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2章 不気味な島
79話 狂気の森、溶ける距離
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山の入り口を越えた瞬間、海からの湿りがぴたりと止まった。
まるで境界線を跨いだ途端、空気そのものが切り替わったみたいに。
潮の匂いが消え、代わりに重く淀んだ空気が満ちていた。
土と腐植と何か甘酸っぱい死の残り香が肺に沈み込む。
息を吸うたび、喉の奥がざらつく。
目の前に広がるのは、緑豊かな森とは似ても似つかない異界の光景だった。
霧のせいで近づくまで気づかなかったが、木々の葉は一様に濁った灰色に染まり、生気を根こそぎ奪われたように垂れ下がっている。
葉脈一本一本が、まるで細い灰色の血管のように浮き出ていて、光が当たるとかすかに透けて見えた。
流れるものは血じゃない。
何か黒ずんだ、どろりとしたものがゆっくり脈打っているように見える瞬間がある。
光合成の欠片もない。光を浴びても、ただ灰色を濃くするだけだ。
まるで生気ごと根こそぎ抜き取られたみたいに、死んだまま立ち続けている。
枯れてはいない。終わりすら許されていないような、永遠の停滞。風がないのに、ザワリと一斉に揺れた。
森全体が、巨大なひとつの生き物みたいに呼吸しているように見えた。
音がないのに、ただ視界の端で無音の震えが広がっていた。
親子ほど歳が離れているのに、俺がおびえていたら、エレナにも伝染するだろうが、と思いながらも、足が止まる。
「……嘘ですよね」
エレナの声が、掠れていた。
いつも穏やかな小春日和みたいな彼女の声が、今は乾いた紙が擦れるように弱々しい。
彼女の指が、俺の袖をそっと掴む。
その指先が、微かに震えているのが伝わってくる。
慈愛の女神アウリスの高僧、鈴の聖女が、こんなところで恐怖を隠しきれていない。
彼女の瞳に映る灰色の森が、俺の視界を狭くする。
霧の中に浮かび上がる木々は、葉の一枚一枚まで濁った灰色に染まっていた。
枝の先が、ピクリ……ピクリ……と痙攣するように動く。
さっきの洞窟で見た男の指の震えと同じだ。
森が、ゆっくりと息を吸い込んでいる。
そして、吐き出す。
その吐息が、霧となって俺たちを包む。
冷たく、ねっとりとした霧が肌に触れると、まるで無数の小さな舌が這うような感触。
甘ったるい腐敗臭が、さらに濃くなる。
昨夜の悪夢の残り香が、俺を誘うようにいざなってきやがる。
俺は剣の柄に手をかけ、握りしめた。
鉄の冷たさが、唯一の現実味を与えてくれる。
それでも足りずに、俺は左手で無意識にエレナの手首を掴んでいた。
彼女の温かなぬくもりが手のひらに伝わり、彼女の脈が速く、熱く、ドクドクと跳ねているのがわかる。
俺の指が、思わず力を込めて締め付けてしまっていた。
彼女の指先が、微かに震えている。
その震えが、俺の手のひらを通じて俺の腕を伝い、胸の奥まで響いてくる。
ここで止まれば、きっと後戻りできなくなる気がした。
一歩、踏み出した瞬間だった。
ぐにゃり。
「……っ」
顔が歪む。足の裏に伝わってくるのは、土の感触じゃない。
弾力があって粘りがある。
腐敗してどろどろに溶けた何かを踏んでいるような、柔らかく崩れそうな、でも完全に崩れきらない感触だった。
ねっとりとした抵抗があり、靴底を通して、直接胃に響いてくる。
