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靴職人ヨハンの愛
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靴職人ヨハンは、どこにでもいるごくごく普通の男だった。
中肉中背に茶色の髪、茶色の瞳。顔立ちも取り立てて眉目秀麗と言うわけではない。性格もとにかく真面目で控えめで、ただひたすらに仕事に忠実な、腕のいい靴職人だった。
ただ一つ、ヨハンには人と違う特殊な性癖があった。
ヨハンはなぜか女性の足に異常な執着心を燃やした。
幼児の頃は母親の、妹の、近所の幼馴染の足に、成長してからは往来を行き交う女性たちの足に。
女性たちは揃って足元が完全に隠れる長さのスカートを履いているので、普段はその靴を履いた足が白日の下に晒されることはない。だが時々何かの弾みで……例えば石畳の上にできた水たまりをよけようとする時、馬車に乗る時、彼女たちはさりげなくその長いスカートをたくし上げる。その時ほんの一瞬だけだが、秘められた身体の一部分が人目に晒される。ヨハンはその一瞬を求めて、日がな一日往来に面した窓辺にかじりついてひたすら人々の足元を眺め続け、しまいには何ぼーっと油を売ってるんだと父親に酷くぶたれた。
とりわけヨハンが好んだのは、貴婦人の足だった。
当時彼女たちの足は、足首まできっちりと包み込むブーツによって、完全に人の目から隠蔽されていた。それがヨハンの妄想を一層掻き立てた。
あの靴の下には、どんな足が隠されているのだろう。
見たい。この目で見たい。
……黒いボタンを一つ一つゆっくりと外して、まずブーツから踵を脱がせ、次に爪先まで一気に引き抜く。そこから現れるのは細い絹糸で編まれた、滑らかな靴下だ。破いてしまわないよう細心の注意を払いながら下に引きおろし、露わになったくるぶしの小ささを瞳に焼き付ける。貴婦人の顔に恥じらいの表情が浮かび、身をよじって逃れようとするが、ヨハンの手からは逃げられない。ブーツと同じように、靴下を踵から爪先のほうに向けて剥ぎ取る。固く窮屈な革の中で責め苦に耐えていたその足が外気に触れ、ふっと弛緩する。
ヨハンはまじまじとその足を凝視する。白く小さくふっくらと柔らかい足の裏と、恥ずかし気にその上に並ぶ五本の指と、桜色の爪。小さすぎても大きすぎても、指が長すぎても短すぎてもダメだ。彼の妄想はとどまるところを知らず、いつしか脳裏には理想の足がはっきりと形作られ、欲望の塊となって朝も夜も彼の心を苛むようになっていった。
そう、ヨハンはそのために靴職人になったのだ。いつか理想の足に巡り会って、その足のために靴を作りたい、ただそれだけのために。
一人前の靴職人として独り立ちして数年後、思いがけずその日は訪れた。
ある日ヨハンの工房に、一人の令嬢がやって来た。聞けばたまたま通りかかった馬車に水たまりの泥水を跳ね上げられて、スカートも靴もびしょ濡れになってしまったのだという。
ヨハンは令嬢の付き添いの老女にタオルを渡して、席を外そうとした。その時、靴を脱いだその足に文字通り目が釘付けになった。老女に半ば突き飛ばされるように部屋の外に出され、鼻の先で扉が音を立てて閉まっても、彼は雷に打たれたかのようにその場に立ち尽くすだけだった。
見つけた。
ようやく見つけた。
ヨハンはその令嬢の素性を必死になって探し、とある裕福な商人の一人娘であることを突き止めた。そんな家には当然のことながらお抱え靴職人がいて、ヨハンが付け入る隙などない。だがヨハンは迷わなかった。職人組合のお偉方に賄賂を贈り、四方八方手を尽くして、ついにその令嬢の靴を作る機会を手に入れた。ヨハンは涙を流さんばかりに喜んで神に感謝の祈りを捧げた。
