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第一章
episode_1 長い夜が始まる
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テオドール・ロチルド伯爵の書斎は、屋敷の西翼の一番端にあった。
離れ、と言うほどではないが、廊下を曲がったところに位置しているのと重い扉で隔てられていることもあり、子供達や使用人の声はほとんど届かず、一歩足を踏み入れるとそこには静寂が広がっている。
自室に戻っていたロザリンデはのろのろと立ち上がった。重い足取りで書斎へ向かう。途中、マティルダと子供達が使っている寝室の前を通り過ぎたが、あたりは静まり返っていた。皆もうぐっすり眠っているらしい。少しヒールのあるサテン地の靴が足音を立てないかといつも少し気になるが、廊下にはぶ厚い絨毯が敷き詰められているのでその心配はなさそうだ。
小さなランプの灯りを頼りに扉の前までたどり着くと、思わず大きな溜息が漏れた。この先に何が待っているかも、逃げたくても逃げられないことももう十分すぎるほど分かっていた。ロザリンデの脳裏にいつも疲れた表情で椅子に座り込んでいる姉マティルダと、母を慕う甥や姪の心配そうな顔が甦ってきた。
(そう、これは子爵家とあの子達を守るためよ。お姉様は立派にご自分の役割を果たされているわ。わたくしだけ与えられた生活に胡坐をかいていてはいけないのよ……だから耐えなければ……しっかりしなさいロザリンデ、皆のために……)
ロザリンデは青ざめた顔を上げると、小さく扉をノックして、返事が返ってくるのを待った。
「どうぞ」
彫刻の施された大きな扉を開けて書斎に入ると、テオドールは扉に背を向ける形でデスクの前に腰かけていた。壁一面に造りつけられた本棚、マホガニーの書斎机、革張りの大きな肘掛け椅子。それだけ見ればどこにでもある貴族の当主の書斎だが、一つだけあまりその場にそぐわない家具があった。青いビロード張りの寝椅子だ。大人二人がゆうにくつろいで座れる大きさで、優美にカーブした肘掛けと背もたれを持つそれは、実務を取り仕切るための書斎よりは、貴婦人が恋人に甘く官能的な言葉を囁くための私室に置かれていて然るべきものだった。
後ろ手に扉を閉めて立っているロザリンデに、椅子をくるりと回してこちらを向いたテオドールが声をかけた。
「待っていたよ、ロザリンデ。こっちに来てくれ」
「……」
毎回同じことを言われるのに、どうしても足が止まってしまう。テオドールの声に心なしか苛立ちが混じり、じっとりとした湿り気を帯びた粘っこい響きに変わった。
「ロザリンデ、分かってるだろう? さあ」
仕方なくロザリンデは部屋の奥へ進み、書斎机の前に立った。テオドールがゆっくりと立ち上がり、ロザリンデの前まで来ると、威圧するように彼女を見下ろした。
蛇のようなブルーグレーの瞳が獲物を捕らえる。
「……っ!」
不意にテオドールに両手を取られて、ロザリンドは思わず身体を強張らせた。テオドールはそんなロザリンデを弄ぶかのように右手をゆっくりと持ち上げて甲にキスをした。その間も彼はロザリンデから目を離さず、上目遣いにニヤリと不敵な笑みを浮かべていた。
離れ、と言うほどではないが、廊下を曲がったところに位置しているのと重い扉で隔てられていることもあり、子供達や使用人の声はほとんど届かず、一歩足を踏み入れるとそこには静寂が広がっている。
自室に戻っていたロザリンデはのろのろと立ち上がった。重い足取りで書斎へ向かう。途中、マティルダと子供達が使っている寝室の前を通り過ぎたが、あたりは静まり返っていた。皆もうぐっすり眠っているらしい。少しヒールのあるサテン地の靴が足音を立てないかといつも少し気になるが、廊下にはぶ厚い絨毯が敷き詰められているのでその心配はなさそうだ。
小さなランプの灯りを頼りに扉の前までたどり着くと、思わず大きな溜息が漏れた。この先に何が待っているかも、逃げたくても逃げられないことももう十分すぎるほど分かっていた。ロザリンデの脳裏にいつも疲れた表情で椅子に座り込んでいる姉マティルダと、母を慕う甥や姪の心配そうな顔が甦ってきた。
(そう、これは子爵家とあの子達を守るためよ。お姉様は立派にご自分の役割を果たされているわ。わたくしだけ与えられた生活に胡坐をかいていてはいけないのよ……だから耐えなければ……しっかりしなさいロザリンデ、皆のために……)
ロザリンデは青ざめた顔を上げると、小さく扉をノックして、返事が返ってくるのを待った。
「どうぞ」
彫刻の施された大きな扉を開けて書斎に入ると、テオドールは扉に背を向ける形でデスクの前に腰かけていた。壁一面に造りつけられた本棚、マホガニーの書斎机、革張りの大きな肘掛け椅子。それだけ見ればどこにでもある貴族の当主の書斎だが、一つだけあまりその場にそぐわない家具があった。青いビロード張りの寝椅子だ。大人二人がゆうにくつろいで座れる大きさで、優美にカーブした肘掛けと背もたれを持つそれは、実務を取り仕切るための書斎よりは、貴婦人が恋人に甘く官能的な言葉を囁くための私室に置かれていて然るべきものだった。
後ろ手に扉を閉めて立っているロザリンデに、椅子をくるりと回してこちらを向いたテオドールが声をかけた。
「待っていたよ、ロザリンデ。こっちに来てくれ」
「……」
毎回同じことを言われるのに、どうしても足が止まってしまう。テオドールの声に心なしか苛立ちが混じり、じっとりとした湿り気を帯びた粘っこい響きに変わった。
「ロザリンデ、分かってるだろう? さあ」
仕方なくロザリンデは部屋の奥へ進み、書斎机の前に立った。テオドールがゆっくりと立ち上がり、ロザリンデの前まで来ると、威圧するように彼女を見下ろした。
蛇のようなブルーグレーの瞳が獲物を捕らえる。
「……っ!」
不意にテオドールに両手を取られて、ロザリンドは思わず身体を強張らせた。テオドールはそんなロザリンデを弄ぶかのように右手をゆっくりと持ち上げて甲にキスをした。その間も彼はロザリンデから目を離さず、上目遣いにニヤリと不敵な笑みを浮かべていた。
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