神雧 - KAMIATSUME -

神代 一文

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第16章 余白の終点

第493話 端の静けさ

端はしは、静かだった。

 崖がけがあるわけではない。門もんがあるわけでもない。
 ただ、そこから先へ続くはずの道が、少しずつ薄くなっている。
 線が消えかけている。地面に刻まれていたはずの文様もんようが、砂に描いた絵のように、少しずつ輪郭りんかくを失っていた。

 こよいは立ち止まり、息を整えた。
 静けさが耳に痛い。遠くで鳴っていた根の低い唸うなりも、風が木々を梳すく音も、ここまでは届かない。世界から音おとだけが引き抜かれたような、不自然な静寂せいじゃくだった。
 耳の奥で自分の血が巡る音おとが聞こえる。脈拍の一つひとつが、静けさの中で異様に大きく響いた。

 久遠くおんが言う。

 「……端はしの静けさは、最後の検査けんさだ。ここで焦ると、足元が抜ける」

 あさひが笑う。

 「焦るなって言われると、焦る」

 「だから言う」

 久遠くおんの声は珍しく柔らかかった。いつもの冷たい分析の調子ではなく、誰かを宥なだめるときの、抑えた温度がそこにあった。義眼ぎがんの蒼光そうこうが淡く点ともっている。端の空気を読み取ろうとしているのだろうが、光の揺れ方が普段よりも緩やかで、計器というよりも提灯ちょうちんの灯ひに似ていた。

 こよいは巾着きんちゃくを胸に抱え、神々の温もりを確かめる。
 温もりはある。でも、遠い。遠さが増している。布越しに触れる体温が薄紙うすがみを一枚ずつ挟むように、手のひらから離れていく感覚があった。

 「……端はしって、終わりなのかな」

 こよいが呟つぶやくと、久遠くおんは首を振った。

 「終わりじゃない。……ここから先は、端はしじゃなくて『外』だ」

 外。その一文字が、空気の中に落ちて沈んだ。端の向こうには何があるのか。道が消えた先に、別の道があるのか。それとも道という概念がいねんそのものがない場所なのか。こよいの胸の内側で、不安と期待が薄い膜まくを隔へだてて隣り合っていた。

 あさひが一歩踏み出す。

 足元の線が、きゅ、と鳴った。
 消えかけた線が、ほんの少しだけ戻る。踏みしめた靴底の圧力に応じて、文様もんようが一瞬だけ浮き上がり、また沈む。あさひの重さが、消えかけた記録きろくを一瞬だけ思い出させているのだ。

 「ほらな」

 あさひが言葉を落とした。背の布包みの大剣が、微かに揺れている。

 「静けさは、止めるためじゃない。……踏み出す音おとを、選ばせるためだ」

 その言葉が、こよいの鳩尾みぞおちに落ちた。止まれという警告ではなく、聴けという促しだった。あさひらしい。理屈ではなく体感で掴つかんだ真実を、飾らずにそのまま差し出す。

 こよいは頷うなずいた。

 端はしの静けさ。それは恐怖の沈黙ちんもくではなく、次の一歩の音おとを聞き分けるための静寂せいじゃくだった。耳を澄すませろと、この場所が言っている。どこへ踏み出すのか。どの音おとを選ぶのか。自分の足で、自分の耳で、確かめろと。

 三人は、静けさを壊さないまま、外へ向かって歩き出した。

 こよいは最後に一度だけ振り返った。
 後ろの道は、もう薄い。足跡が残っているはずの場所も、文様もんようが沈み切って地面の色と同化している。だからこそ、今踏んでいる線が貴重に見える。自分の靴底が触れているこの一点だけが、かろうじて道であることを主張していた。

 「……戻れないね」

 声に出すと、返事はない。

 でも、神々が脈打った。返事の代わり。巾着きんちゃくの布を通して、小さな鼓動こどうが指先に触れる。名前たちが応えている。言葉ではなく、存在の振動しんどうで。
 それで十分だと、こよいは思った。

 風がない。音おとがない。自分の呼吸こきゅうと、隣を歩く二人の足音あしおとだけが、世界のすべてだった。呼吸のたびに胸が上下し、その僅わずかな衣擦きぬずれの音が、静寂せいじゃくの底に沈んでいく。

 久遠くおんが目録もくろくを胸に抱えたまま、前を見ている。
 義眼ぎがんの蒼光そうこうは消えていた。ここでは、見ることより聴くことの方が正しいと判断したのだろう。裸眼らがんの右目を半ば閉じ、まぶたの裏で何かを測っているように見えた。耳を澄すませている。目録もくろくの革表紙かわびょうしを抱える指先だけが、微かに動いていた。

 あさひは剣の柄つかから手を離していた。
 布包みに指を添えているだけだ。静けさの中では、金属の触れる音おとすら邪魔になる。大剣を背負った広い肩が、前を向いたまま揺れない。呼吸の深さだけが、あさひがまだ緊張していることを教えてくれた。

 こよいの足元で、消えかけた線が微かに光った。
 踏んだ瞬間だけ光り、離れると消える。地面の温度が靴底を通して伝わってくる。冷たくはない。温かくもない。存在を確認するだけの、中立的な温度だった。

 確認のための光だ。
 ここを歩いている、という事実だけを記録きろくする光。

 三人の歩みが刻む光の点列が、薄い道の上に短い軌跡きせきを描いていく。あさひの歩幅ほはばが最も大きく、久遠くおんのそれが最も均等で、こよいの足取りだけが時折揺れる。三つの異なるリズムが、沈黙ちんもくの中にかすかな拍子ひょうしを刻んでいた。

 振り返れば、もう消えている。
 前を見れば、まだ何もない。

 今この瞬間だけが、光っている。

 こよいは息を吐いた。白い息にはならない。この場所には温度差がないのだ。吐いた息が、そのまま静寂せいじゃくに溶けていく。

 静けさの中に、かすかな音おとが混じっている。
 耳を澄すませると、それは写本しゃほんの中の名前たちの呼吸こきゅうだった。紙の繊維せんいを通して漏れ出る、極めて細い振動しんどう。一つひとつは聞き取れない。けれど三十七の名前が同時に息をすると、その総体が微かな和音わおんになって空気を震わせる。

 三十七の名前が、静かに息をしている。

 端はしの静けさは、名前たちの呼吸こきゅうを聴くための静寂せいじゃくでもあった。外の世界の雑音ざつおんが消えた今、名前たちの声だけが残っている。その声は言葉ではない。ただの存在の響き。生きている、ということの、最も小さな証拠しょうこ。

 こよいは写本しゃほんに手を添え、歩いた。
 次の一歩の音おとを、自分で選びながら。
 名前たちの呼吸こきゅうに合わせるように、ゆっくりと。

 おたまの足音だけは聞こえなかったが、小鈴の重みがこよいの手に伝わった。四人は外へ踏み出す音を一つに揃えず、それぞれが選んだ拍で端を越えた。
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