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3章 不条理な山の招待
80話 灰色の手のひら
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山に入った瞬間。普通の山のような状態になっていた。
俺が知っている山に……俺はまた戸惑いを感じる。
先ほどの森は何だったのか?
霧が薄く、木々は普通の緑を帯び、葉ずれの音が静かに響いている。
まるでさっきまでの狂った空間が、夢か幻だったかのように。
後ろを振り向くと、色合い豊かな森の出入り口が見える。
灰色だったはずの葉が、鮮やかな緑に変わり、陽光が差し込んでキラキラと輝いている。
入り口の境界線が、ぴたりと切り替わっているのが不気味だ。
まるで。ここから先はまた違うって言わんばかりに。
こんな驚いた顔を見せると心配するだろう。
俺は深呼吸して表情を整え、努めて冷静な声を出す。
「エレナ、離れるなよ」
背後のエレナを振り返ると、彼女の瞳がわずかに揺れていた。
小さな鈴の音が、チリン……と澄んだ響きを残す。
エレナは俺の銀髪のなびく肩にそっと手を置いた。
聖女の通り名に相応しい、柔らかな手の温もりが伝わってくる。
そのぬくもりが、俺の鼓動をドクンと強く脈打たせる。
そのぬくもりが、先ほどの石柱の誘惑から俺を引き戻してくれたのも事実だ。
一歩一歩、強く歩みを進めてくれる支えになっている。
「はいシビさん。……不思議な事ばかりで、頭が動かない感じがしますし、この霧、まるで生きているように思えます」
エレナの声は穏やかだけど、少し掠れている。
彼女の指先が、肩に置かれたまま微かに震えていた。
25歳なんてまだ小娘なのに、本当に心の支えになってくれる。
きっと俺一人だったら、何度心が折れてここに立っていられなかっただろう。
まったく年の差なんてほぼ親子ほど離れているのに、大した女だよ。
おっさんの俺が、こんな優しい聖女に守られてるなんて……
情けねえと思いながらも、この温もりがなければ、もうとっくに山に飲み込まれていた気がする。
俺は、前方の崖がえぐれたような場所へと足を踏み出した。
岩肌がむき出しの狭い通路で、足元は不安定に傾き、転げ落ちそうな小石がカツカツと転がる音を立てる。
一歩、岩を蹴り上げた瞬間だった。
視界が急激に暗転し、灰色の湿気が全身にまとわりつく。
標高は1,000mを少し越えた程度のはずなのに、気温が不自然なほど急降下した。
息を吸うたびに肺が凍りつき、吐く息が白く濃く立ち上る。
霧のような灰色が肌にべっとりと張り付き、服の隙間から冷たい指が這い込んでくるような感触がある。
体温が急速に奪われ、指先が痺れ始める。
「ひっ……!」
背後でエレナが小さく悲鳴を上げ、俺の腰にしがみついてきた。
細い腕から、彼女の震えが直接伝わってくる。
彼女の体温が、唯一の温かさとして俺の背中に染み込む。
「落ち着け。大丈夫だ」
咄嗟に彼女を片腕で抱き寄せた時、先ほどの欲情が嫌というほど意識に食い込んできた。
引き締まった腹部に回されるエレナの細い腕。
そして、自分の意思とは無関係に主張する胸の重みが……、エレナの柔らかな体に押し付けられ、服越しに温かく弾力のある感触が直に伝わってくる。
心臓がドクン……ドクンと速くなり、血が耳元で鳴り響く。
抱きたい、溺れたい、感じたい……性欲が、本能が、エレナを求めてやがる。
クソッ、落ち着け俺。そんなに女に飢えてるというのか!