まるで踏んだものが、ゆっくりと俺の足に絡みついて、肉を溶かそうとしているような錯覚を覚えた。
生温かいぬめりが、革靴の隙間から染み込んでくる気がして、足指が勝手に縮こまる。
生理的に受け付けない感覚が、喉元まで一気に上がってきて、吐き気がこみ上げる。
酸っぱいものが口の中に広がり、奥歯を強く噛みしめて必死に抑え込む。
息が浅くなり、肺が重く沈む。吐き気を奥歯で噛み潰して、前を向く。
視界が少し揺れる。
額に冷たい汗が浮かんで、銀髪に張りつく。
「大丈夫だ」
エレナに言ったのか、自分に言い聞かせたのか、もう分からなかった。
声が掠れて、喉が乾いたように痛い。
言葉を出した瞬間、霧が口の中に流れ込んでくるような甘ったるい腐敗臭が、さらに強くなる。
ミスリルソードの柄を握り直して歩みを再開させた。
柄の冷たい金属と、左手で握っているエレナの手の柔らかなぬくもりが、唯一の現実感を与えてくれる。
でも、その冷たささえ、だんだんこの島の空気に負けて、ぬるく感じ始める。
さらに歩みを進めると、木々の形状に奇妙な共通点があることに気づいた。
どの幹も、地面に対して垂直に伸びていない。
すべてが、山頂へ向かって傾いている。
雲に隠れた、天を突くような頂へ、まるで畏怖するように、平伏するように、曲がっていた。
枝も、葉も、幹のねじれも、すべてが山頂の方向を指し示すように、強制的に曲げられている。
まるで山が、森全体を支配して、跪かせているみたいだ。
木々が静かに山に祈りを捧げている。いや、祈りじゃない。
これは服従だと思う。
恐怖と服従の混じった歪んだ忠誠に、俺の勘が震えながら訴えている。
「見てください。あの岩を」
エレナが錫杖の先で示したのは、道脇に半ば地面へ飲み込まれた石柱だった。
霧に湿って黒ずんだ表面が、灰色の森の背景に溶け込みそうで、近づくまでただの岩のように見えていた。
石柱の根元は土に埋もれ、ねっとりとした沈み込み方をしていた。
「昔の神殿跡か何か、なのか?」
確か地球では、古来より神聖な場所や信仰の存在を示す印として、世界各地で用いられたっていうのがあったな。
石碑やオベリスクみたいなものだったか?
エジプトのヒエログリフや、マヤの遺跡、ケルトのストーンサークル……。
もしかしてこの世界でもそうかもしれない。
特にこの世界では僧侶呪文を通して奇跡を起こしてもらえるんだったら、それもあり得るかもしれない。
でも、俺の勘がざわついている。
ここはそんな神聖な場所じゃない。
破壊神ノクシアの神殿でもこんなに異質ではないだろう?
空気が重く、肺に絡みつく腐敗臭が、そんなロマンチックな想像を即座に否定する。
近づいて、俺は眉をひそめた。
石柱の表面を埋め尽くすのは、無数の「目」と「触手」が絡み合う図形だった。
触手は無数に絡みつき、曲がりくねりながらも、どこか規則正しく交差する。
幾何学的に、狂気的なまでの精密さで彫り込まれている。
直線と曲線が非現実的に融合し、見ているだけで頭の奥がざわつき平衡感覚が少し狂ってきやがる。
この世界の神々が刻んだものじゃない。
それほどまでに異質な何かだった。
人間の理解を超えた理性を溶かす存在の痕跡。
石柱全体が、ゆっくりと呼吸しているような気がして、背筋がぞわりと冷える。
目をそらしたいのに、視線が外せなかった。
石柱の表面に彫り込まれた無数の瞳が、溝の奥からじっとこちらを覗き込んでくる。
一つ一つの瞳が、黒く底知れぬ深みを湛え、俺の視線を吸い寄せ、絡め取る。
まるで生きているかのように、溝の縁が微かに震え、瞳孔がゆっくりと広がっていく。
