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38 もう離さない・・・目覚めたあなたへ
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病室のドアを開ける瞬間、いつも胸の奥がきりきり痛む。
廊下の蛍光灯がチカチカしていて、その白い光がやけに冷たく見える。
ドアノブに触れた指先は、今日も震えていた。
今日こそ何かが変わってほしいって願うくせに、頭の中では最悪な光景ばかり並べてしまう。
病室に入る一歩目がどうしても重い。
5年と少し。
ほぼ毎日続けている「面会」という名前の、ほとんど祈りみたいな日課。
最初の頃は、消毒液の匂いを嗅ぐだけで吐きそうになってたのに、今はもう鼻が麻痺して何も感じなくなった。
人間って、どんな地獄にも慣れるんだなって、ここに来るたびに思う。
ドアを閉めて、小さく息を吐く。
モニターの電子音が一定のリズムで鳴っていて、それがこの部屋の時計みたいだった。
ベッドの横の椅子に腰を下ろす。
いつもの位置。
栞が右手で私の髪をくしゃっと撫でてくれたとき、一番近くにいられる場所。
気づけば、ここが私の定位置になっていた。
「……おはよう」
今日も、いつも通り声をかける。返事はないけど、それでいい。
返事がなくても、私は毎日話しかけるって決めたから。
それをやめたら、全部終わっちゃう気がするから。
窓の外にふと目をやる。
カーテンの隙間から、どんより曇った空が見えた。
そういえば、もう冬だったんだなって気づいた。
5年前の事故の日も、こんな空だった。
あのとき、私はあなたの手を握れなかった。
救急車の中で、意識を失っていくあなたを、ただ見ていることしかできなかった。
涙でぐちゃぐちゃになりながら名前を呼ぶ私に、栞は震える声で言った。
「綾、怖いよ……死にたくない。綾と……一緒にいたい……」
その声が、今でも耳の奥でずっと鳴ってる。
時間が経っても薄まるどころか、むしろ鮮明になっていく。
ごめんね。あのとき、もっと強く握ればよかった。
「離さない」って、ちゃんと言えばよかった。
そうしてたら、あなたをこんな目に遭わせずに済んだのかもしれないって。
考えても仕方ないって分かってるのに、頭の中ではそのことばっかり浮かんできていた。
私は指先で、あなたの頬をそっとなぞる。
ほんの少し、痩せた気がするけど、肌の柔らかさは変わっていない。
5年前にキスした場所。
ここに唇を押し当てると、あなたはいつも「くすぐったい」って笑ってくれた。
あの笑い声が、喉の奥に刺さったまま抜けない。
私のほほから涙が一粒、栞のおでこに落ちた。
そういえば、なんだか今日は何かが違う気がする。
そうだ、手のひらに伝わる体温が、いつもより少しだけ高い気がする。
「……ねぇ」 震える声で、そっと呼びかける。
「今日も来たよ。昨日、私が言った続き、覚えてる? 目覚めたらさ、絶対一緒に温泉行こうって、約束したよね」
口に出した瞬間、胸の奥がぎゅっと締めつけられた。
こんな約束、普通なら成り立たないって分かってるんだけど。
それでも、約束しないと、未来のことを言わないと、壊れちゃいそうなの。
それでもできるだけ涙がこぼれそうになるのを、必死に堪える。
最初に見せるのが泣いたブスな顔を見せるのが嫌だったし。
栞が目を覚ましたとき、一番最初に見せたいのは笑顔を見せたいって思うじゃん。
いつも通りの私で「遅いんだよ、お寝坊さん」って強がってさ。
全然強くないのにね。
でも、ダメだった。
涙が自然と溢れてしまう。
こんなに彼女を泣かす栞が悪いんだよ。
「寒いよね。もうすぐクリスマスだよ。あのときみたいに、ツリー飾りたいな……」
あの時は、一緒に買い物して、どっちのオーナメントがダサいかで笑ったクリスマスでさぁ。
キラキラ光るツリーの前で、少しだけ背伸びしてキスしたんだっけ。
周囲の目がある中でよくやったよね。
それが、今は病室の白い壁越しに見える遠い夢みたいに感じる。
ふと絡めていたあなたの指が、ほんの少し動いた気がして、胸がドキッとした。
……え?
