百合短編集

南條 綾

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80 夜の中にも、拾えるものがある

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 夜の空気は、昼の熱を全部捨てたみたいに冷たかった。駅から家までの道、いつものコンビニの明かりだけがやけに白く見える。

 仕事が長引いた日って、足だけが勝手に前に進む。頭はまだ職場に置いてきたみたいで、ぼんやりしてた。公園の角を曲がったところで、変な音が混じった。

 泣き声?どこなんだろう?立ち止まって、耳を澄ます。

街灯の下のベンチの端に女の子が座ってた。

 膝を抱えて、顔を隠して、肩を小さく揺らしてる。フードが濡れてるから、さっきまで雨に当たってたのかもしれない。

 見なかったことにしよう、と一瞬だけ思った。関わったら絶対に面倒ごとになる。私も疲れてるし、来た道を戻ろうとした。だけど、その泣き方が、あまりにもひとりぼっちで。さすがに見て見ぬふりはできなかった。

 私は息を吸って、近づいた。

「……大丈夫?」

 声をかけた瞬間、女の子はびくっと肩を跳ねさせた。顔を上げる。涙でぐしゃぐしゃで、でも目だけはすごく綺麗だった。二十歳前後くらいに見える。

「だ、大丈夫です……」

 言いながら、全然大丈夫じゃない顔をしてる。言葉の端っこが震えて、鼻も赤い。私は一歩離れたところでしゃがんだ。怖がらせたくない。

「大丈夫じゃないときって、大丈夫って言いがちだよね」

 女の子は、少しだけ目を見開いて、すぐに視線を落とした。

「……帰り道、わかんなくなって……」

「迷子?」

「迷子っていうか……帰りたくなくなって」

 その言い方が、胸の奥に刺さった。帰る場所があるのに、帰れないやつだ。

「名前、聞いてもいい?」

「……みお」

「みお、ね。私は綾」

 みおは小さく頷いた。頷き方が、助けてって言う代わりみたいだった。

 私は立ち上がって、少し迷ってから言った。

「ここ、寒いよ。コンビニ行こ。温かいの買って、座れるとこで話そ」

 みおは迷った顔をした。ほんの数秒、頭の中で何かと戦ってる顔。だけど、結局うんって小さく言った。

 歩き出して、私が半歩前に出る。振り返って、みおの歩幅に合わせた。コンビニの自動ドアが開く音が、やけに安心する。

 肉まんの匂いと、コーヒーの匂い。私はホットのカフェラテを二つ手に取って、みおには「好きなの選んで」って言った。

 みおはしばらく迷って、ココアを持ってきた。子どもっぽい選択が可愛くて、でも笑うのはやめた。今は笑う時間じゃない。

 会計を終えて、店の横のベンチに座る。風除けの壁があるから、さっきよりはマシだ。

 みおは両手でカップを包んで、じっと湯気を見てた。

「……誰かと、喧嘩した?」

「喧嘩っていうか……言っちゃいけないこと言った」

 その声が、すごく小さい。

「言っちゃいけないことって、どんな?」

「好きって」

 みおは言い終わった瞬間、唇を噛んだ。泣くのを止めたいのに止まらない顔になる。

「女の子に、言ったんだ」

「……うん。大事な人で。ずっと隠してたのに、今日……耐えられなくなって」

 私の胸が、きゅって縮む。隠してる時間って、心を削る。削ったぶんだけ、自分が薄くなる。

「返事は?」

「……ごめんって。優しく言われた。優しいのが、一番きつい」

 みおの涙がまた落ちる。カップのふたにぽつぽつ当たって、小さな音がした。私はすぐには何も言えなかった。慰めの言葉って、軽いと傷になる。だから、ただ言った。

「今、よくここまで来たね」

 みおが顔を上げる。濡れた睫毛が街灯に光ってた。

「……来たって?」

「壊れそうなのに、ちゃんと息して、歩いて、泣けてる。すごいよ」

