神雧 - KAMIATSUME -

神代 一文

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第16章 余白の終点

第499話 記録の終わり

球形空洞の中央に、観測者の長おさの投影が現れた。十二の計器殻を失った姿は薄く、輪郭の向こうに元帳の白い頁が透けている。

 『名は管理されなければ散る』

 長が削除を命じても、祭壇の炎は消えなかった。おたまの小鈴を起点に三十七の脈がそれぞれの拍を保ち、壁面の無数の名へ道を渡す。こよいは写本を掲げたが、代わりには名乗らない。

 「ぼくが決めるんじゃない。みんなが、自分で言うんだ」

 一柱が名乗った。次の一柱が続き、声は球面を巡って元帳へ届く。長が記した分類、順位、削除予定日の文字が、本人の声で一行ずつ上書きされた。五十一柱の台帳も、制度より古い名も、海底や苗床で復元を待つ欠片も、同じ一冊の所有物には戻らない。元帳は命令簿から、本人の声へ繋がる索引に変わった。

 最後の行が書き替わると、長の投影は白い頁から剥がれた。倒すべき肉体はなかった。削除権限だけが失効し、輪郭は光の塵へほどけた。

 根が元帳から歯車へ走る。名前を磨り潰す負荷を一本ずつ引き受け、回転を止め、鋼を別の理へ組み替えた。四人が歯車の部屋へ戻ると、金属のうなりは消え、根の柔らかな軋みだけが残っていた。

 「完全停止だ。置換は終わった」

 久遠の確認に、あさひは剣から手を離した。

 歯車に残っていた台帳外の名は、無理に写本へ集めず、根を通じて索引へ移した。写本には五十一柱の着地が、巾着には三十七の共鳴が揃っている。その次の頁には、新しく戻る名のための空欄を一つ残した。

 「五十一柱は全員いる。でも、これで世界の全部じゃない」

 こよいが閉じた写本へ、おたまが前足を置いた。

 「終わるってのは、捨てることじゃねえ。持って出るってことだ」

 三人は歯車の部屋を出た。
 神雧かみあつめの回廊かいろうは、以前の白い無機質さを失い、金を帯びた薄明に浸っていた。
 壁面の刻印こくいんはまだ読めないまま残っているが、触れると人肌に近い温度がある。

 通路の途中、久遠くおんは立ち止まり、目録もくろくを開いた。

 「最終記録きろくを入れる」

 こよいは頷うなずき、写本しゃほんを脇へ抱える。
 あさひは背後を見張り、耳だけを二人へ向けた。

 久遠くおんは、短く書く。

 『第499日。機構きこう停止。五十一柱着地。台帳完了。』

 それで終えるつもりだった。
 だが、こよいが首を振る。

 「完了、だけだと足りない。台帳の外で待っている名前のことも残したい」

 久遠くおんはペン先を浮かせたまま、こよいを見る。

 「どう書く?」

 こよいは少し考えて、言った。

 「『索引へ移行。次の名のため空欄くうらんを維持』」

 久遠くおんはそのまま追記した。

 『索引へ移行。次の名のため空欄くうらんを維持。』

 あさひが小さく笑う。

 「いいな。無理に埋めるな、ってことだろ」

 「うん」

 こよいは目を伏せて答えた。

 「埋めたら、別の嘘うそになる」

 回廊かいろうを抜けると、停車場ていしゃじょうへ通じる階段が現れた。
 上から、薄い朝の匂いが降りてくる。

 階段を上るあいだ、巾着の奥で代表の四柱は穏やかに眠っていた。計器を使わなくても、その拍動は手で分かった。

 階段を上り切ると、停車場ていしゃじょうの天蓋てんがい越しに朝が見えた。
 漂白ひょうはくされた白ではなく、少し金を溶かした灰青色かいせいしょくの空だった。

 ホームには霧列車きりれっしゃが待っている。
 黒い車体の継ぎ目に、金の細線が走っていた。

 あさひが先に乗り込み、車内を確認する。
 異常なしの合図あいずが返る。

 こよいと久遠くおんも続いた。
 座席へ落ち着くと、三人はしばらく何も言わなかった。

 汽笛きてきが一度、低く鳴る。

 それは出発の合図あいずであると同時に、終端しゅうたんの証明でもあった。

 久遠くおんは目録を閉じた。「記録は今日で閉じる。ここからは生きるための日誌だ」。誰も異論を挟まない。

 列車れっしゃが動き始め、停車場ていしゃじょうの柱がゆっくり後ろへ流れた。
 神雧かみあつめの入口は霧きりの向こうへ沈み、見えなくなる。

 こよいは胸の奥で、五十一柱の台帳の外に残った鈴音すずねの名へ、静かに「必ず迎えに行く」と約束した。
 同時に、台帳へ着地した五十一柱と、索引を通って戻り始めた名へ、声にならない礼を置いた。

 窓に朝の光が差し込み、写本しゃほんの端を照らす。
 金の反射が、頁ページの空欄くうらんをひと筋だけ渡った。

 久遠くおんはその光を見届け、最後の一行を書いた。

 『記録きろくを閉じる。以後、日誌へ移行。』

 ペンを置く音おとは、拍子木ひょうしぎよりも小さい。
 それでも三人には、はっきり聞こえた。

 列車は朝の霧を割って進む。写本の空欄を見て、あさひが「空けたまま守るのも仕事だ」と言った。こよいは小さく笑った。

 客室の前方から、車掌しゃしょうの足音あしおとが近づいてくる。
 以前なら顔のない管理機構きこうが通るだけだった通路に、今日は人間の歩幅がある。
 車掌しゃしょうは帽子を軽く上げ、三人の座席番号を確認してから言った。

 「次駅で、長距離運行は終了です。乗り継ぎは地上線ホーム二番。荷物のお忘れ物にご注意ください」

 事務的で、正しい案内だった。
 その正しさに、こよいは胸の奥がほどけるのを感じた。
 世界が戻るとは、こういう声が普通に届くことなのだと分かる。

 列車れっしゃが緩やかに減速を始める。
 窓外の霧きりが薄まり、屋根のある町並みが見えた。
 洗濯紐せんたくひもに白い布が揺れ、煙突えんとつから細い煙が上がっている。

 久遠くおんが目録もくろくを鞄かばんへしまうと、あさひも剣帯けんたいを締め直した。
 こよいは巾着きんちゃくと写本しゃほんの位置を確かめ、最後に座席へ手を置く。

 「ここまで運んでくれて、ありがとう」

 誰に向けた礼かは、三人とも確かめなかった。
 確かめなくても、同じ方向を見ていると分かったからだ。

 車輪の振動の中で、終わったことと続くことが矛盾せず並んだ。

 やがて次の停車場ていしゃじょうの灯あかりが見え始める。
 こよいは写本しゃほんを抱え、久遠くおんは目録もくろくを重ね、あさひは布包みの剣へ手を添えた。

 記録きろくの旅は、ここで閉じる。
 暮らしの旅は、ここから開く。
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