その視線が、ねっとりとした湿った感触を伴って肌に触れる。
最初は首筋を、冷たく滑るように這ってきた。
鎖骨の窪みをなぞり、胸の谷間へゆっくりと落ちていく。
服の下の肌が、触れられていないのにざわつき、息が詰まり、喉が無意識に上下に動く。
息を吐くたびに、霧の混じった空気が肺を重く押し込み、吐き気と混じった熱が胸の奥からじわじわと広がっていく。
俺の声が、女の甘い吐息のように変わっていくのが、自分でわかる。
呼吸が荒くなり、喉から漏れる音が湿って艶めき、耳に響くたびに体が熱くなる。
自分で自分の声を聞いて、ぞっとするのに、止まらない。
触手は無数に絡みつき、曲がりくねりながらも、どこか規則正しく交差する。
一本一本が柔らかく、太く、脈打つような曲線を描き、互いに絡み合いながら、
まるで無数の指が肌を這うように、肩から腕、腰へとゆっくり進んでくる。
その感触は幻覚のはずなのに、皮膚の下で何かが蠢くように生々しく、熱く湿った息を吹きかけるように、下腹部へ近づいてくる。
太ももの内側が勝手に震え、熱が下へ下へと集中していく。
下腹部に熱が集まる。
やばい。本能が求めてしまう。
体が勝手に反応し、息が浅く速くなり、喉の奥から甘い吐息が漏れ続ける。
理性では絶対に認めたくない疼きが、抑えきれずに湧き上がってくる。
だめだ……欲しい……ダメだ……この火照った身体を、欲望に委ねてしまいたい。
じわじわと広がる火照りが、理性の壁を溶かそうとする。
このままでは、理性が崩れ落ちてしまう。
なのに、視線を外せない。
石柱が、俺を完全に捕らえている。
その時だった。
「シビさん……戻ってきてください。お願いします」
彼女の祈りの言葉が、鈴のようにかすかに響き、
左手で握ってくれていた手が、ぎゅっと強く握り返してきた。
体の中の火照りが急速に冷め、代わりに冷たい汗が背中を伝い、銀髪の根元までべっとりと濡らしていく。
霧のような甘い誘惑が、霧散するように消えていく。
危なかった……。
もう少しで本能に負けていたら、体を慰め始めてしまうところだった。
視線を無理やり外し、エレナの手を強く握り返した。
彼女の指先が、微かに震えながらも、俺を繋ぎ止めてくれている。
このぬくもりがなければ、俺はもう……何かの虜になっていたかもしれない。
俺はいったん深呼吸をして落ち着かせてから森を進んだ。
森の深部へ進むにつれ、俺達は奇妙な眩暈に襲われ始めた。
視界の端が常に揺らぎ、平衡感覚が溶けていく。
頭の奥で、何かがゆっくりと回っているような、吐き気を催す回転感。
歩くたびに、世界が少しずつ歪む。
巨木の幹が、すぐそこにあり、手を伸ばせば指先で触れられそうな距離に見える。
葉の灰色が、息がかかるほど近くに迫っているのに、実際に歩みを進めても、幹は一向に近づかない。
数分、数十分……いや、どれだけ時間が経ったかも分からない。
足が動いているはずなのに、距離が縮まらない。
まるで空間そのものが俺たちを嘲笑うように、伸び縮みしている。
逆に、遥か遠くにあるはずの山の斜面が、ふとした瞬間に目の前に迫り、
巨大な黒い壁となって覆いかぶさってくる。
雲に隠れた頂上が、急に低く垂れ下がり、
息苦しい圧迫感で胸を押し潰す。
一瞬で視界が埋め尽くされ、逃げ場がない。
次の瞬間にはまた遠くに戻り、ただの風景に戻る。
心臓が不規則に跳ね、呼吸が浅くなる。
これは錯覚か? それとも、俺たちの認識がねじ曲げられているのか?