 みおの表情が少しだけ緩んだ。笑顔じゃない。でも、硬いままじゃなくなる。

 しばらく黙って、二人で飲み物を飲んだ。夜の道路を車が通って、遠くで犬の鳴き声がする。こういう普通の音が、逆に救いになることがある。

 みおがぽつりと言う。

「綾さんって……こういうの、慣れてる?」

「慣れてない。普通は関わらないよ」

「……なのに、なんで止まってくれたの」

「泣き方が、壊れそうだったから」

 みおはまた泣きそうになって、慌ててココアを飲んだ。熱かったのか、ちょっと咳をして、目尻の涙を指で拭う。

「……帰れる?家、どっち?」

「……隣の駅の方。歩けるけど、今は……怖い」

 その「怖い」が、誰かに言えるだけで、少しだけ偉い。私は立ち上がった。

「一緒に帰ろ。駅までなら、送れる」

「迷惑じゃ……」

「迷惑なら、最初から止まってない」

 みおは、はっとした顔で私を見た。驚いたみたいに、でも嬉しそうに。小さく頷いて、立ち上がる。

 夜道を並んで歩く。コンビニの袋がかさかさ鳴って、二人の足音が重なる。

 公園の前を通るとき、風が強く吹いて、みおが肩をすくめた。

 私は何も考えず、自分のコートのポケットからカイロを取り出して、みおに差し出した。今日、使うつもりで買った物だった。

「はい」

「……いいの?」

「いいよ。」

 みおは両手で受け取って、胸の前に当てた。

「温かい……」

「でしょ」

 その声が、少しだけ柔らかくなってた。

 駅の近くまで来ると、人が増えて明るい。みおの顔色も少し戻ってきてる。

 改札の前で、みおが立ち止まった。

「……ありがとう。ほんとに」

「うん」

「綾さんがいなかったら、たぶん……朝まであそこにいた」

「朝までいたら、凍えて死んじゃうよ」

「……それでもいいって思ってた」

 私は、喉の奥が痛くなった。今の言葉、軽く流したらいけないやつだ。

「みお」

「なに」

「今夜だけじゃなくてさ。しんどい日、また来るかもじゃん」

「……うん」

「そのとき、またひとりでベンチに座る前に、連絡して」


 私はスマホを出して、画面をみおに向けた。みおは一瞬だけ迷って、すぐにスマホを取り出した。指が震えてるのが見える。

 連絡先が交換される。画面に私の名前が増える。

 みおはスマホを握りしめて、小さく笑った。涙の跡は残ってるのに、その笑い方がちゃんと可愛かった。

「……綾さんって、優しすぎ」

「優しいっていうか、自分がしたかっただけで今回は、放っておけなかっただけ」

「放っておけないって、ずるい言い方」

 みおは言って、少し頬を赤くした。寒さのせいじゃない赤さ。

「……また会ってもいい?」

「じゃなければ、連絡渡さないって」

「約束だよ」

「うん」

 みおは改札の向こうで、もう一回振り返って手を振った。私は手を振り返して、みおの背中が人波に溶けるまで見送った。

 帰り道、さっきまで重かった足が少し軽い。夜って怖いけど、夜の中にも、拾えるものがある。

 家の前に着いて、スマホが震えた。みおから、短いメッセージ。

「家着いた。カイロ、まだ温かい。綾さんも、ちゃんと帰ってね」

 画面の文字が、胸の奥をじんわり温めた。私は指を動かして返信する。

「帰った。みおも、今日はちゃんと寝て、後、友達だから呼び捨てでいいからね」

 送信した瞬間、もう一回震えた。

「うん。……綾のこと、もうちょっと知りたい」

 私は思わず笑ってしまって、でも笑い声は出さなかった。夜って静かだから。

「私も。みおのこと、もっと知りたい」

 そう返して、スマホを胸に当てた。

 泣いてた女の子は、もう通りすがりじゃない。きっとこれから、少しずつ、近くなるそんな予感がする夜だった。
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