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第68話 その9「好きな子と鎌倉の町を散策しよう」(1) at 1995/5/31
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その日は朝からぱっとしない灰白色の曇り空だった。
テレビの天気予報では、予想最高気温は25℃。鎌倉の街を散策するには蒸し暑い一日になりそうだ。遠足とは言えど名目上はあくまで校外活動なので、当然のように『全員制服着用のこと』との但し書きが旅のしおりにも追記されていた。明日から六月――衣替えのタイミングなので、まだ男女ともに長袖のワイシャツの上にさらに紺ブレザーを羽織る必要があるが、きっと途中からはシャツは腕まくりの、ブレザーは小脇に抱えての移動になりそうだ。
「さて、そろそろ誰か来るかな……っと」
僕は一応班のリーダーということになっているので、集合場所であるJR町田駅の中央改札前に二十分前に到着して他のメンバーが来るのを待つことにしていた。待っている間にも、どこかで見かけたような顔が券売機で切符を購入しては、改札を急ぎ足で通り抜けていく。
しばらく僕が、JRと小田急線をつなぐペデストリアンデッキの方へぼんやりと視線を向けていると、突然視界が真っ暗になった。
「……だーれだーっ?」
僕は、はぁ、と溜息をついて、妙にほかほかとした肉厚のてのひらを掴んで押し退ける。
「何が面白いんだよ、何が。ズバリ当ててもらったところで嬉しくないだろうが、シブチン?」
「ま、そりゃそうだねー。当たったら逆に気味悪いもん。モリケンたちはここで待ち合わせ?」
「声、声。オカマみたいな声のままになってるぞ?」
「おっと。……あら、失礼」
渋田はしばらく周波数の合わないラジオみたいな声音を出してから、元の声に戻って尋ねた。
「僕と咲都子ちゃんは、ホームで待ち合わせしてから大船まで行くんだ。……まだ見てない?」
「僕もついさっき、三分くらい前に来たばっかりだから。にしても、あいかわらず仲いいなー」
「あはははっ。仲がいい、っていうか、僕がグイグイ強引に迫ってるだけだって」
「そ、そっか」
渋田は咲都子のことが好きで、告白された咲都子もすでに渋田の気持ちを知っている。
けれど渋田には、咲都子の負けず嫌いで男勝りで勝ち気で、サバサバとしたところがどうにも引っかかるらしい。嫌いと一言で片づけてしまうには難しく複雑な感情のようで、許せないというのもどこかニュアンスが違うようだ。わからないでもないが――やっぱりわからない。
「でもさ」渋田は短く息を吐き、口角を引き上げた。「そろそろ心の整理ができそうなんだ」
「そっか……それは喜んだり、応援した方がいい奴か?」
「うん。モリケンに応援されたらきっとうまくいくと思う」
「よし。じゃあ頑張れよ、シブチン」
僕は迷わず言葉を継いだ。
「オトナになってから後悔しないように、今この一瞬を頑張れ。一分一秒に全力を尽くせ」
(僕にはそれができなかったから、今こうして『リトライ』する羽目になったんだけどね――)
だが、そんな奴の励ましのエールに一体どれほどのチカラが宿るというのだろうか。しかし、少なくともこれだけは言える。僕なんかと同じ道は歩むな、と。
友を作らず、関わり合いを避け、他人を押し退け頂点に立つことだけを追い求めてひたすら勉学だけに打ち込んだところで、一旦つまずいた時に手を差し伸べてくれる奴なんていない。
我こそは孤高の存在なりと強がってみせたところで、恰好いいのは見た目と聴こえだけ。形ばかりの栄誉とやたら詰め込んだ受験知識なんて、人生の途上で迷った時の標にはならない。
違う――いない、ならない、じゃなくって、いなかった、ならなかった、だ。
四〇歳にもなって、ようやくそれがわかった。哀しいかな、人間は失敗からしか学ぶことができない生き物だ。人生はやり直しがきく――それは嘘だ。つまずかないに越したことはない。
黙って耳を傾けていた渋田がどう思ったのか、僕にはわからない。でも渋田はこう言った。