令嬢の足は、ヨハンが夢の中で憧れ焦がれ、気も狂わんばかりに追い求めた、まさに理想そのものだった。彼は採寸のためにその足に触れた時、卒中の発作で倒れる一歩寸前であった。一通り採寸を済ませ、デザインを選んでもらおうとした時、付き添いの老女がこう言った。
「美しいお嬢様の婚礼の席にふさわしい靴を作りなさい。純白の婚礼衣装にぴったりと合う、豪華で優美な靴を」
ヨハンは一瞬で奈落の底に突き落とされた。
許さない、許さない。俺以外の男があの足に触れることなど、絶対に許さない。あの足を愛で、隅から隅までゆっくりと撫でまわし、小さな小指に接吻していいのは俺だけだ。誰にも渡すものか。あの足は、俺のためだけに存在しているはずなのに。他の誰かに渡してなどなるものか……。
胸を掻きむしって嘆き悶えるヨハンの視界の隅に、工房の壁にかけられた、鋭い刃を持つ小さな斧がちらりと映った。
それからしばらくして、あるセンセーショナルなニュースが新聞の社交欄に載った。
結婚を間近に控えたとある令嬢が何者かに拉致され、二日後、むごたらしい姿で見つかった。
その令嬢の両足は、足首から下が鋭い刃物で切断され、持ち去られていた。
医師たちの懸命な治療によって令嬢は一命をとりとめたが、彼女の精神は完全に破壊されてしまっていた。それから五年後、彼女は一度も正気を取り戻すことなく精神病院で息を引き取った。
その国には、ヨハンと言う名の、地方流しのとびきり腕のいい靴職人がいたという。
彼の作る靴の出来栄えに、人々は驚嘆した。なかでも作業中の彼の傍にいつも飾られている一足の婚礼用の靴の素晴らしさに、誰もが目を奪われた。
この上なく柔らかくしなやかな、最上級の象牙色のなめし革に、柔らかく光を反射する同じ色のシルクの縁取りと、足首まで規則的に配された、まるで真珠のようなくるみボタン。そして一番上には、花嫁に永遠の幸せを呼ぶと言い伝えのある、淡いブルーのリボンと、細やかに揺れるフリンジの飾り。
それはまさに人生の門出を彩るに相応しい、美しい靴だった。
人々はヨハンに、この靴は誰のものなのか尋ねた。そのたびに彼は静かに微笑んで、こう答えた。
私の花嫁の靴ですよ、と。
<完>
中肉中背に茶色の髪、茶色の瞳。顔立ちも取り立てて眉目秀麗と言うわけではない。性格もとにかく真面目で控えめで、ただひたすらに仕事に忠実な、腕のいい靴職人だった。
ただ一つ、ヨハンには人と違う特殊な性癖があった。
ヨハンはなぜか女性の足に異常な執着心を燃やした。
幼児の頃は母親の、妹の、近所の幼馴染の足に、成長してからは往来を行き交う女性たちの足に。
女性たちは揃って足元が完全に隠れる長さのスカートを履いているので、普段はその靴を履いた足が白日の下に晒されることはない。だが時々何かの弾みで……例えば石畳の上にできた水たまりをよけようとする時、馬車に乗る時、彼女たちはさりげなくその長いスカートをたくし上げる。その時ほんの一瞬だけだが、秘められた身体の一部分が人目に晒される。ヨハンはその一瞬を求めて、日がな一日往来に面した窓辺にかじりついてひたすら人々の足元を眺め続け、しまいには何ぼーっと油を売ってるんだと父親に酷くぶたれた。
とりわけヨハンが好んだのは、貴婦人の足だった。
当時彼女たちの足は、足首まできっちりと包み込むブーツによって、完全に人の目から隠蔽されていた。それがヨハンの妄想を一層掻き立てた。
あの靴の下には、どんな足が隠されているのだろう。
見たい。この目で見たい。
……黒いボタンを一つ一つゆっくりと外して、まずブーツから踵を脱がせ、次に爪先まで一気に引き抜く。そこから現れるのは細い絹糸で編まれた、滑らかな靴下だ。破いてしまわないよう細心の注意を払いながら下に引きおろし、露わになったくるぶしの小ささを瞳に焼き付ける。貴婦人の顔に恥じらいの表情が浮かび、身をよじって逃れようとするが、ヨハンの手からは逃げられない。ブーツと同じように、靴下を踵から爪先のほうに向けて剥ぎ取る。固く窮屈な革の中で責め苦に耐えていたその足が外気に触れ、ふっと弛緩する。
