百合短編集

南條 綾

文字の大きさ
35 / 89

35 さよならじゃないからね

しおりを挟む
 デート中の彼女がここまで上の空なのは、初めてだった。

 土曜の午後、駅前のカフェの窓際。
期間限定って書いてあった苺パフェの苺を、一個ずつスプーンでつぶしながら、私は目の前の恋人をちらちら盗み見ていた。

かな、聞いてる?」
「……ん。聞いてるよ」

 返事はするけど、目はどこか遠くを見ていた。
グラスの水面をぼんやり眺めて、指先で小さくリズムを刻んでいる。
頭の中で何かを数えているみたいな顔。
ピアノのことを考えてるときの顔だなって、すぐ分かった。
小さいころからずっと続けてる、彼女の一番大事なもの。
幼稚園からの幼なじみだから、そういうのはすぐ分かる。
だけど今日は久しぶりのデートなんだから、私の方を見てほしい。

「最近、元気ないよね」

「そうかな」

「そうだよ。レッスンのあと、LINE返すのも遅いし」

「……ごめん」

 そこでやっと、奏が私の方を見た。
長いまつげの影が、テーブルに落ちる。
ちゃんと目が合ってるのに、心だけはまだどこか遠くにいるみたいで、不安で胸が押しつぶされそうになった。

「何かあったなら、言ってよ。私じゃ相談相手にならない?」
自分で言いながら、声がどんどん小さくなっていった。
ここで「綾に話しても意味ない」とか言われたらどうしよう。

「言おうと思ってた。……今日こそ言わなきゃって」

 奏がストローをいじっていた手を、ぎゅっと握りしめた。
氷がカランと鳴る。

「たぶん、留学することになる」
「……え?」

 頭の中のリズムが、一拍ずれたみたいだった。
聞き間違いだと思いたかったのに、奏の目は本気だった。

「ヨーロッパの音楽院。コンクールの先生が推薦してくれて、試験受けて、もし受かったら……向こうで数年、勉強することになる」

「数年って」
突然のことでびっくりはしたけど、何とかそれだけは聞き返せた。

「三年、とか。それくらい」

 空調の音だけが、やけに大きく聞こえた。
隣の席の笑い声も、窓の外を走るバスのエンジン音も、一瞬遠のく。

「すごいじゃん」
口が勝手に動いた。

「夢だったんでしょ。小学生の頃から言ってたじゃん。海外でピアノ勉強したいって」

本当は今すぐ泣き叫びたいのに、口から出てくるのはこんな言葉ばっかりだ。
それでも奏の夢だから、反射みたいに背中を押すことしかできない。
多分、嬉しい気持ちもちゃんとある。だけど、その嬉しさと一緒に、喉の奥がひりひりしていた。

「……うん」

「だったら、行かなきゃ」
息を吸い込むみたいに、言葉を吐き出す。

「そんなチャンス、そうそう来ないし。行かない方がおかしいよ」
誰にでも回ってくる話じゃない。もしかしたら一生に一度のチャンスかもしれない。
なのに私は、どうしてこんなに必死で背中を押してるんだろう。

 それが正論だって分かってた。
正しいことを言えば、全部守れる気がした。
奏の夢も、未来も、その中にいる私も。
でも、奏の顔は全然嬉しそうじゃなかった。

「綾は、絶対にそう言うと思った」

「え?」

「綾は絶対そう言う。『夢なんだから行きなよ』って」
奏は笑ったけど、その目は少し悲しそうで、それでいて責めるみたいな視線でじっとこっちを見てきた。

「ねえ、本当にそれでいいの?」

「いいに決まってるじゃん。夢なんだよ?」

「じゃあ、綾はいらないってこと?」

「は?何でそこで私が出てくるの?奏が」

心臓のあたりを、素手で殴られたみたいだった。

「綾が背中押してくれてるの分かってるよ。優しいもん。でもさ、それって結局『私は平気だから、行っておいで』ってことじゃん」

 何が言いたいの?
奏が言いたいことがわからない。
悲しいことは悲しいけど、私のせいで奏の夢をつぶすなんてできないのに。
これは言わないといけないことだと思った。
 「私、卑怯だよね」

