえ。覚えてるんだ。身体で」

 あさひの声は低かった。

 こよいは頁ページに指を置いた。三十七の名前のうち、最も古い名が微かに光っている。地面の根と同じ、名前のない色の光。

 「この名前、ここから来たのかもしれない」

 「名前のない場所から、名付けられた世界へ出て行った」

 久遠くおんが静かに立ち上がった。膝ひざに付いた土を払わずに、まっすぐ前を見ている。

 「漂白ひょうはくで消されたのではない。削られたのでもない。ここにあるのは、最初から名前がなかった場所だ。名前という概念がいねんが生まれる前の場所」

 こよいは地面に掌てのひらを当てたまま、目を開けた。

 名前のない場所。名付けの始まる前。すべての根が、ここから伸びていった。

 巾着きんちゃくの中の神々が、静かに脈打っていた。跳ねるのではなく、深い場所で、ゆっくりと。根の振動しんどうと同じリズムで。

 「怖くないよ」

 こよいは掌てのひらを地面から離し、立ち上がった。

 「名前がないって、何もないってことじゃなかった。名前になる前の何かが、ここにはある」

 あさひが剣の柄つかに手を戻した。戦いの構えではなく、杖つえのように体重を預ける姿勢。

 「先に行くか」

 「行く」

 こよいは頷いた。

 三人は名前のない場所を歩いた。

 足元の根が脈打ち、匂いが道を示し、名のない光が足跡あしあとを照らす。記録きろくできない場所を、記録きろくを抱えたまま歩いている。

 こよいは写本しゃほんを胸に抱えた。白紙の頁ページが、根の振動しんどうを受けて小さく震えている。

 まだ書かれていない名前が、紙の向こう側で待っている気がした。

 そのとき、おたまの髭ひげの先に琥珀色こはくいろの光が灯った。文字にならず、写本にも入らない。名付け以前の存在が、猫の輪郭を借りてこちらを見ている光だった。こよいは文字を与えず、頁の端を指でなぞるだけにした。「記録がないってことは、失われてもいない」。光は三十七の名を琥珀色に包み、根のさらに先へ進む方角を示した。
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