大丈夫だ。俺は……エレナにそんなことを求めてないはずだ。
煩悩と戦いながら、俺は最後の一歩を踏み出し、灰色の幕を強引に突き破った。
まだ体が熱く疼いているのに……。
シュパッ、と空気が弾けるような音がした。
次の瞬間、肺に飛び込んできたのは、氷のように冷たく、それでいて驚くほど透き通った酸素だった。
息を吸うたびに、肺の奥まで凍りつくような清涼感が広がる。
先ほどの湿った灰色が一瞬で吹き飛ぶ。
視界が開け、色が戻る……いや、戻らない。
世界からまた色が消えていた。
「あ……ああ……」
エレナが俺の背中で、絞り出すような声を上げた。
俺も、言葉を失った。
巨大な口を開けたような岩壁を抜けた瞬間、
標高はまだ1,500メートルに届くかどうかだと思う。
だが、上空から降りてきた雲の底は、想像以上に重く、粘りつくような湿気を帯びていた。
灰色の雲が低く垂れ下がり、視界を埋め尽くす。
空気がどろりと重く、息をするたびに肺に絡みつく。
遠くの岩肌が、ぼんやりと黒く浮かび上がり、
雲の隙間から漏れる光が、まるで病んだような淡い青白さを帯びている。
風がなく、静寂が耳に痛い。
山が、息を潜めて俺たちを待ち構えている。
この先が、本当の山の領域だという予感が、背筋を凍らせる。
「アヤさん……前が見えません。まるで見知らぬ誰かの手のひらに、目を塞がれているみたいで……」
背後でエレナの声が震える。海洋国の暖かな陽光の下で育った彼女にとって、この視界数メートルの灰色の世界は、未知の恐怖そのものだろう。
俺自身も数百メートルぐらいの舗装された山道は登ったことはあるのだが、こんなに高い山に登ったことなんて無いから予想がつかない。
富士山クラスどころか、それ以上かもしれない。
それでも先入観がないので、考えようによってはいいのかもしれない。
何も知らない方が、変な思い込みでパニックにならない……か?
「……離れるなよ。俺の、背中だけ見てろ。手も繋いでやりたいところだけど、危険だからな」
一歩、岩を蹴り上げる。
その拍子に、俺の胸が大きく揺れ、防具の革を内側から圧迫した。
俺の男としての欲望という意識が、その重みと揺れに一瞬だけ揺らぐ。
ヤバイ……自分の体に欲情する。
先ほどの欲情を……本能が求めてやがる。
クソ、集中しろ。この霧はただの気象現象じゃない……
こんなことばかり考えてたら、命取りになってしまう。
霧が、俺の銀髪を濡らし、エレナの白い僧侶服をじっとりと肌に張り付かせていく。
寒さで浮き上がる彼女の体の線に、理性が見るなと警鐘を鳴らしていた。
霧の中では彼女の気配だけが唯一の頼りだった。
背中越しに伝わる彼女の震えが、俺の腰に絡みつき、
温もりと冷たさが混じり合って、胸の奥を締め付ける。
この震えが、俺を現実に戻してくれる唯一のものだ。
ふと、奇妙な違和感が足を止めた。
霧が、音を食っているのだ。
自分の荒い呼吸と、エレナの小さな足音。それ以外が、あまりにも静かすぎる。
風の音も、岩の転がる音も、遠くの鳥の声も、何一つ聞こえない。
まるで世界が、俺たちを包み込んで、息を潜めているみたいだ。
「……エレナ?」
振り返ると、すぐ後ろにいたはずの彼女の姿が、灰色の闇に溶けて霞んでいた。
霧が彼女の輪郭をぼやけさせ、白い僧侶服が影のように揺らめく。
視界の端で、彼女の存在が一瞬消えかかるような錯覚に、胸が締め付けられる。
「はい、ここに……っ、ひゃっ!?」
短い悲鳴。俺は反射的に彼女の細い腰を引き寄せた。
腰のくびれが手の平にぴたりと収まり、彼女の体温が一瞬で伝わってくる。
「どうした!」
「……いま、足首を。冷たい何かが、這い上がってきたような……」
エレナが俺の胸元にしがみついてくる。彼女の柔らかい胸が俺に押し付けられて、熱い体温が服越しに直に伝わってくる。
それ以上に冷たい戦慄が背筋を駆け上がった。
彼女の足元に、霧の向こう側からありえないものが見えた気がしたからだ。
多分岩肌ではないように俺の目に映った。
霧の底から覗いたのは、びっしりと並んだ、青白い人間の指のような突起物に見えた。
一本一本が、関節の曲がり具合まで人間の指そっくりで、爪の先がわずかに黒く変色し、霧に濡れてテカテカと光っている。
それらがイソギンチャクのように蠢き、山の斜面を覆い尽くしている。
指先がゆっくりと曲がり、俺たちの方へ向けられるように伸びてくる。
一本が、霧の中でクネクネと動き、足首を掴もうとするような錯覚。
触れたら、冷たくぬめった感触で皮膚を溶かすような……そんな予感が脳裏をよぎる。
だが、目を凝らすと、それはただの濡れた奇岩に見える。
表面の凹凸が、指の形に似ているだけのように。
また空間が歪んでいるのか……?
