ロザリンデのいつわりの薔薇 ~駆け落ち寸前に別れたあなたは侯爵家の跡取りでした~

碓氷シモン

文字の大きさ
1 / 4

プロローグ 届かぬ祈り

しおりを挟む
 居間の暖炉の上に置かれた時計がカチッと小さな音を立てて、天使が放つ愛の矢をかたどった金色の短針が九の位置で止まった。
 チーン、チーンという澄んだ音が規則的に鳴り響く。ロザリンデは思わず小さくぶるっと震えて、両腕で自分を抱きしめた。

(お願い、どうか、今日はこのまま……)

「ロザリンデおばたま、どうしたの? どこかいたいの?」
「な、何でもないわ。心配してくれたの? 優しいのね、リュシアン」
「よかった! ロザリンデおばたま、だいすき!」

 膝に手をかけて心配そうにロザリンデを見上げて来た甥のリュシアンに向かって、無理に笑顔を作って答えると、リュシアンの顔が安心したようにぱっと明るくなった。そのまま身体を預けてきたリュシアンを抱きしめて、ロザリンデは一縷いちるの望みを繋ぐ。もしかしたら今日はリュシアンの寝かしつけを理由にして逃がれられるかもしれない……。

 だがその望みは無残に打ち砕かれた。磨き上げられた黒い革の靴がコツコツと音を響かせながら近づいてきて、長い腕がリュシアンをさっと抱き上げた。

「さあリュシアン、もうねんねの時間だ。おばさまにおやすみのご挨拶をなさい」
「はい、おとうさま。ロザリンデおばたま、おやすみなさい。明日またご本の続きを読んでね」
「ええ、また明日ね。おやすみ、リュシアン。良い夢を」

 絡みつく視線を巧妙にかわしながら、リュシアンだけに見えるように笑顔を向けて答えると、リュシアンは安心したように欠伸あくびをして、大きな肩にもたれかかかった。

 どこから見ても申し分のない、仲睦まじい父と幼い息子。だがその横に立つロザリンデの足は恐怖と屈辱に震えていた。

「マティルダ、お前ももう子供達と一緒に寝みなさい。夜更かしは身体に障る」
「ええ、そうさせて頂くわ」

 その男は片手でリュシアンを肩に担ぎながら、もう片方の手でソファに座っていた一人の女性が立ち上がるのを助けた。そのまま三人でドアのほうへ向かって行く。

 この瞬間、いつもロザリンデは心の底から神に祈る。主よ、どうかわたくしに安寧の眠りをお与え下さい……。だが今日もその祈りが聞き届けられることはなかった。
 マティルダと呼ばれた女性が居間を出て行こうとした瞬間、ふと立ち止まり、リュシアンを抱いたその男を見上げて申し訳なさそうに問いかけたのだ。

「でもあなた、まだお仕事が残っていらっしゃるのでしょう? わたくしだけお手伝いもせず寝むなんてこと、できませんわ。子供たちを寝かしつけてから、書斎に参ります」

 ロザリンデの胸にああ……とどす黒い雲がたれこめてゆく。

(お姉さま……言わないで……その言葉を言わないで……)

 だが男は妻を愛おしそうな目で見つめ、頬に軽く口づけをしながら、この上なく穏やかな口調でさらりと答えた。

「お前がそのような心配をせずとも良い。それより身体を労わっておくれ。お医者様から無理は禁物だと言われているではないか」
「でも……」
「大丈夫だ、私の仕事はロザリンデに手伝ってもらうつもりでいたからね。……ロザリンデ、手紙を何通か書いてもらいたいのだが、頼んでも良いだろうか」
「え……ええ……承知しました、お義兄にい様」

 俯いて承諾の言葉を口にするロザリンデの表情は、リュシアンが死角になってマティルダには見えなかった。満足そうに頷いた男が妻と息子と共に居間を出て行きながら、ロザリンデにねっとりとした視線を投げて言った。

「いつもすまないね、ロザリンデ。では三十分後に私の書斎へ来てくれ」

 ロザリンデの背中が凍り付いた。男はロザリンデから目を離さず、ニヤリと笑って舌の先で薄い唇をゆっくりと舐めると、扉を静かに閉めた。

 そのまま居間に一人残されたロザリンデは、いつしか震える手で、黒いサテンの細いリボンで胸元に吊るした小さなカメオをぎゅっと握りしめていた。
 楕円形に加工された淡いピンクの貝には、美しい女性の横顔が精巧に彫刻されている。君に似ているというあの時の言葉が胸に蘇った。ロザリンデは絶望に打ちひしがれながら、小さな声でその名を呟いた。

「ヘルマン……」

しおりを挟む
感想 1

あなたにおすすめの小説

【完結】捨ててください

仲 奈華 (nakanaka)
恋愛
ずっと貴方の側にいた。 でも、あの人と再会してから貴方は私ではなく、あの人を見つめるようになった。 分かっている。 貴方は私の事を愛していない。 私は貴方の側にいるだけで良かったのに。 貴方が、あの人の側へ行きたいと悩んでいる事が私に伝わってくる。 もういいの。 ありがとう貴方。 もう私の事は、、、 捨ててください。 続編投稿しました。 初回完結6月25日 第2回目完結7月18日