「……距離の感覚がおかしい?」
俺が吐き捨てるように声を出したのだが、反響することなく森の闇に吸い込まれていった。
言葉が空気に溶け、跡形もなく消える。
自分の声すら、遠くで他人事のように聞こえる。
エレナの息遣いが、後ろでわずかに乱れているのが分かる。
彼女の錫杖の先が、地面を軽く叩く音だけが、唯一の現実の証。
足元の地面は、もはや土の感触を失っていた。
それは、硬化したスポンジのような、あるいは乾いた脳組織のような。
不快な弾力を持つ灰色の苔に覆い尽くされている。
表面はざらざらと乾いているのに、踏み込むと内側から柔らかく沈み、肉の層を踏み抜くような感触がある。ような嫌悪感が足裏に伝わる。
それを踏むたびに、プシュリと湿った音を立てて、黄色い腐臭のする蒸気が立ち昇った。
蒸気は熱く、顔に当たると粘つく膜のように張りつき、甘酸っぱい腐敗臭が鼻腔を犯し、舌の奥まで絡みつく。
吐き気が喉元までこみ上げ、奥歯を強く噛みしめて抑え込む。
苔の表面に、微かに血管のような赤い筋が浮かび、
踏まれるたびにゆっくり脈打っているように見える瞬間がある。
そして、唐突に森が途切れた。
視界が開けた先に横たわっていたのは、中腹へと続く、剥き出しの登山口。
岩肌がむき出しになり、黒く濡れた斜面が無限に続いている。
逃げ場のない、この狂った世界の本番へと誘う、巨大な顎のような入り口だった。
入り口の両脇の岩が、まるで歯のように尖っていた。
「エレナ、下がれ!」
前に出てミスリルソードを構える。
柄の冷たい金属が掌に食い込み、唯一の現実感を与えてくれる。
左手で握っていたエレナの手が、離れそうになるのを強く握り返す。
彼女の指が震え、鈴の音がかすかに鳴る。
だが、誰もいなかった。
気配すらなかった。
霧の向こうに、影の残像すら残っていない。
ただ、先ほどまでなかったはずの爪痕が、隣の木の幹に深々と刻まれていた。
爪痕が鋭く、深く刻まれていた。
五本の線が、木の繊維を裂き、樹皮をめくり上げ、赤黒い樹液がにじみ出している。
深さは俺の腕ほど。一瞬でこんな傷を付けたのか?
三等室の冒険者たちをやったのは、こいつか。
姿が見えない敵との戦闘か?
なぜか奴らの気配は、感じなかった。
戦士の気配察知スキルも、魔法の探知も、何一つ反応しない。
なのに、爪痕は今まさにできたばかりのように新鮮で。
木の傷口から、かすかに湯気のようなものが立ち上っていた。
少し警戒はしていたがそれ以上何も起こらなかった。
視界が開けた先に横たわっていたのは、中腹へと続く、剥き出しの登山口。
岩肌がむき出しになり、黒く濡れた斜面が無限に続いている。
逃げ場のない、この狂った世界の本番へと誘う、巨大な顎のような入り口だった。
入り口の両脇の岩が、まるで歯のように尖っていた。
まるで境界線を跨いだ途端、空気そのものが切り替わったみたいに。
潮の匂いが消え、代わりに重く淀んだ空気が満ちていた。
土と腐植と何か甘酸っぱい死の残り香が肺に沈み込む。
息を吸うたび、喉の奥がざらつく。
目の前に広がるのは、緑豊かな森とは似ても似つかない異界の光景だった。
霧のせいで近づくまで気づかなかったが、木々の葉は一様に濁った灰色に染まり、生気を根こそぎ奪われたように垂れ下がっている。
葉脈一本一本が、まるで細い灰色の血管のように浮き出ていて、光が当たるとかすかに透けて見えた。
流れるものは血じゃない。
何か黒ずんだ、どろりとしたものがゆっくり脈打っているように見える瞬間がある。
光合成の欠片もない。光を浴びても、ただ灰色を濃くするだけだ。
まるで生気ごと根こそぎ抜き取られたみたいに、死んだまま立ち続けている。
枯れてはいない。終わりすら許されていないような、永遠の停滞。風がないのに、ザワリと一斉に揺れた。
森全体が、巨大なひとつの生き物みたいに呼吸しているように見えた。
音がないのに、ただ視界の端で無音の震えが広がっていた。
親子ほど歳が離れているのに、俺がおびえていたら、エレナにも伝染するだろうが、と思いながらも、足が止まる。
「……嘘ですよね」
エレナの声が、掠れていた。
いつも穏やかな小春日和みたいな彼女の声が、今は乾いた紙が擦れるように弱々しい。