それとも、この状態が見せているものなのか?
よくわからないなぁ。
俺の知識が高山病の幻覚だと訴えているが、この世界で生活している本能が、首筋の産毛を逆立てて叫んでいる。
皮膚が粟立ち、喉の奥が反射的に締まる。
この雲の層は、ただの通り道じゃない。
俺たちをじわじわと疲弊させて正気を溶かそうとする、山の意思にも見える。
霧が息を潜め、俺たちの吐息を盗み聞き、
次の動きを待っているような……そんな気配が、全身を包み込む。
「エレナ、目をつぶるな。……行くぞ。この厚い雲を突き抜けるまで、絶対に止まるな」
俺たちは、自分たちの吐息さえ凍りつきそうな灰色の闇の中、
さらに深く、垂直の迷宮へと攀じ登っていった。
そのまま先を進むと、視界が爆発した。
肺を焼くような冷気と共に、俺たちの全身を突き抜けたのは、この世のものとは思えないほど濃い『青』だった。
空が、青い炎のように燃え、視界を埋め尽くす。
息を吸うたびに肺が凍りつき、吐く息が青い霧となって散る。
目が痛いほど鮮やかで、頭の奥が眩暈のように揺れる。
青が、俺たちの体を貫き、内側から洗い流すような感覚。
「……っ、はぁ、はぁ……抜けた、のか……?」
振り返れば、ついさっきまで俺たちを飲み込もうとしていた灰色の闇が、
巨大な白い海の底へと沈んでいる。
標高は、おそらく2,000メートルを少し越えたあたりだろう。
俺の記憶にある山の景色とは、何かが決定的に違っていた。
青い空の下に広がる岩肌が、まるで別の存在のように、静かに、しかし確実に、俺たちを嘲笑っているように見えた。
俺が知っている山に……俺はまた戸惑いを感じる。
先ほどの森は何だったのか?
霧が薄く、木々は普通の緑を帯び、葉ずれの音が静かに響いている。
まるでさっきまでの狂った空間が、夢か幻だったかのように。
後ろを振り向くと、色合い豊かな森の出入り口が見える。
灰色だったはずの葉が、鮮やかな緑に変わり、陽光が差し込んでキラキラと輝いている。
入り口の境界線が、ぴたりと切り替わっているのが不気味だ。
まるで。ここから先はまた違うって言わんばかりに。
こんな驚いた顔を見せると心配するだろう。
俺は深呼吸して表情を整え、努めて冷静な声を出す。
「エレナ、離れるなよ」
背後のエレナを振り返ると、彼女の瞳がわずかに揺れていた。
小さな鈴の音が、チリン……と澄んだ響きを残す。
エレナは俺の銀髪のなびく肩にそっと手を置いた。
聖女の通り名に相応しい、柔らかな手の温もりが伝わってくる。
そのぬくもりが、俺の鼓動をドクンと強く脈打たせる。
そのぬくもりが、先ほどの石柱の誘惑から俺を引き戻してくれたのも事実だ。
一歩一歩、強く歩みを進めてくれる支えになっている。
「はいシビさん。……不思議な事ばかりで、頭が動かない感じがしますし、この霧、まるで生きているように思えます」
エレナの声は穏やかだけど、少し掠れている。
彼女の指先が、肩に置かれたまま微かに震えていた。
25歳なんてまだ小娘なのに、本当に心の支えになってくれる。
きっと俺一人だったら、何度心が折れてここに立っていられなかっただろう。
まったく年の差なんてほぼ親子ほど離れているのに、大した女だよ。
おっさんの俺が、こんな優しい聖女に守られてるなんて……
情けねえと思いながらも、この温もりがなければ、もうとっくに山に飲み込まれていた気がする。