【完結】探さないでください

仲 奈華 (nakanaka)
恋愛
私は、貴方と共にした一夜を後悔した事はない。 貴方は私に尊いこの子を与えてくれた。 あの一夜を境に、私の環境は正反対に変わってしまった。 冷たく厳しい人々の中から、温かく優しい人々の中へ私は飛び込んだ。 複雑で高級な物に囲まれる暮らしから、質素で簡素な物に囲まれる暮らしへ移ろいだ。 無関心で疎遠な沢山の親族を捨てて、誰よりも私を必要としてくれる尊いこの子だけを選んだ。 風の噂で貴方が私を探しているという話を聞く。 だけど、誰も私が貴方が探している人物とは思わないはず。 今、私は幸せを感じている。 貴方が側にいなくても、私はこの子と生きていける。 だから、、、 もう、、、 私を、、、 探さないでください。

私と彼の恋愛攻防戦

真麻一花
恋愛
大好きな彼に告白し続けて一ヶ月。 「好きです」「だが断る」相変わらず彼は素っ気ない。 でもめげない。嫌われてはいないと思っていたから。 だから鬱陶しいと邪険にされても気にせずアタックし続けた。 彼がほんとに私の事が嫌いだったと知るまでは……。嫌われていないなんて言うのは私の思い込みでしかなかった。

私に告白してきたはずの先輩が、私の友人とキスをしてました。黙って退散して食事をしていたら、ハイスペックなイケメン彼氏ができちゃったのですが。

石河 翠
恋愛
飲み会の最中に席を立った主人公。化粧室に向かった彼女は、自分に告白してきた先輩と自分の友人がキスをしている現場を目撃する。 自分への告白は、何だったのか。あまりの出来事に衝撃を受けた彼女は、そのまま行きつけの喫茶店に退散する。 そこでやけ食いをする予定が、美味しいものに満足してご機嫌に。ちょっとしてネタとして先ほどのできごとを話したところ、ずっと片想いをしていた相手に押し倒されて……。 好きなひとは高嶺の花だからと諦めつつそばにいたい主人公と、アピールし過ぎているせいで冗談だと思われている愛が重たいヒーローの恋物語。 この作品は、小説家になろう及びエブリスタでも投稿しております。 扉絵は、写真ACよりチョコラテさまの作品をお借りしております。

王子を身籠りました

青の雀
恋愛
婚約者である王太子から、毒を盛って殺そうとした冤罪をかけられ収監されるが、その時すでに王太子の子供を身籠っていたセレンティー。 王太子に黙って、出産するも子供の容姿が王家特有の金髪金眼だった。 再び、王太子が毒を盛られ、死にかけた時、我が子と対面するが…というお話。

夫が運命の番と出会いました

重田いの
恋愛
幼馴染のいいなづけとして育ってきた銀狼族の族長エーリヒと、妻ローゼマリー。 だがエーリヒに運命の番が現れたことにより、二人は離別する。 しかし二年後、修道院に暮らすローゼマリーの元へエーリヒが現れ――!?

忙しい男

菅井群青
恋愛
付き合っていた彼氏に別れを告げた。忙しいという彼を信じていたけれど、私から別れを告げる前に……きっと私は半分捨てられていたんだ。 「私のことなんてもうなんとも思ってないくせに」 「お前は一体俺の何を見て言ってる──お前は、俺を知らな過ぎる」 すれ違う想いはどうしてこうも上手くいかないのか。いつだって思うことはただ一つ、愛おしいという気持ちだ。 ※ハッピーエンドです かなりやきもきさせてしまうと思います。 どうか温かい目でみてやってくださいね。 ※本編完結しました(2019/07/15) スピンオフ &番外編 【泣く背中】 菊田夫妻のストーリーを追加しました(2019/08/19) 改稿 (2020/01/01) 本編のみカクヨムさんでも公開しました。

私を簡単に捨てられるとでも?―君が望んでも、離さない―

喜雨と悲雨
恋愛
私の名前はミラン。街でしがない薬師をしている。 そして恋人は、王宮騎士団長のルイスだった。 二年前、彼は魔物討伐に向けて遠征に出発。 最初は手紙も返ってきていたのに、 いつからか音信不通に。 あんなにうっとうしいほど構ってきた男が―― なぜ突然、私を無視するの? 不安を抱えながらも待ち続けた私の前に、 突然ルイスが帰還した。 ボロボロの身体。 そして隣には――見知らぬ女。 勝ち誇ったように彼の隣に立つその女を見て、 私の中で何かが壊れた。 混乱、絶望、そして……再起。 すがりつく女は、みっともないだけ。 私は、潔く身を引くと決めた――つもりだったのに。 「私を簡単に捨てられるとでも? ――君が望んでも、離さない」 呪いを自ら解き放ち、 彼は再び、執着の目で私を見つめてきた。 すれ違い、誤解、呪い、執着、 そして狂おしいほどの愛―― 二人の恋のゆくえは、誰にもわからない。 過去に書いた作品を修正しました。再投稿です。

処理中です...