一瞬、頭の中が真っ白になる。
幻覚だ。
きっとそう。
だって5年間、一度だって動いたことなんてない。
何度も「動いた気がした」って思ったけど。
そのたびに医者にも看護師さんにも「変化はありませんよ」と優しく首を振られてきた。
でも今確かに、今だけは違った。
栞の指が、弱々しく、でもはっきりと、私の指をぎゅっと締めつけた。
息が止まる。 視界がぐにゃっと歪む。 心臓の鼓動が、耳の中で爆音みたいに響く。
「……嘘」
掠れた声が、勝手に口からこぼれた。
「嘘でしょ……?」
まつげが震えた。
信じたくないのに、期待が一気に膨らんで、怖くなる。
ゆっくりと、ゆっくりと。
5年ぶりに、栞の瞳が開いていく。
乾いたまぶたの隙間から現れたのは、焦点の定まらない、けれど確かに生きている深い緑の瞳だった。
その瞳が、少し手間取るみたいに揺れながら、最後にはまっすぐ私をとらえる。
「…………綾?」
掠れた、小さな、小さな声。
それでも、私には世界で一番大きな音に聞こえた。
その瞬間、音を失っていた世界に、一気に色と音が戻ってきた。
モニターの電子音も、廊下の足音も、遠くのナースコールも、全部が「生きてる」って主張してるみたいに響く。
私は崩れ落ちるようにベッドにすがりついて、栞の身体に抱きついた。
5年分溜め込んでいた涙が、堰を切ったみたいに止まらなくなる。
「栞……ばかぁ。お寝坊助さんだよ、本当に……!」
喉が締めつけられて、うまく言葉にならない。
嗚咽でぐちゃぐちゃになった声を、栞はぼんやりした目で、それでもちゃんと私のものだと分かるみたいに見つめていた。
「もう離さない。絶対に離さないから……!」
震える腕でそう叫ぶ私の背中に、今度ははっきりと、栞の腕が回された。
その腕の温もりが、私に安心感を与えて、心の中にずっと抱えていた不安が少しずつ溶けていくのを感じた。
力は当然だけど、弱かった。
全然頼りないけど、そのぬくもりは、私の全部だった。
「……ごめん、待たせて」
掠れた声で、栞が言う。
5年間眠っていた喉から搾り出すみたいなその一言に、また胸が痛くなってしまう。
私は首を横に振った。 何度も、何度も。
「いいから……いいから。 ただ、帰ってきてくれて、それだけでいいから……最高のクリスマスプレゼントだよ」
涙と鼻水でぐちゃぐちゃになった顔なんて、本当は見せたくなかった。
でも、もうどうでもよかった。
だって、やっと。
やっと栞が、私のところに帰ってきてくれたんだから。
病室に、5年ぶりの「今ここにいる」っていう温もりが満ちていく。
外は相変わらず冬の寒空だけど、私の世界だけが、暖かい春になった感じがした。
これから先、どれだけ時間がかかってもいい。
リハビリがつらくても、記憶が曖昧でも、泣きたくなる夜が何度来ても、
私はもう、二度と栞を手放さない。
約束だよ。
今度こそ、ちゃんと。
廊下の蛍光灯がチカチカしていて、その白い光がやけに冷たく見える。
ドアノブに触れた指先は、今日も震えていた。
今日こそ何かが変わってほしいって願うくせに、頭の中では最悪な光景ばかり並べてしまう。
病室に入る一歩目がどうしても重い。
5年と少し。
ほぼ毎日続けている「面会」という名前の、ほとんど祈りみたいな日課。
最初の頃は、消毒液の匂いを嗅ぐだけで吐きそうになってたのに、今はもう鼻が麻痺して何も感じなくなった。
人間って、どんな地獄にも慣れるんだなって、ここに来るたびに思う。
ドアを閉めて、小さく息を吐く。
モニターの電子音が一定のリズムで鳴っていて、それがこの部屋の時計みたいだった。
ベッドの横の椅子に腰を下ろす。
いつもの位置。
栞が右手で私の髪をくしゃっと撫でてくれたとき、一番近くにいられる場所。
気づけば、ここが私の定位置になっていた。
「……おはよう」
今日も、いつも通り声をかける。返事はないけど、それでいい。
返事がなくても、私は毎日話しかけるって決めたから。
それをやめたら、全部終わっちゃう気がするから。
窓の外にふと目をやる。
カーテンの隙間から、どんより曇った空が見えた。
そういえば、もう冬だったんだなって気づいた。
5年前の事故の日も、こんな空だった。
あのとき、私はあなたの手を握れなかった。
救急車の中で、意識を失っていくあなたを、ただ見ていることしかできなかった。
涙でぐちゃぐちゃになりながら名前を呼ぶ私に、栞は震える声で言った。
「綾、怖いよ……死にたくない。綾と……一緒にいたい……」
その声が、今でも耳の奥でずっと鳴ってる。
時間が経っても薄まるどころか、むしろ鮮明になっていく。
ごめんね。あのとき、もっと強く握ればよかった。
「離さない」って、ちゃんと言えばよかった。
そうしてたら、あなたをこんな目に遭わせずに済んだのかもしれないって。
考えても仕方ないって分かってるのに、頭の中ではそのことばっかり浮かんできていた。