俺は、前方の崖がえぐれたような場所へと足を踏み出した。
岩肌がむき出しの狭い通路で、足元は不安定に傾き、転げ落ちそうな小石がカツカツと転がる音を立てる。
一歩、岩を蹴り上げた瞬間だった。
視界が急激に暗転し、灰色の湿気が全身にまとわりつく。
標高は1,000mを少し越えた程度のはずなのに、気温が不自然なほど急降下した。
息を吸うたびに肺が凍りつき、吐く息が白く濃く立ち上る。
霧のような灰色が肌にべっとりと張り付き、服の隙間から冷たい指が這い込んでくるような感触がある。
体温が急速に奪われ、指先が痺れ始める。
「ひっ……!」
背後でエレナが小さく悲鳴を上げ、俺の腰にしがみついてきた。
細い腕から、彼女の震えが直接伝わってくる。
彼女の体温が、唯一の温かさとして俺の背中に染み込む。
「落ち着け。大丈夫だ」
咄嗟に彼女を片腕で抱き寄せた時、先ほどの欲情が嫌というほど意識に食い込んできた。
引き締まった腹部に回されるエレナの細い腕。
そして、自分の意思とは無関係に主張する胸の重みが……、エレナの柔らかな体に押し付けられ、服越しに温かく弾力のある感触が直に伝わってくる。
心臓がドクン……ドクンと速くなり、血が耳元で鳴り響く。
抱きたい、溺れたい、感じたい……性欲が、本能が、エレナを求めてやがる。
クソッ、落ち着け俺。そんなに女に飢えてるというのか!
大丈夫だ。俺は……エレナにそんなことを求めてないはずだ。
煩悩と戦いながら、俺は最後の一歩を踏み出し、灰色の幕を強引に突き破った。
まだ体が熱く疼いているのに……。
シュパッ、と空気が弾けるような音がした。
次の瞬間、肺に飛び込んできたのは、氷のように冷たく、それでいて驚くほど透き通った酸素だった。
息を吸うたびに、肺の奥まで凍りつくような清涼感が広がる。
先ほどの湿った灰色が一瞬で吹き飛ぶ。
視界が開け、色が戻る……いや、戻らない。
世界からまた色が消えていた。
「あ……ああ……」
エレナが俺の背中で、絞り出すような声を上げた。
俺も、言葉を失った。
巨大な口を開けたような岩壁を抜けた瞬間、
標高はまだ1,500メートルに届くかどうかだと思う。
だが、上空から降りてきた雲の底は、想像以上に重く、粘りつくような湿気を帯びていた。
灰色の雲が低く垂れ下がり、視界を埋め尽くす。
空気がどろりと重く、息をするたびに肺に絡みつく。
遠くの岩肌が、ぼんやりと黒く浮かび上がり、
雲の隙間から漏れる光が、まるで病んだような淡い青白さを帯びている。
風がなく、静寂が耳に痛い。
山が、息を潜めて俺たちを待ち構えている。
この先が、本当の山の領域だという予感が、背筋を凍らせる。
「アヤさん……前が見えません。まるで見知らぬ誰かの手のひらに、目を塞がれているみたいで……」
背後でエレナの声が震える。海洋国の暖かな陽光の下で育った彼女にとって、この視界数メートルの灰色の世界は、未知の恐怖そのものだろう。
俺自身も数百メートルぐらいの舗装された山道は登ったことはあるのだが、こんなに高い山に登ったことなんて無いから予想がつかない。
富士山クラスどころか、それ以上かもしれない。
それでも先入観がないので、考えようによってはいいのかもしれない。
何も知らない方が、変な思い込みでパニックにならない……か?