「……なんでそうなるの?」

「綾がそばにいるとさ、自分で決めるのが怖くなるの。なんでも綾の一言を待っちゃう。本当は自分で選ばなきゃいけないのに」

言いながら、奏の目に涙がたまっていった。

「本当は『行かないで』って言ってほしいくせに。そんなこと言わないの、知ってるのに。綾は……綾だもん」

「……何それ。私が行かないでって言っても、どうしようもないじゃん。馬鹿じゃないの?」

 胸の中に、じわじわ熱が広がる。
なに言ってるの、って心の中で毒づいた。
奏が感情的になってるなら、本当は私が冷静でいなきゃいけないのに。
悩んでるのは私のせいって言いたいわけ?
そう思った瞬間、こっちの感情の方がどんどん暴走していって、自分でももう止められなくなっていた。

声が少しずつ大きくなっていくのが、自分でも分かった。
店員さんがちらっとこっちを見るのが分かったけど、それでももう止まらない。

「素直に『夢追いかけて』って言えば『冷たい』って言われるし、『行かないでほしい』って言ったら今度は重いって言うんでしょ。どっちにしても文句言うじゃん。私が奏の夢を邪魔してるみたいじゃん」

言いながら、自分でも何言ってるのか分かんなくなってきた。
どう言えば正解だったのかなんて、最初から分かってないくせに。

「じゃあ何? 私はどうすればよかったの? どうしてほしいのかくらい教えてよ」

言い終わった瞬間、空気が一気に冷えた気がした。
奏がびくっと肩を震わせる。

「ごめん。……今日は帰る」

 言い過ぎたと思った瞬間、椅子を引く音がやけに大きく響いた。
奏はお金をテーブルに置いて、ほとんど走るみたいな勢いで店を出ていった。
テーブルの上に残された苺パフェは、もうすっかり溶けていた。

 それから数日、私たちはほとんど口をきかなかった。
学校では普通に顔を合わせる。
でも、話しかけたらどこか壊れそうで、私はわざと友達としゃべるふりをして、奏の視線から逃げた。

 夜、布団の中でスマホの画面を見つめる。
メッセージアプリの一番上には「奏」の名前。
打っては消して、打っては消して、結局「おやすみ」すら送れないまま画面を伏せた。

 本当はあの日、「行ってほしくない」って言いたかった。
夢と私を天秤にかけたら、迷わず私を選んでほしいなんて、ずるいことも思った。
でも、そんなこと口にしたら、奏の世界を狭くしてしまいそうで、怖かった。
正しいことばっかり選んできた結果が、これか。
自分で自分を殴りたくなった。

 放課後、音楽室の前を通りかかったとき、中からピアノの音が聞こえた。
ドアのガラス越しに、奏の横顔が見えた。
眉間にしわを寄せて、鍵盤を睨みつけるように弾いていた。
その指が、途中でぴたりと止まる。
肩が震える。
音の途切れた空間に、見えない涙の音が落ちた気がした。