私は指先で、あなたの頬をそっとなぞる。
ほんの少し、痩せた気がするけど、肌の柔らかさは変わっていない。
5年前にキスした場所。
ここに唇を押し当てると、あなたはいつも「くすぐったい」って笑ってくれた。
あの笑い声が、喉の奥に刺さったまま抜けない。
私のほほから涙が一粒、栞のおでこに落ちた。
そういえば、なんだか今日は何かが違う気がする。
そうだ、手のひらに伝わる体温が、いつもより少しだけ高い気がする。
「……ねぇ」 震える声で、そっと呼びかける。
「今日も来たよ。昨日、私が言った続き、覚えてる? 目覚めたらさ、絶対一緒に温泉行こうって、約束したよね」
口に出した瞬間、胸の奥がぎゅっと締めつけられた。
こんな約束、普通なら成り立たないって分かってるんだけど。
それでも、約束しないと、未来のことを言わないと、壊れちゃいそうなの。
それでもできるだけ涙がこぼれそうになるのを、必死に堪える。
最初に見せるのが泣いたブスな顔を見せるのが嫌だったし。
栞が目を覚ましたとき、一番最初に見せたいのは笑顔を見せたいって思うじゃん。
いつも通りの私で「遅いんだよ、お寝坊さん」って強がってさ。
全然強くないのにね。
でも、ダメだった。
涙が自然と溢れてしまう。
こんなに彼女を泣かす栞が悪いんだよ。
「寒いよね。もうすぐクリスマスだよ。あのときみたいに、ツリー飾りたいな……」
あの時は、一緒に買い物して、どっちのオーナメントがダサいかで笑ったクリスマスでさぁ。
キラキラ光るツリーの前で、少しだけ背伸びしてキスしたんだっけ。
周囲の目がある中でよくやったよね。
それが、今は病室の白い壁越しに見える遠い夢みたいに感じる。
ふと絡めていたあなたの指が、ほんの少し動いた気がして、胸がドキッとした。
……え?
一瞬、頭の中が真っ白になる。
幻覚だ。
きっとそう。
だって5年間、一度だって動いたことなんてない。
何度も「動いた気がした」って思ったけど。
そのたびに医者にも看護師さんにも「変化はありませんよ」と優しく首を振られてきた。
でも今確かに、今だけは違った。
栞の指が、弱々しく、でもはっきりと、私の指をぎゅっと締めつけた。
息が止まる。 視界がぐにゃっと歪む。 心臓の鼓動が、耳の中で爆音みたいに響く。
「……嘘」
掠れた声が、勝手に口からこぼれた。
「嘘でしょ……?」
まつげが震えた。
信じたくないのに、期待が一気に膨らんで、怖くなる。
ゆっくりと、ゆっくりと。
5年ぶりに、栞の瞳が開いていく。
乾いたまぶたの隙間から現れたのは、焦点の定まらない、けれど確かに生きている深い緑の瞳だった。
その瞳が、少し手間取るみたいに揺れながら、最後にはまっすぐ私をとらえる。
「…………綾?」
掠れた、小さな、小さな声。
それでも、私には世界で一番大きな音に聞こえた。
その瞬間、音を失っていた世界に、一気に色と音が戻ってきた。
モニターの電子音も、廊下の足音も、遠くのナースコールも、全部が「生きてる」って主張してるみたいに響く。
私は崩れ落ちるようにベッドにすがりついて、栞の身体に抱きついた。
5年分溜め込んでいた涙が、堰を切ったみたいに止まらなくなる。
「栞……ばかぁ。お寝坊助さんだよ、本当に……!」
喉が締めつけられて、うまく言葉にならない。
嗚咽でぐちゃぐちゃになった声を、栞はぼんやりした目で、それでもちゃんと私のものだと分かるみたいに見つめていた。
「もう離さない。絶対に離さないから……!」
震える腕でそう叫ぶ私の背中に、今度ははっきりと、栞の腕が回された。
その腕の温もりが、私に安心感を与えて、心の中にずっと抱えていた不安が少しずつ溶けていくのを感じた。
力は当然だけど、弱かった。
全然頼りないけど、そのぬくもりは、私の全部だった。
「……ごめん、待たせて」
掠れた声で、栞が言う。
5年間眠っていた喉から搾り出すみたいなその一言に、また胸が痛くなってしまう。
私は首を横に振った。 何度も、何度も。
「いいから……いいから。 ただ、帰ってきてくれて、それだけでいいから……最高のクリスマスプレゼントだよ」
涙と鼻水でぐちゃぐちゃになった顔なんて、本当は見せたくなかった。
でも、もうどうでもよかった。
だって、やっと。
やっと栞が、私のところに帰ってきてくれたんだから。
病室に、5年ぶりの「今ここにいる」っていう温もりが満ちていく。
外は相変わらず冬の寒空だけど、私の世界だけが、暖かい春になった感じがした。
これから先、どれだけ時間がかかってもいい。
リハビリがつらくても、記憶が曖昧でも、泣きたくなる夜が何度来ても、
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約束だよ。
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