「じゃあ、モリケンにもエールを送るね――今この一瞬を頑張れ。一分一秒に全力を尽くせ」
テレビの天気予報では、予想最高気温は25℃。鎌倉の街を散策するには蒸し暑い一日になりそうだ。遠足とは言えど名目上はあくまで校外活動なので、当然のように『全員制服着用のこと』との但し書きが旅のしおりにも追記されていた。明日から六月――衣替えのタイミングなので、まだ男女ともに長袖のワイシャツの上にさらに紺ブレザーを羽織る必要があるが、きっと途中からはシャツは腕まくりの、ブレザーは小脇に抱えての移動になりそうだ。
「さて、そろそろ誰か来るかな……っと」
僕は一応班のリーダーということになっているので、集合場所であるJR町田駅の中央改札前に二十分前に到着して他のメンバーが来るのを待つことにしていた。待っている間にも、どこかで見かけたような顔が券売機で切符を購入しては、改札を急ぎ足で通り抜けていく。
しばらく僕が、JRと小田急線をつなぐペデストリアンデッキの方へぼんやりと視線を向けていると、突然視界が真っ暗になった。
「……だーれだーっ?」
僕は、はぁ、と溜息をついて、妙にほかほかとした肉厚のてのひらを掴んで押し退ける。
「何が面白いんだよ、何が。ズバリ当ててもらったところで嬉しくないだろうが、シブチン?」
「ま、そりゃそうだねー。当たったら逆に気味悪いもん。モリケンたちはここで待ち合わせ?」
「声、声。オカマみたいな声のままになってるぞ?」
「おっと。……あら、失礼」
渋田はしばらく周波数の合わないラジオみたいな声音を出してから、元の声に戻って尋ねた。
「僕と咲都子ちゃんは、ホームで待ち合わせしてから大船まで行くんだ。……まだ見てない?」
「僕もついさっき、三分くらい前に来たばっかりだから。にしても、あいかわらず仲いいなー」
「あはははっ。仲がいい、っていうか、僕がグイグイ強引に迫ってるだけだって」
「そ、そっか」
渋田は咲都子のことが好きで、告白された咲都子もすでに渋田の気持ちを知っている。
けれど渋田には、咲都子の負けず嫌いで男勝りで勝ち気で、サバサバとしたところがどうにも引っかかるらしい。嫌いと一言で片づけてしまうには難しく複雑な感情のようで、許せないというのもどこかニュアンスが違うようだ。わからないでもないが――やっぱりわからない。
「でもさ」渋田は短く息を吐き、口角を引き上げた。「そろそろ心の整理ができそうなんだ」
「そっか……それは喜んだり、応援した方がいい奴か?」
「うん。モリケンに応援されたらきっとうまくいくと思う」
「よし。じゃあ頑張れよ、シブチン」
僕は迷わず言葉を継いだ。
「オトナになってから後悔しないように、今この一瞬を頑張れ。一分一秒に全力を尽くせ」
(僕にはそれができなかったから、今こうして『リトライ』する羽目になったんだけどね――)
だが、そんな奴の励ましのエールに一体どれほどのチカラが宿るというのだろうか。しかし、少なくともこれだけは言える。僕なんかと同じ道は歩むな、と。
友を作らず、関わり合いを避け、他人を押し退け頂点に立つことだけを追い求めてひたすら勉学だけに打ち込んだところで、一旦つまずいた時に手を差し伸べてくれる奴なんていない。
我こそは孤高の存在なりと強がってみせたところで、恰好いいのは見た目と聴こえだけ。形ばかりの栄誉とやたら詰め込んだ受験知識なんて、人生の途上で迷った時の標にはならない。
違う――いない、ならない、じゃなくって、いなかった、ならなかった、だ。
四〇歳にもなって、ようやくそれがわかった。哀しいかな、人間は失敗からしか学ぶことができない生き物だ。人生はやり直しがきく――それは嘘だ。つまずかないに越したことはない。
黙って耳を傾けていた渋田がどう思ったのか、僕にはわからない。でも渋田はこう言った。
「じゃあ、モリケンにもエールを送るね――今この一瞬を頑張れ。一分一秒に全力を尽くせ」
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