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プロローグ 届かぬ祈り
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居間の暖炉の上に置かれた時計がカチッと小さな音を立てて、天使が放つ愛の矢をかたどった金色の短針が九の位置で止まった。
チーン、チーンという澄んだ音が規則的に鳴り響く。ロザリンデは思わず小さくぶるっと震えて、両腕で自分を抱きしめた。
(お願い、どうか、今日はこのまま……)
「ロザリンデおばたま、どうしたの? どこかいたいの?」
「な、何でもないわ。心配してくれたの? 優しいのね、リュシアン」
「よかった! ロザリンデおばたま、だいすき!」
膝に手をかけて心配そうにロザリンデを見上げて来た甥のリュシアンに向かって、無理に笑顔を作って答えると、リュシアンの顔が安心したようにぱっと明るくなった。そのまま身体を預けてきたリュシアンを抱きしめて、ロザリンデは一縷の望みを繋ぐ。もしかしたら今日はリュシアンの寝かしつけを理由にして逃がれられるかもしれない……。
だがその望みは無残に打ち砕かれた。磨き上げられた黒い革の靴がコツコツと音を響かせながら近づいてきて、長い腕がリュシアンをさっと抱き上げた。
「さあリュシアン、もうねんねの時間だ。おばさまにお寝みのご挨拶をなさい」
「はい、おとうさま。ロザリンデおばたま、おやすみなさい。明日またご本の続きを読んでね」
「ええ、また明日ね。おやすみ、リュシアン。良い夢を」
絡みつく視線を巧妙にかわしながら、リュシアンだけに見えるように笑顔を向けて答えると、リュシアンは安心したように欠伸をして、大きな肩にもたれかかかった。
どこから見ても申し分のない、仲睦まじい父と幼い息子。だがその横に立つロザリンデの足は恐怖と屈辱に震えていた。
「マティルダ、お前ももう子供達と一緒に寝みなさい。夜更かしは身体に障る」
「ええ、そうさせて頂くわ」
その男は片手でリュシアンを肩に担ぎながら、もう片方の手でソファに座っていた一人の女性が立ち上がるのを助けた。そのまま三人でドアのほうへ向かって行く。
この瞬間、いつもロザリンデは心の底から神に祈る。主よ、どうかわたくしに安寧の眠りをお与え下さい……。だが今日もその祈りが聞き届けられることはなかった。
マティルダと呼ばれた女性が居間を出て行こうとした瞬間、ふと立ち止まり、リュシアンを抱いたその男を見上げて申し訳なさそうに問いかけたのだ。
「でもあなた、まだお仕事が残っていらっしゃるのでしょう? わたくしだけお手伝いもせず寝むなんてこと、できませんわ。子供たちを寝かしつけてから、書斎に参ります」
ロザリンデの胸にああ……とどす黒い雲がたれこめてゆく。
(お姉さま……言わないで……その言葉を言わないで……)
だが男は妻を愛おしそうな目で見つめ、頬に軽く口づけをしながら、この上なく穏やかな口調でさらりと答えた。
「お前がそのような心配をせずとも良い。それより身体を労わっておくれ。お医者様から無理は禁物だと言われているではないか」
「でも……」
「大丈夫だ、私の仕事はいつものようにロザリンデに手伝ってもらうつもりでいたからね。……ロザリンデ、手紙を何通か書いてもらいたいのだが、頼んでも良いだろうか」
「え……ええ……承知しました、お義兄様」
俯いて承諾の言葉を口にするロザリンデの表情は、リュシアンが死角になってマティルダには見えなかった。満足そうに頷いた男が妻と息子と共に居間を出て行きながら、ロザリンデにねっとりとした視線を投げて言った。
「いつもすまないね、ロザリンデ。では三十分後に私の書斎へ来てくれ」
ロザリンデの背中が凍り付いた。男はロザリンデから目を離さず、ニヤリと笑って舌の先で薄い唇をゆっくりと舐めると、扉を静かに閉めた。
そのまま居間に一人残されたロザリンデは、いつしか震える手で、黒いサテンの細いリボンで胸元に吊るした小さなカメオをぎゅっと握りしめていた。
