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36 名前を呼んで 〜雪降る屋敷の片隅で〜
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雪が降り始めたのは、十二月の半ばだった。
暖炉の火がぱちぱち鳴って、赤い光が部屋の中を揺らしている。
外はきっと凍えるくらい冷えているのに、この部屋だけが別の世界みたいにあたたかい。
三回、軽いノックが扉越しに響いた。
いつもの音、いつものリズム。私の部屋を叩くのは、だいたい決まった顔ぶれだ。
ただ今日は、そのノックがいつもより少しだけ早かった。
「お入りなさい」
扉が開いて、エリザベスが入ってきた。
この屋敷に来て、まだ三ヶ月くらいの新しいメイドだ。
栗色の髪をきっちり結い上げて、灰色の瞳を伏せたまま、銀の盆を抱えている。
「お茶をお持ちしました、お嬢様」
覚えた言葉をきちんと並べたみたいな、整った言い方だ。
それなのに、その声を聞くだけで、胸の奥の固まっていたものが少しゆるむ。
少し前から、エリザベスがたびたび私の世話をするようになって、夜になるたびに枕を涙で濡らしていた日々が、少しずつ減ってきた。
盆がサイドテーブルに置かれる。
ふわっと紅茶の香りが広がった。ダージリンだとすぐわかった。私がいちばん好きな茶葉だ。
覚えていてくれていたんだと思うと、胸の奥がじんわりあたたかくなる。
本を閉じて、ソファから立ち上がる。ドレスの裾が床を擦って、その音が静かな部屋にやけに大きく響いた。
「エリザベス」
「はい、お嬢様」
「今日は、雪が降っているわね」
私は窓の外を視線で示して、そのまま彼女の横に並んだ。
肩が触れそうな距離。エリザベスの身体が一瞬だけこわばるのが、すぐ横でわかった。
「……はい。とても綺麗です」
「あなたも、見に来ていいわよ」
そう言って、そのまま彼女の手を取った。
本当は、伯爵家の令嬢がメイドの手なんて、みだりに触れてはいけない。
お父様に見られたら、きっとまた長い説教になる。
それでも、冷たい指先が小さく震えているのがわかったら、放っておけなかった。
彼女の手を引いたまま、窓のそばまで歩く。
庭園も、遠くの丘も、もう輪郭が溶けている。世界がゆっくり白に塗りつぶされていく。
「寒いの?」
「……少し」
私は肩からショールを外して、そのまま彼女の肩にかけた。
柔らかな毛糸の感触が重なった瞬間、エリザベスの肩がびくっと跳ねる。
「お嬢様、これは……」
「あなたにあげる」
そう言いながら、そっと指先で彼女の頬に触れた。
ひやりと冷たい。思わず息が止まる。
私の手のひらに、ゆっくりと体温が戻ってきていた。
「アヤ、と呼んでいいわよ。二人きりのときは」
その瞬間、灰色の瞳がぱっと私を捉えた。
驚きと怯えが混ざった色の奥で、細い光が揺れる。
「……アヤ、様」
「様はいらない」
一度指をほどいて、もう一度、今度はちゃんと絡め直す。
外の雪はさっきより激しくなって、窓ガラスに白い花みたいな模様を咲かせていた。
この屋敷で、誰も私を名前で呼ばない。
父はいつも「娘」。
使用人たちは決まって「お嬢様」。
私はちゃんとここにいるのに。
息をして、ご飯を食べて、眠って、また朝を迎えているのに。
それでも、私という人間だけが、この屋敷から抜け落ちているみたいに感じる。
だから、エリザベスの震える声で「アヤ」と呼ばれたとき、胸の奥がじんと熱くなった。
やっと、この世界のどこかに、自分の居場所がひとつできた気がした。
暖炉の火がぱちりと音を立てる。
雪はまだ降り続いている。
私は彼女の手を、さっきより少し強く握り返した。
これから先、何年この屋敷に閉じ込められるのかなんて、正直考えたくない。