ヨハンはまじまじとその足を凝視する。白く小さくふっくらと柔らかい足の裏と、恥ずかし気にその上に並ぶ五本の指と、桜色の爪。小さすぎても大きすぎても、指が長すぎても短すぎてもダメだ。彼の妄想はとどまるところを知らず、いつしか脳裏には理想の足がはっきりと形作られ、欲望の塊となって朝も夜も彼の心を苛むようになっていった。
そう、ヨハンはそのために靴職人になったのだ。いつか理想の足に巡り会って、その足のために靴を作りたい、ただそれだけのために。
一人前の靴職人として独り立ちして数年後、思いがけずその日は訪れた。
ある日ヨハンの工房に、一人の令嬢がやって来た。聞けばたまたま通りかかった馬車に水たまりの泥水を跳ね上げられて、スカートも靴もびしょ濡れになってしまったのだという。
ヨハンは令嬢の付き添いの老女にタオルを渡して、席を外そうとした。その時、靴を脱いだその足に文字通り目が釘付けになった。老女に半ば突き飛ばされるように部屋の外に出され、鼻の先で扉が音を立てて閉まっても、彼は雷に打たれたかのようにその場に立ち尽くすだけだった。
見つけた。
ようやく見つけた。
ヨハンはその令嬢の素性を必死になって探し、とある裕福な商人の一人娘であることを突き止めた。そんな家には当然のことながらお抱え靴職人がいて、ヨハンが付け入る隙などない。だがヨハンは迷わなかった。職人組合のお偉方に賄賂を贈り、四方八方手を尽くして、ついにその令嬢の靴を作る機会を手に入れた。ヨハンは涙を流さんばかりに喜んで神に感謝の祈りを捧げた。
令嬢の足は、ヨハンが夢の中で憧れ焦がれ、気も狂わんばかりに追い求めた、まさに理想そのものだった。彼は採寸のためにその足に触れた時、卒中の発作で倒れる一歩寸前であった。一通り採寸を済ませ、デザインを選んでもらおうとした時、付き添いの老女がこう言った。
「美しいお嬢様の婚礼の席にふさわしい靴を作りなさい。純白の婚礼衣装にぴったりと合う、豪華で優美な靴を」
ヨハンは一瞬で奈落の底に突き落とされた。
許さない、許さない。俺以外の男があの足に触れることなど、絶対に許さない。あの足を愛で、隅から隅までゆっくりと撫でまわし、小さな小指に接吻していいのは俺だけだ。誰にも渡すものか。あの足は、俺のためだけに存在しているはずなのに。他の誰かに渡してなどなるものか……。
胸を掻きむしって嘆き悶えるヨハンの視界の隅に、工房の壁にかけられた、鋭い刃を持つ小さな斧がちらりと映った。
それからしばらくして、あるセンセーショナルなニュースが新聞の社交欄に載った。
結婚を間近に控えたとある令嬢が何者かに拉致され、二日後、むごたらしい姿で見つかった。
その令嬢の両足は、足首から下が鋭い刃物で切断され、持ち去られていた。
医師たちの懸命な治療によって令嬢は一命をとりとめたが、彼女の精神は完全に破壊されてしまっていた。それから五年後、彼女は一度も正気を取り戻すことなく精神病院で息を引き取った。
その国には、ヨハンと言う名の、地方流しのとびきり腕のいい靴職人がいたという。
彼の作る靴の出来栄えに、人々は驚嘆した。なかでも作業中の彼の傍にいつも飾られている一足の婚礼用の靴の素晴らしさに、誰もが目を奪われた。
この上なく柔らかくしなやかな、最上級の象牙色のなめし革に、柔らかく光を反射する同じ色のシルクの縁取りと、足首まで規則的に配された、まるで真珠のようなくるみボタン。そして一番上には、花嫁に永遠の幸せを呼ぶと言い伝えのある、淡いブルーのリボンと、細やかに揺れるフリンジの飾り。
それはまさに人生の門出を彩るに相応しい、美しい靴だった。
人々はヨハンに、この靴は誰のものなのか尋ねた。そのたびに彼は静かに微笑んで、こう答えた。
私の花嫁の靴ですよ、と。
<完>
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