神雧 - KAMIATSUME -

神代 一文

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第16章 余白の終点

第496話 鋼の巾着

列車れっしゃの鋼はがねが歌っている。
 車輪だけではない。
 壁も、天井も、座席の骨格こっかくも。列車れっしゃを構成するすべての鋼はがねが、微かに振動しんどうしている。
 根の共鳴きょうめいを拾って増幅ぞうふくしているのではない。

 鋼はがねそのものが、独自の振動しんどうを発している。

 こよいはその振動しんどうを、座席の背もたれ越しに感じていた。肩甲骨けんこうこつの間を、かすかな震えが上っていく。不快ではない。むしろ背骨の芯しんを温めるような、穏やかな律動りつどうだった。車内の空気そのものが細かく揺れていて、頬ほおの産毛うぶげが微かにそよいでいる。

 「久遠くおん」

 こよいが座席の肘掛ひじかけに手を置いた。
 温かい。

 鋼はがねなのに温かい。金属特有の冷たさが消えて、人肌に近い温度がこよいの掌てのひらに伝わってくる。指先で表面をなぞると、細かな振動しんどうが皮膚の下に染み込むように入ってきた。

 「この列車れっしゃ、名前がいる」

 久遠くおんが義眼ぎがんを車体に向けた。
 蒼光そうこうが鋼はがねの壁を透過していく。光は壁面を抜け、鋼はがねの内部へと沈み、そこで何かに触れたように一瞬だけ明滅した。
 長い沈黙ちんもくがあった。久遠くおんの裸眼らがんが閉じ、義眼ぎがんだけが蒼あおく冴さえている。目録もくろくを抱える指先が、わずかに白んでいた。

 「いた」

 久遠くおんの声が掠かすれた。普段の冷徹な観測の声ではなく、予測を超えたものに触れたときの、生の声だった。

 「列車れっしゃの骨格こっかくに、名前が組み込まれている。歯車と同じ原理だ。名前を部品にして、列車れっしゃの構造こうぞうを維持している。だが、歯車とは根本的に違う」

 「違う?」

 「歯車は名前を磨すり潰していた。回転によって名前を消耗しょうもうさせ、その消耗しょうもうから演算えんざんエネルギーを得ていた。列車れっしゃは違う。名前を消耗しょうもうさせていない。名前を載せて、運んでいる。名前が列車れっしゃの構造こうぞうを支え、列車れっしゃが名前を目的地まで運ぶ。共生きょうせいだ」

 共生。その言葉が車内の空気を震わせた。歯車の冷酷な消費とは正反対の、互いを必要とする関係。こよいの脳裏のうりに、歯車の中で削けずられていた名前たちの姿が一瞬だけ甦よみがえり、胸の奥がきつく締まった。あの白銀の歯車に噛かみ合わされ、回転のたびに薄くなっていく名前たち。それと同じ鋼はがねでできたこの列車れっしゃが、真逆のことをしていた。

 こよいは座席の肘掛ひじかけを撫なでた。
 温もりが手のひらに伝わる。指の腹が鋼はがねの表面を滑るたびに、振動しんどうが少しずつ変わる。まるで撫でられていることに気づいた猫が、喉のどの音を変えるように。
 この列車れっしゃに乗るたびに感じていた、妙な安心感の正体がわかった。

 「この列車れっしゃは、最初から味方だったんだ」

 「そうだ。霧列車きりれっしゃの霧きりは、理ことわりの残滓ざんしではない。列車れっしゃに宿る名前たちの呼気こきゅうだ。名前を運ぶために走り、名前の息で霧きりを纏まとい、名前を載せてまた走る。この列車れっしゃそのものが、一つの巨大な巾着きんちゃくだった」

 こよいの目が熱くなった。巾着きんちゃく。自分が胸に抱えてきたあの小さな布袋ぬのぶくろと同じ役割を、この巨大な鋼はがねの箱が果たしていた。名前を守り、名前に守られ、旅を続けていた。窓の外に広がる霧きりが、急に違って見えた。白い靄もやの一筋一筋が、名前たちの吐く息だった。

 あさひが床を踏んだ。

 鋼はがねが低く鳴った。あさひの靴底を通して、列車れっしゃの振動しんどうが返ってくる。足裏に伝わる共鳴きょうめいが、膝ひざを通り、腰を通り、背骨の底まで響いた。

 「だったら、この列車れっしゃの名前たちも出してやれるのか」

 「根が列車れっしゃの構造こうぞうに浸透しんとうすれば可能だ。だが、今はまだその時ではない。列車れっしゃを止めるわけにはいかない」

 あさひは黙って頷うなずいた。剣の柄つかを握る右手を緩め、掌てのひらを床に向けた。鋼はがねの振動しんどうが手首を通って腕を昇のぼる。今ではなく、いつか。その「いつか」を手繰たぐり寄せるために走っているのだと、足裏の振動しんどうが教えてくれている。

 写本しゃほんが膝ひざの上で脈打った。

 三十七の脈が、列車れっしゃの振動しんどうに合わせて震えている。
 列車れっしゃの中の名前たちと、写本しゃほんの名前たちが、鋼はがねと紙を隔てて会話している。振動しんどうの波長が交互に揺れ、重なり、また離れる。言葉のない対話が、車内の空気を満たしていた。

 こよいは目を閉じた。
 この列車れっしゃは、ずっと一緒にいてくれた。
 最初の旅から、ずっと。
 名前を集めるための旅を、名前に支えられた列車れっしゃで走っていた。その事実が胸の中で膨ふくらみ、肋骨ろっこつの裏側を温かく押した。

 車輪が線路を叩く音おとが、子守唄こもりうたのように響いた。規則正しい拍子ひょうしが、心臓の鼓動こどうと重なる。がたん、がたん、と繰り返されるその音の合間に、名前たちの呼気こきゅうが混じっている。

 こよいは肘掛ひじかけに頬ほおを寄せた。

 鋼はがねの温もりが、頬骨の奥まで届く。振動しんどうが肌を伝い、こめかみを撫なで、耳の奥で低い音おとに変わった。
 列車れっしゃの中の名前たちが、こよいの体温を感じ取ったのか、振動しんどうが少しだけ柔らかくなった。角の取れた震えが、子どもの寝息に似ている。

 写本と巾着の三十七の脈が、それに合わせて光を弱めた。
 会話が、囁ささやきに変わっている。紙面の上で文字たちがそっと身を寄せ合い、鋼はがねの向こうの仲間に耳を傾けている。

 「……ありがとう」

 こよいが小さく言った。声は鋼はがねの壁に吸い込まれ、振動しんどうの一部になった。

 列車れっしゃは答えなかった。
 ただ、霧きりが一層深くなり、窓の外が白く煙った。

 名前たちの呼気こきゅうが、少しだけ温かくなった気がした。
 窓硝子まどがらすの内側に、微かな結露けつろが浮いている。温かい息が冷たい硝子ガラスに触れたときにだけ生まれる、あの曇り。列車れっしゃの名前たちが、確かに呼吸をしている証拠しょうこだった。

 おたまは座席の下で鋼へ耳をつけ、小鈴を一度だけ鳴らした。列車の名たちは同じ音を返さず、車輪の拍を少し緩める。消耗させず運ぶという共生の返事を、四人は身体で受け取った。
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