彼女の指が、俺の袖をそっと掴む。
その指先が、微かに震えているのが伝わってくる。
慈愛の女神アウリスの高僧、鈴の聖女が、こんなところで恐怖を隠しきれていない。
彼女の瞳に映る灰色の森が、俺の視界を狭くする。
霧の中に浮かび上がる木々は、葉の一枚一枚まで濁った灰色に染まっていた。
枝の先が、ピクリ……ピクリ……と痙攣するように動く。
さっきの洞窟で見た男の指の震えと同じだ。
森が、ゆっくりと息を吸い込んでいる。
そして、吐き出す。
その吐息が、霧となって俺たちを包む。
冷たく、ねっとりとした霧が肌に触れると、まるで無数の小さな舌が這うような感触。
甘ったるい腐敗臭が、さらに濃くなる。
昨夜の悪夢の残り香が、俺を誘うようにいざなってきやがる。
俺は剣の柄に手をかけ、握りしめた。
鉄の冷たさが、唯一の現実味を与えてくれる。
それでも足りずに、俺は左手で無意識にエレナの手首を掴んでいた。
彼女の温かなぬくもりが手のひらに伝わり、彼女の脈が速く、熱く、ドクドクと跳ねているのがわかる。
俺の指が、思わず力を込めて締め付けてしまっていた。
彼女の指先が、微かに震えている。
その震えが、俺の手のひらを通じて俺の腕を伝い、胸の奥まで響いてくる。
ここで止まれば、きっと後戻りできなくなる気がした。
一歩、踏み出した瞬間だった。
ぐにゃり。
「……っ」
顔が歪む。足の裏に伝わってくるのは、土の感触じゃない。
弾力があって粘りがある。
腐敗してどろどろに溶けた何かを踏んでいるような、柔らかく崩れそうな、でも完全に崩れきらない感触だった。
ねっとりとした抵抗があり、靴底を通して、直接胃に響いてくる。
まるで踏んだものが、ゆっくりと俺の足に絡みついて、肉を溶かそうとしているような錯覚を覚えた。
生温かいぬめりが、革靴の隙間から染み込んでくる気がして、足指が勝手に縮こまる。
生理的に受け付けない感覚が、喉元まで一気に上がってきて、吐き気がこみ上げる。
酸っぱいものが口の中に広がり、奥歯を強く噛みしめて必死に抑え込む。
息が浅くなり、肺が重く沈む。吐き気を奥歯で噛み潰して、前を向く。
視界が少し揺れる。
額に冷たい汗が浮かんで、銀髪に張りつく。
「大丈夫だ」
エレナに言ったのか、自分に言い聞かせたのか、もう分からなかった。
声が掠れて、喉が乾いたように痛い。
言葉を出した瞬間、霧が口の中に流れ込んでくるような甘ったるい腐敗臭が、さらに強くなる。
ミスリルソードの柄を握り直して歩みを再開させた。
柄の冷たい金属と、左手で握っているエレナの手の柔らかなぬくもりが、唯一の現実感を与えてくれる。
でも、その冷たささえ、だんだんこの島の空気に負けて、ぬるく感じ始める。
さらに歩みを進めると、木々の形状に奇妙な共通点があることに気づいた。
どの幹も、地面に対して垂直に伸びていない。
すべてが、山頂へ向かって傾いている。
雲に隠れた、天を突くような頂へ、まるで畏怖するように、平伏するように、曲がっていた。
枝も、葉も、幹のねじれも、すべてが山頂の方向を指し示すように、強制的に曲げられている。
まるで山が、森全体を支配して、跪かせているみたいだ。
木々が静かに山に祈りを捧げている。いや、祈りじゃない。
これは服従だと思う。
恐怖と服従の混じった歪んだ忠誠に、俺の勘が震えながら訴えている。
「見てください。あの岩を」
エレナが錫杖の先で示したのは、道脇に半ば地面へ飲み込まれた石柱だった。
霧に湿って黒ずんだ表面が、灰色の森の背景に溶け込みそうで、近づくまでただの岩のように見えていた。
石柱の根元は土に埋もれ、ねっとりとした沈み込み方をしていた。
「昔の神殿跡か何か、なのか?」
確か地球では、古来より神聖な場所や信仰の存在を示す印として、世界各地で用いられたっていうのがあったな。
石碑やオベリスクみたいなものだったか?
エジプトのヒエログリフや、マヤの遺跡、ケルトのストーンサークル……。
もしかしてこの世界でもそうかもしれない。
特にこの世界では僧侶呪文を通して奇跡を起こしてもらえるんだったら、それもあり得るかもしれない。
でも、俺の勘がざわついている。
ここはそんな神聖な場所じゃない。
破壊神ノクシアの神殿でもこんなに異質ではないだろう?
