ロザリンデのいつわりの薔薇 ~駆け落ち寸前に別れたあなたは侯爵家の跡取りでした~

碓氷シモン

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第三章

episode_20 ここにいなさい

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 安物の香水と白粉おしろいの匂いが混じりあう娼館の小部屋でロザリンデ……いや、テレーゼを紹介された侯爵は、すぐに彼女が何か、それもかなりやっかいな理由わけありであることを見抜いた。だが何も訊かず静かに笑って、あなたさえ嫌でなければ、どうかこの老いぼれの面倒を見てやってはくれないかと頼んだ。もとよりテレーゼには断る理由などなかった。そこで侯爵はそのままテレーゼを屋敷に連れて帰った。更にそれから一か月ほど経ったある日、エーリッヒはテレーゼの手を握り、結婚してくれと言った。

 当然のことながら、テレーゼはその申し出を固辞したが、エーリッヒは諦めなかった。そんなご無理を仰るのならわたくしは今すぐここを出ていきますと言うテレーゼを、エーリッヒはこう説得した。

「テレーゼ、隠しても無駄だよ。あなたがずっとから逃げ続けていることも、この地に長く留まるつもりがないことも、私には分かっている。だが、ここを出て行ってどうすると言うのだね? また場末の娼館で身体からだを売るのかい? 悪いことは言わない、黙って私の妻になって、ここにいなさい」
「いけません、侯爵様、お気持ちには感謝しますが、わたくしに必要以上に肩入れなさってはいけません。わたくしは侯爵様にご迷惑をかけたくないのです。あの娼館から連れ出して下さっただけで十分すぎるほどですわ。もう何もおっしゃらないで下さいまし」
「あなたが何をそんなに恐れているのかは訊かないでおくが、私はこのグリッツェンランドの領主だ。だから心配しなくていい、私の妻としてここにいれば、私があなたを脅かすものから守ってあげられるだろう」
「ありがとうございます……でもわたくしは、あなたのご恩に報いることができません。わたくしは……」
「それ以上言わなくていい、テレーゼ。ならば、一つ頼みがある。……私が死ぬ時に、枕元で手を握って、エーリッヒと名前を呼んで欲しい。それさえ叶えてくれれば、私は十分だよ」

 エーリッヒの言葉に、テレーゼは涙をぽろぽろとこぼしながら頷いた。エーリッヒはそれ以上テレーゼの過去を詮索しようとはしなかったが、ただ一つだけ、本当の名前を教えてほしいと言った。長い沈黙の後で、テレーゼはロザリンデという名を久しぶりに口にした。

「ロザリンデ……あなたに相応ふさわしい、美しい名だ」
「ありがとう、エーリッヒ。でも約束して、決してその名を口にしないと」
「分かったよ、約束しよう、テレーゼ。でも時々でいいから、二人きりの時にはロザリンデと呼ばせてくれないか」
「いいえ、ロザリンデは死んだのです。あなたの妻の名はテレーゼよ。お願い」
「……そうか。ならば、そういうことにしておこう。安心しなさい、私もだてに年を取ってるわけじゃない。人間誰にでも一つや二つ、墓の中まで持っていきたいことがあるものさ」

 こうしてロザリンデはテレーゼ・リンデーホルフ侯爵夫人となった。婚約パーティーも結婚式もない、ひっそりとした婚姻だった。それから半年、侯爵の健康がすぐれないことを理由に夫妻はほとんどの社交から距離を置き、人々の噂に背を向けて日々を送った。幸い、グリッツェンランドにおいてリンデーホルフ家は代々善政を敷いていたので、侯爵が第一線から退いてもさほど問題は起こらなかった。

 ただ一つ、皆が危惧していたのは、次期リンデーホルフ侯爵の不在だった。エーリッヒは前妻との間に息子を一人授かったが、運悪く十年ほど前、エーリッヒから家督を譲られる前に亡くなってしまった。だが、このままではリンデーホルフ家もかのムーア子爵家と同じく断絶の憂き目に遭ってしまうというのに、未だにエーリッヒは後継者を指名していなかった。
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