 逃げてるのは、どっちなんだろう。
奏の夢から目をそらしてるのか。
それとも、自分の本音から逃げてるのか。
分かってしまった瞬間、足が勝手に動いていた。

 私はドアノブをつかんで、そのまま扉を開けた。
夕方の光が差し込む音楽室の中で、グランドピアノの前に小さく座り込んでいる奏だけが、ぽつんと残っていた。

「奏」

「……綾」

 振り向いた奏の目元は、少し赤かった。
私はドアを閉めて、ピアノのそばまで歩いていく。

「この前は、ごめん。怒鳴って」

「私も、ごめん。変な言い方して」

 謝っても、間にある空気はすぐに元通りにはならない。
だけど、少なくとも逃げるのはやめようと思った。

「ちゃんと本音言うから、笑わないで聞いて」

「笑わないよ」

「じゃあ、先に言うね」

 息を吸う。胸の奥がじんじん痛い。
その痛みごと抱きしめるみたいに、言葉を引っ張り出した。

「留学してほしい」

「……うん」

「でも、行ってほしくない」
奏の瞳が揺れた。

「夢を諦めてほしくないし、離れたくない。本当は、空港のゲートの前で『やっぱやめる』って言って戻ってきてほしいくらいだよ」
言ってから、自分で笑ってしまった。

「なんかさ、綾らしくないなって思った」

「なにそれ?」

「でも、なんか新鮮で……また好きになっちゃった」

「もう」

 少し笑って、すぐ真顔に戻る。

「奏が怒った理由、少し分かった気がする」

「え?」

「私が勝手に、聞こえのいい言葉でごまかして、本心ちゃんと見せてなかった」

「綾……」

「だからさ。ちゃんと言うよ」

私は一歩近づいて、奏の手をそっと握った。
ピアノを弾きすぎて、少し硬くなった指先が、ひんやりしている。

「寂しいから行かないでほしい。だけど、奏の夢は応援したいから、一緒にさ、悩もう。一人で決めなくていい。二人でずっと悩んで、最後に二人で納得して決めよう」

「二人で?」

「そう。私も勝手に『いいよ』って譲らないし、奏も一人で我慢しないの。その代わり、決めたら後悔しないって約束する。どうかな?」

 奏がぎゅっと私の手を握り返した。
涙でにじんだ目の奥に、少しだけ光が戻る。

「綾のそういうとこ、ずるいと思う」

「またずるいって言われた。どうすればいいの」

「でもね、そんな綾が好き」

 その一言で、音楽室の空気が少し柔らかくなった気がした。

「私も奏のこと大好きだよ。……で、奏はどうするの?」

「うん、試験受けてみる」

 奏が小さく笑ってくれた。 

「受かったら、本気で悩もう。それでも綾が『行っていい』って言ってくれたら、行く。でもね、そのときは、綾も『寂しい』って言ってほしい」

「受かってよかったねって言うよ。でもそのあと、めちゃくちゃ泣く自信ある」

「たぶん私も同じくらい、うれしさと悲しさが混じった感じで泣いちゃうと思う」

 自然とふたりで笑った。
涙と笑いがごちゃ混ぜになった、変な笑い方だったけど、さっきまでの重さが少し軽くなった気がした。
これでよかったんだって、ちょっとだけ思えた。

奏の受験の日が来て、結果が出るまでの時間は、正直地獄だった。
勉強なんて頭に入らないし、スマホが鳴るたびに心臓が跳ねて、びくびくしていた。

結果発表の日。
放課後の廊下で、奏が走ってきて、そのまま私の胸に飛び込んできた。

「受かった」

「……そっか」

「綾のせいだよ」

「なんで私のせいなの?」

「綾が『試験受けてみなよ』って言ったから」

「それ、私のせいじゃなくて奏の実力じゃん」

「うるさい」
めちゃくちゃ理不尽に怒られてしまった。
奏は私の制服をぎゅっと掴んできた。

「空港まで、来てくれる?」

「行くに決まってるじゃん」

 出発の日は、少し曇っていた。
空港のガラス越しに見える滑走路は薄い灰色で、どこか世界の終わりみたいに見えた。
チェックインカウンターの前で、奏のスーツケースに貼られたタグが揺れている。背中にはリュック。

「なんか、実感わかないね」

 本当に、ただの海外旅行みたいだった。
このまま数日後には「お土産買ってきたよ」って言いながら帰ってきそうなのに、最低三年間はいなくなるんだって思うと、胸のあたりがじんわりさみしくなった。