「……離れるなよ。俺の、背中だけ見てろ。手も繋いでやりたいところだけど、危険だからな」
一歩、岩を蹴り上げる。
その拍子に、俺の胸が大きく揺れ、防具の革を内側から圧迫した。
俺の男としての欲望という意識が、その重みと揺れに一瞬だけ揺らぐ。
ヤバイ……自分の体に欲情する。
先ほどの欲情を……本能が求めてやがる。
クソ、集中しろ。この霧はただの気象現象じゃない……
こんなことばかり考えてたら、命取りになってしまう。
霧が、俺の銀髪を濡らし、エレナの白い僧侶服をじっとりと肌に張り付かせていく。
寒さで浮き上がる彼女の体の線に、理性が見るなと警鐘を鳴らしていた。
霧の中では彼女の気配だけが唯一の頼りだった。
背中越しに伝わる彼女の震えが、俺の腰に絡みつき、
温もりと冷たさが混じり合って、胸の奥を締め付ける。
この震えが、俺を現実に戻してくれる唯一のものだ。
ふと、奇妙な違和感が足を止めた。
霧が、音を食っているのだ。
自分の荒い呼吸と、エレナの小さな足音。それ以外が、あまりにも静かすぎる。
風の音も、岩の転がる音も、遠くの鳥の声も、何一つ聞こえない。
まるで世界が、俺たちを包み込んで、息を潜めているみたいだ。
「……エレナ?」
振り返ると、すぐ後ろにいたはずの彼女の姿が、灰色の闇に溶けて霞んでいた。
霧が彼女の輪郭をぼやけさせ、白い僧侶服が影のように揺らめく。
視界の端で、彼女の存在が一瞬消えかかるような錯覚に、胸が締め付けられる。
「はい、ここに……っ、ひゃっ!?」
短い悲鳴。俺は反射的に彼女の細い腰を引き寄せた。
腰のくびれが手の平にぴたりと収まり、彼女の体温が一瞬で伝わってくる。
「どうした!」
「……いま、足首を。冷たい何かが、這い上がってきたような……」
エレナが俺の胸元にしがみついてくる。彼女の柔らかい胸が俺に押し付けられて、熱い体温が服越しに直に伝わってくる。
それ以上に冷たい戦慄が背筋を駆け上がった。
彼女の足元に、霧の向こう側からありえないものが見えた気がしたからだ。
多分岩肌ではないように俺の目に映った。
霧の底から覗いたのは、びっしりと並んだ、青白い人間の指のような突起物に見えた。
一本一本が、関節の曲がり具合まで人間の指そっくりで、爪の先がわずかに黒く変色し、霧に濡れてテカテカと光っている。
それらがイソギンチャクのように蠢き、山の斜面を覆い尽くしている。
指先がゆっくりと曲がり、俺たちの方へ向けられるように伸びてくる。
一本が、霧の中でクネクネと動き、足首を掴もうとするような錯覚。
触れたら、冷たくぬめった感触で皮膚を溶かすような……そんな予感が脳裏をよぎる。
だが、目を凝らすと、それはただの濡れた奇岩に見える。
表面の凹凸が、指の形に似ているだけのように。
また空間が歪んでいるのか……?
それとも、この状態が見せているものなのか?
よくわからないなぁ。
俺の知識が高山病の幻覚だと訴えているが、この世界で生活している本能が、首筋の産毛を逆立てて叫んでいる。
皮膚が粟立ち、喉の奥が反射的に締まる。
この雲の層は、ただの通り道じゃない。
俺たちをじわじわと疲弊させて正気を溶かそうとする、山の意思にも見える。
霧が息を潜め、俺たちの吐息を盗み聞き、
次の動きを待っているような……そんな気配が、全身を包み込む。
「エレナ、目をつぶるな。……行くぞ。この厚い雲を突き抜けるまで、絶対に止まるな」
俺たちは、自分たちの吐息さえ凍りつきそうな灰色の闇の中、
さらに深く、垂直の迷宮へと攀じ登っていった。
そのまま先を進むと、視界が爆発した。
肺を焼くような冷気と共に、俺たちの全身を突き抜けたのは、この世のものとは思えないほど濃い『青』だった。
空が、青い炎のように燃え、視界を埋め尽くす。
息を吸うたびに肺が凍りつき、吐く息が青い霧となって散る。
目が痛いほど鮮やかで、頭の奥が眩暈のように揺れる。
青が、俺たちの体を貫き、内側から洗い流すような感覚。
「……っ、はぁ、はぁ……抜けた、のか……?」
振り返れば、ついさっきまで俺たちを飲み込もうとしていた灰色の闇が、
巨大な白い海の底へと沈んでいる。
標高は、おそらく2,000メートルを少し越えたあたりだろう。
俺の記憶にある山の景色とは、何かが決定的に違っていた。
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