空気が重く、肺に絡みつく腐敗臭が、そんなロマンチックな想像を即座に否定する。
近づいて、俺は眉をひそめた。
石柱の表面を埋め尽くすのは、無数の「目」と「触手」が絡み合う図形だった。
触手は無数に絡みつき、曲がりくねりながらも、どこか規則正しく交差する。
幾何学的に、狂気的なまでの精密さで彫り込まれている。
直線と曲線が非現実的に融合し、見ているだけで頭の奥がざわつき平衡感覚が少し狂ってきやがる。
この世界の神々が刻んだものじゃない。
それほどまでに異質な何かだった。
人間の理解を超えた理性を溶かす存在の痕跡。
石柱全体が、ゆっくりと呼吸しているような気がして、背筋がぞわりと冷える。
目をそらしたいのに、視線が外せなかった。
石柱の表面に彫り込まれた無数の瞳が、溝の奥からじっとこちらを覗き込んでくる。
一つ一つの瞳が、黒く底知れぬ深みを湛え、俺の視線を吸い寄せ、絡め取る。
まるで生きているかのように、溝の縁が微かに震え、瞳孔がゆっくりと広がっていく。
その視線が、ねっとりとした湿った感触を伴って肌に触れる。
最初は首筋を、冷たく滑るように這ってきた。
鎖骨の窪みをなぞり、胸の谷間へゆっくりと落ちていく。
服の下の肌が、触れられていないのにざわつき、息が詰まり、喉が無意識に上下に動く。
息を吐くたびに、霧の混じった空気が肺を重く押し込み、吐き気と混じった熱が胸の奥からじわじわと広がっていく。
俺の声が、女の甘い吐息のように変わっていくのが、自分でわかる。
呼吸が荒くなり、喉から漏れる音が湿って艶めき、耳に響くたびに体が熱くなる。
自分で自分の声を聞いて、ぞっとするのに、止まらない。
触手は無数に絡みつき、曲がりくねりながらも、どこか規則正しく交差する。
一本一本が柔らかく、太く、脈打つような曲線を描き、互いに絡み合いながら、
まるで無数の指が肌を這うように、肩から腕、腰へとゆっくり進んでくる。
その感触は幻覚のはずなのに、皮膚の下で何かが蠢くように生々しく、熱く湿った息を吹きかけるように、下腹部へ近づいてくる。
太ももの内側が勝手に震え、熱が下へ下へと集中していく。
下腹部に熱が集まる。
やばい。本能が求めてしまう。
体が勝手に反応し、息が浅く速くなり、喉の奥から甘い吐息が漏れ続ける。
理性では絶対に認めたくない疼きが、抑えきれずに湧き上がってくる。
だめだ……欲しい……ダメだ……この火照った身体を、欲望に委ねてしまいたい。
じわじわと広がる火照りが、理性の壁を溶かそうとする。
このままでは、理性が崩れ落ちてしまう。
なのに、視線を外せない。
石柱が、俺を完全に捕らえている。
その時だった。
「シビさん……戻ってきてください。お願いします」
彼女の祈りの言葉が、鈴のようにかすかに響き、
左手で握ってくれていた手が、ぎゅっと強く握り返してきた。
体の中の火照りが急速に冷め、代わりに冷たい汗が背中を伝い、銀髪の根元までべっとりと濡らしていく。
霧のような甘い誘惑が、霧散するように消えていく。
危なかった……。
もう少しで本能に負けていたら、体を慰め始めてしまうところだった。
視線を無理やり外し、エレナの手を強く握り返した。
彼女の指先が、微かに震えながらも、俺を繋ぎ止めてくれている。
このぬくもりがなければ、俺はもう……何かの虜になっていたかもしれない。
俺はいったん深呼吸をして落ち着かせてから森を進んだ。
森の深部へ進むにつれ、俺達は奇妙な眩暈に襲われ始めた。
視界の端が常に揺らぎ、平衡感覚が溶けていく。
頭の奥で、何かがゆっくりと回っているような、吐き気を催す回転感。
歩くたびに、世界が少しずつ歪む。
巨木の幹が、すぐそこにあり、手を伸ばせば指先で触れられそうな距離に見える。
葉の灰色が、息がかかるほど近くに迫っているのに、実際に歩みを進めても、幹は一向に近づかない。
数分、数十分……いや、どれだけ時間が経ったかも分からない。
足が動いているはずなのに、距離が縮まらない。
まるで空間そのものが俺たちを嘲笑うように、伸び縮みしている。
逆に、遥か遠くにあるはずの山の斜面が、ふとした瞬間に目の前に迫り、
巨大な黒い壁となって覆いかぶさってくる。
雲に隠れた頂上が、急に低く垂れ下がり、
息苦しい圧迫感で胸を押し潰す。
一瞬で視界が埋め尽くされ、逃げ場がない。
次の瞬間にはまた遠くに戻り、ただの風景に戻る。
心臓が不規則に跳ね、呼吸が浅くなる。
これは錯覚か? それとも、俺たちの認識がねじ曲げられているのか?