でも、少なくとも今夜は、私にはエリザベスがいる。
それだけで、この寒い屋敷の夜が、少しだけあたたかくなった気がした。
暖炉の火がぱちぱち鳴って、赤い光が部屋の中を揺らしている。
外はきっと凍えるくらい冷えているのに、この部屋だけが別の世界みたいにあたたかい。
三回、軽いノックが扉越しに響いた。
いつもの音、いつものリズム。私の部屋を叩くのは、だいたい決まった顔ぶれだ。
ただ今日は、そのノックがいつもより少しだけ早かった。
「お入りなさい」
扉が開いて、エリザベスが入ってきた。
この屋敷に来て、まだ三ヶ月くらいの新しいメイドだ。
栗色の髪をきっちり結い上げて、灰色の瞳を伏せたまま、銀の盆を抱えている。
「お茶をお持ちしました、お嬢様」
覚えた言葉をきちんと並べたみたいな、整った言い方だ。
それなのに、その声を聞くだけで、胸の奥の固まっていたものが少しゆるむ。
少し前から、エリザベスがたびたび私の世話をするようになって、夜になるたびに枕を涙で濡らしていた日々が、少しずつ減ってきた。
盆がサイドテーブルに置かれる。
ふわっと紅茶の香りが広がった。ダージリンだとすぐわかった。私がいちばん好きな茶葉だ。
覚えていてくれていたんだと思うと、胸の奥がじんわりあたたかくなる。
本を閉じて、ソファから立ち上がる。ドレスの裾が床を擦って、その音が静かな部屋にやけに大きく響いた。
「エリザベス」
「はい、お嬢様」
「今日は、雪が降っているわね」
私は窓の外を視線で示して、そのまま彼女の横に並んだ。
肩が触れそうな距離。エリザベスの身体が一瞬だけこわばるのが、すぐ横でわかった。
「……はい。とても綺麗です」
「あなたも、見に来ていいわよ」
そう言って、そのまま彼女の手を取った。
本当は、伯爵家の令嬢がメイドの手なんて、みだりに触れてはいけない。
お父様に見られたら、きっとまた長い説教になる。
それでも、冷たい指先が小さく震えているのがわかったら、放っておけなかった。
彼女の手を引いたまま、窓のそばまで歩く。
庭園も、遠くの丘も、もう輪郭が溶けている。世界がゆっくり白に塗りつぶされていく。
「寒いの?」
「……少し」
私は肩からショールを外して、そのまま彼女の肩にかけた。
柔らかな毛糸の感触が重なった瞬間、エリザベスの肩がびくっと跳ねる。
「お嬢様、これは……」
「あなたにあげる」
そう言いながら、そっと指先で彼女の頬に触れた。
ひやりと冷たい。思わず息が止まる。
私の手のひらに、ゆっくりと体温が戻ってきていた。
「アヤ、と呼んでいいわよ。二人きりのときは」
その瞬間、灰色の瞳がぱっと私を捉えた。
驚きと怯えが混ざった色の奥で、細い光が揺れる。
「……アヤ、様」
「様はいらない」
一度指をほどいて、もう一度、今度はちゃんと絡め直す。
外の雪はさっきより激しくなって、窓ガラスに白い花みたいな模様を咲かせていた。
この屋敷で、誰も私を名前で呼ばない。
父はいつも「娘」。
使用人たちは決まって「お嬢様」。
私はちゃんとここにいるのに。
息をして、ご飯を食べて、眠って、また朝を迎えているのに。
それでも、私という人間だけが、この屋敷から抜け落ちているみたいに感じる。
だから、エリザベスの震える声で「アヤ」と呼ばれたとき、胸の奥がじんと熱くなった。
やっと、この世界のどこかに、自分の居場所がひとつできた気がした。
暖炉の火がぱちりと音を立てる。
雪はまだ降り続いている。
私は彼女の手を、さっきより少し強く握り返した。
これから先、何年この屋敷に閉じ込められるのかなんて、正直考えたくない。
でも、少なくとも今夜は、私にはエリザベスがいる。
それだけで、この寒い屋敷の夜が、少しだけあたたかくなった気がした。
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