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01.天界の門限

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 こんなに全速力で息を切らせて飛んだのは、いつぶりだろう。大昔、闇鴉に追われた時だってこんなに力を振り絞って飛んだりなんかしなかった。

 それが今や夕闇せまる中、雲海の上をとにかくばっさばっさと全速力で翼をはためかせている。もちろん風の精霊に追い風をおねがいしているが、いまいち出力が心許ない。

 そもそも天使は飛ぶものじゃない。
 翼なんて飾り。
 移動なんて転移魔法で、ぱぱっといくもの。
 たまに優雅さの演出にふわりと飛んで見せることはあるけど、それだって浮力は風の精霊の力を借りている。

 でも今は転移魔法も使えなければ、精霊の声も聞き取りにくい。

(万聖節前日に、うっかりリンボクの木の枝で昼寝しちゃうなんて)

 後悔先に立たずとはまさにこのこと。
 セフィはきゅっと唇を噛んで、とにかく急ぐことだけに集中した。

 遠く雲の上に、真っ白にかがやく扉が見えた。内側から乳白色の光をこぼしながらゆっくりと閉まりゆく。

 ぎりぎり入れるはずだった。
 羽根一枚くらいは扉の外に散るかもしれない。それでもこのスピードなら、なんとか間に合うはずだった。

 あともう少し。
 この隙間にすべりこめれば。
 今にも指先がその扉の内側に届く、そのときに。

 とつぜん強烈な衝撃を右肩にくらい、かるく吹っ飛んだ。
 セフィの指先を撫でた乳白色の光がみるまに遠ざかる。

「おっと、セフィ!きづかなかった!」

 声の主は大柄な赤髪の天使だった。そいつがするりと扉の中に滑り込む。たったいま、タックルかまして吹き飛ばしたセフィの代わりに。

「サマエル! おまえ!」
「悪いな! なんとか一晩、人間として生き延びてくれ!」

 セフィの恨みごとなど、どこ吹く風。飄々としたサマエルの台詞が終わる前に、まるで枯れた木が倒れるような音を立てて扉がしまる。

 そのとたん、セフィは自身の天使としての力が失われるのを感じた。
 ブロンドの髪も、サファイアのような瞳も、漆黒に変じる。
 身体を支えていた浮力がなくなる。
 翼が、身にまとっていた衣が、ほどけるように消えてゆく。
 当然のように重力に逆らえず、夕闇に染まる雲海に頭から突っ込んだ。

「風の精霊、たのむ……!」

 最後の力を振り絞って、地面に叩きつけられることはないよう祈る。今のセフィにできることは、せいぜいその程度だった。


 十一月一日、万聖節。
 それは聖人たちを祝福する、天界の一大イベントの日。

 そして、その前夜。
 年に一度、奈落の蓋が開くその日は、唯一天界の扉が閉じる日でもある。その日ばかりは悪魔も魔女も幽霊も妖怪も、狩人である天使たちの目を気にせず羽を伸ばすことができるのだ。
 

 これは、あまり知られていないのだが。
 天界の扉が閉まった後。
 万が一、下界に天使が取り残されてしまった場合。
 夜の帳が明けるまで、天使はその力の全てを失い、正真正銘ただの人間となってしまう。

 その、美しい魂そのままで。

 そんな彼らは悪魔の格好の餌食。
 万聖節前夜に下界に残された天使は、その多くが悪魔の標的になりやすい。

 万聖節前夜、つまりハロウィンである。
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