「本当にね。まだ帰りの電車に乗れそう」

「じゃあ帰る?」

「怒るよ?」

 お互いの顔を見て、ふっと笑いあった。
アナウンスが流れた。
言葉の意味は分かるのに、頭のどこかが拒否していた。

「綾」

「ん」

「最後に、お願いしていい?」

「何」

「『行かないで』って言って」

冗談みたいな声だったけど、目は本気だった。 

 私は一度目を閉じて、肺の中の空気を全部入れ替える。
それから、ちゃんと奏の顔を見る。

「行かないで。ずっとここにいてよ」
言葉にした瞬間、胸の奥がぐちゃぐちゃになった。

「だけどさ、行ってらっしゃい。そして、私の元に戻ってこないって選択肢は、許さないからね」
私は精いっぱいおどけた感じで、そう言ってみせた。

「やっぱりそう来ると思った」
奏が、泣き笑いみたいな顔をする。

「綾も言って。『待ってる』って」

「さっき言ったじゃん。戻ってこないのは許さないって。でも、ちゃんと待ってるからね」
どんどん涙があふれてきた。

「うん」
奏の目にも、たくさんの涙がたまっていた。

 奏が一歩近づいた。
空港のざわめきの中で、私たちだけが静止画みたいに止まった。

「綾、好き」

「うん。私は愛してるよ」

 誰かの視線なんて気にしないことにして、私は奏を抱きしめた。
細い肩が震える。
スーツケースのキャスターが、じわじわと私の足首に当たる。

「行ってくるね」

「うん、行ってらっしゃい」

「もう、泣かないでよ」

「無理。そっちもでしょ」

「……仕方ないでしょ」

 離れて、ぐしゃぐしゃの顔で笑い合った。
ゲートの手前で、奏が大きく手を振る。

 「さよなら、じゃないからね」

「うん。またね」

 奏の背中が人の波に飲まれて見えなくなるまで、私はずっとその場から動けなかった。
最後にちらっとだけ振り返った横顔が、頭の中で何度も再生される。
帰りの電車の中、窓に映る自分の顔は、泣きはらした目をしていたけど、不思議と少しだけ前を向いているようにも見えた。

 私も、奏に恥じないように頑張ろうと思った。
お互いがまた会えたときには、今よりちょっとだけ素敵な私でいられるように。

 離れたって、終わりじゃない。
これは、お互いが成長して、もう一度手を取り合って前に進むための、ちょっとだけのお別れ。
帰国したら、かならず言おう。

「おかえりなさい、奏。愛してるよ。これから一緒になろうね」
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

白雪様とふたりぐらし

南條 綾
恋愛
高校1年生の紫微綾は、生きることに疲れ、雪の山で自らの命を終えようとしたその瞬間―― 美しい御小女郎姿の少女・白雪が現れ、優しく彼女を救う。 白雪は実は古の仏神・ダキニ天の化身。暇つぶしに人間界に降りた彼女は、綾に「一緒に暮らそう」と提案し……? 銀髪の少女と神様の、甘く温かなふたりぐらしが始まる。 【注意事項】 本作はフィクションです。 実在の人物・団体・宗教・儀礼・場所・出来事とは一切関係ありません。 作中で登場する神仏や信仰に関する表現は、物語の雰囲気づくりを目的とした創作によるものであり、特定の宗教や思想を推進・否定する意図は一切ございません。 純粋なエンターテイメントとしてお楽しみいただければ幸いです。

落ち込んでいたら綺麗なお姉さんにナンパされてお持ち帰りされた話

水無瀬雨音
恋愛
実家の花屋で働く璃子。落ち込んでいたら綺麗なお姉さんに花束をプレゼントされ……? 恋の始まりの話。

百合ランジェリーカフェにようこそ!

楠富 つかさ
青春
 主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?  ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!! ※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。 表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。

彼の言いなりになってしまう私

守 秀斗
恋愛
マンションで同棲している山野井恭子(26才)と辻村弘(26才)。でも、最近、恭子は弘がやたら過激な行為をしてくると感じているのだが……。

夫婦交換

山田森湖
恋愛
好奇心から始まった一週間の“夫婦交換”。そこで出会った新鮮なときめき

ちょっと大人な物語はこちらです

神崎 未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない ちょっと大人な短編物語集です。 日常に突然訪れる刺激的な体験。 少し非日常を覗いてみませんか? あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ? ※本作品ではGemini PRO、Pixai.artで作成した生成AI画像ならびに  Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。 ※不定期更新です。 ※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。

危険な残業

詩織
恋愛
いつも残業の多い奈津美。そこにある人が現れいつもの残業でなくなる

淫らに、咲き乱れる

あるまん
恋愛
軽蔑してた、筈なのに。

処理中です...