「……距離の感覚がおかしい?」
俺が吐き捨てるように声を出したのだが、反響することなく森の闇に吸い込まれていった。
言葉が空気に溶け、跡形もなく消える。
自分の声すら、遠くで他人事のように聞こえる。
エレナの息遣いが、後ろでわずかに乱れているのが分かる。
彼女の錫杖の先が、地面を軽く叩く音だけが、唯一の現実の証。
足元の地面は、もはや土の感触を失っていた。
それは、硬化したスポンジのような、あるいは乾いた脳組織のような。
不快な弾力を持つ灰色の苔に覆い尽くされている。
表面はざらざらと乾いているのに、踏み込むと内側から柔らかく沈み、肉の層を踏み抜くような感触がある。ような嫌悪感が足裏に伝わる。
それを踏むたびに、プシュリと湿った音を立てて、黄色い腐臭のする蒸気が立ち昇った。
蒸気は熱く、顔に当たると粘つく膜のように張りつき、甘酸っぱい腐敗臭が鼻腔を犯し、舌の奥まで絡みつく。
吐き気が喉元までこみ上げ、奥歯を強く噛みしめて抑え込む。
苔の表面に、微かに血管のような赤い筋が浮かび、
踏まれるたびにゆっくり脈打っているように見える瞬間がある。
そして、唐突に森が途切れた。
視界が開けた先に横たわっていたのは、中腹へと続く、剥き出しの登山口。
岩肌がむき出しになり、黒く濡れた斜面が無限に続いている。
逃げ場のない、この狂った世界の本番へと誘う、巨大な顎のような入り口だった。
入り口の両脇の岩が、まるで歯のように尖っていた。
「エレナ、下がれ!」
前に出てミスリルソードを構える。
柄の冷たい金属が掌に食い込み、唯一の現実感を与えてくれる。
左手で握っていたエレナの手が、離れそうになるのを強く握り返す。
彼女の指が震え、鈴の音がかすかに鳴る。
だが、誰もいなかった。
気配すらなかった。
霧の向こうに、影の残像すら残っていない。
ただ、先ほどまでなかったはずの爪痕が、隣の木の幹に深々と刻まれていた。
爪痕が鋭く、深く刻まれていた。
五本の線が、木の繊維を裂き、樹皮をめくり上げ、赤黒い樹液がにじみ出している。
深さは俺の腕ほど。一瞬でこんな傷を付けたのか?
三等室の冒険者たちをやったのは、こいつか。
姿が見えない敵との戦闘か?
なぜか奴らの気配は、感じなかった。
戦士の気配察知スキルも、魔法の探知も、何一つ反応しない。
なのに、爪痕は今まさにできたばかりのように新鮮で。
木の傷口から、かすかに湯気のようなものが立ち上っていた。
少し警戒はしていたがそれ以上何も起こらなかった。
視界が開けた先に横たわっていたのは、中腹へと続く、剥き出しの登山口。
岩肌がむき出しになり、黒く濡れた斜面が無限に続いている。
逃げ場のない、この狂った世界の本番へと誘う、巨大な顎のような入り口だった。
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