楕円形に加工された淡いピンクの貝には、美しい女性の横顔が精巧に彫刻されている。君に似ているというあの時の言葉が胸に蘇った。ロザリンデは絶望に打ちひしがれながら、小さな声でその名を呟いた。
「ヘルマン……」
チーン、チーンという澄んだ音が規則的に鳴り響く。ロザリンデは思わず小さくぶるっと震えて、両腕で自分を抱きしめた。
(お願い、どうか、今日はこのまま……)
「ロザリンデおばたま、どうしたの? どこかいたいの?」
「な、何でもないわ。心配してくれたの? 優しいのね、リュシアン」
「よかった! ロザリンデおばたま、だいすき!」
膝に手をかけて心配そうにロザリンデを見上げて来た甥のリュシアンに向かって、無理に笑顔を作って答えると、リュシアンの顔が安心したようにぱっと明るくなった。そのまま身体を預けてきたリュシアンを抱きしめて、ロザリンデは一縷の望みを繋ぐ。もしかしたら今日はリュシアンの寝かしつけを理由にして逃がれられるかもしれない……。
だがその望みは無残に打ち砕かれた。磨き上げられた黒い革の靴がコツコツと音を響かせながら近づいてきて、長い腕がリュシアンをさっと抱き上げた。
「さあリュシアン、もうねんねの時間だ。おばさまにお寝みのご挨拶をなさい」
「はい、おとうさま。ロザリンデおばたま、おやすみなさい。明日またご本の続きを読んでね」
「ええ、また明日ね。おやすみ、リュシアン。良い夢を」
絡みつく視線を巧妙にかわしながら、リュシアンだけに見えるように笑顔を向けて答えると、リュシアンは安心したように欠伸をして、大きな肩にもたれかかかった。
どこから見ても申し分のない、仲睦まじい父と幼い息子。だがその横に立つロザリンデの足は恐怖と屈辱に震えていた。
「マティルダ、お前ももう子供達と一緒に寝みなさい。夜更かしは身体に障る」
「ええ、そうさせて頂くわ」
その男は片手でリュシアンを肩に担ぎながら、もう片方の手でソファに座っていた一人の女性が立ち上がるのを助けた。そのまま三人でドアのほうへ向かって行く。
この瞬間、いつもロザリンデは心の底から神に祈る。主よ、どうかわたくしに安寧の眠りをお与え下さい……。だが今日もその祈りが聞き届けられることはなかった。
マティルダと呼ばれた女性が居間を出て行こうとした瞬間、ふと立ち止まり、リュシアンを抱いたその男を見上げて申し訳なさそうに問いかけたのだ。
「でもあなた、まだお仕事が残っていらっしゃるのでしょう? わたくしだけお手伝いもせず寝むなんてこと、できませんわ。子供たちを寝かしつけてから、書斎に参ります」
ロザリンデの胸にああ……とどす黒い雲がたれこめてゆく。
(お姉さま……言わないで……その言葉を言わないで……)
だが男は妻を愛おしそうな目で見つめ、頬に軽く口づけをしながら、この上なく穏やかな口調でさらりと答えた。
「お前がそのような心配をせずとも良い。それより身体を労わっておくれ。お医者様から無理は禁物だと言われているではないか」
「でも……」
「大丈夫だ、私の仕事はいつものようにロザリンデに手伝ってもらうつもりでいたからね。……ロザリンデ、手紙を何通か書いてもらいたいのだが、頼んでも良いだろうか」
「え……ええ……承知しました、お義兄様」
俯いて承諾の言葉を口にするロザリンデの表情は、リュシアンが死角になってマティルダには見えなかった。満足そうに頷いた男が妻と息子と共に居間を出て行きながら、ロザリンデにねっとりとした視線を投げて言った。
「いつもすまないね、ロザリンデ。では三十分後に私の書斎へ来てくれ」
ロザリンデの背中が凍り付いた。男はロザリンデから目を離さず、ニヤリと笑って舌の先で薄い唇をゆっくりと舐めると、扉を静かに閉めた。
そのまま居間に一人残されたロザリンデは、いつしか震える手で、黒いサテンの細いリボンで胸元に吊るした小さなカメオをぎゅっと握りしめていた。
楕円形に加工された淡いピンクの貝には、美しい女性の横顔が精巧に彫刻されている。君に似ているというあの時の言葉が胸に蘇った。ロザリンデは絶望に打ちひしがれながら、小さな声でその名を呟いた。
「ヘルマン……」
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